第14話
昨日ほどでは無いにせよ、やはり忙しくなった土曜日の午後八時前。
ただ昨日と全く違うのは、カウンターに陣取るいつもの常連客はそこには居らず、何故か岸本さんと美香が並んで腰掛け、もう一組のカップル(こちらはたまに見かける二人で、いつもはテーブル席に座っているが、今日は騒がしいホールからカウンター席に避難してきている格好だった)が、カウンター一番端でコソコソ話をしているという、おかしな状況の中で、僕はシェーカーを振ることになった。
あまり見知っている訳ではないカップルがカウンターにいる以上、岸本さんと美香とを深く相手にすることも出来ず、それより抑々、次から次へと上がって来るカクテルの注文に追われて、それどころではなかったという状況がそれを許さなかった。
まだまだ夕方というにも早いくらいの午後五時半前に店にやって来た美香は、先日と同じSea Breezeを飲みながら、六時からの団体リザーブ客を迎える準備で慌ただしく動き回る僕やスタッフ達を眺めていた。
そして、六時少し前にその団体客が現れたタイミングで、美香は「忙しくなりそうだから、帰るね」、そう言ってカウンター席から立ち上がろうとしたところに、「おばんですぅ。マスター、キンキンに冷えた『生』ちょうだいっ」と、勢いよく店に入って来た岸本さんと鉢合わせたのだった。
「あっ、君は、確か、Tomyさんの・・・、ええっと、美香さんだっけ?」
この人、何で私の名前知ってんだろう?そんな表情で岸本さんを見詰め返す美香に、僕はある意味気が気ではない。
岸本さんっ、そこは気付いても、スルーでしょうっ。
僕は視線で岸本さんに訴えるが、彼はお構いなしに更に美香に話し掛ける。
「なに?もう帰っちゃうの?Tomyさんも寂しがっちゃうよ。何だったら、私も今日ひとりだから、もうちょっと一緒に飲みません?」
美香が少し困った表情をして、僕の方に視線を送って寄越すので、それには僕が困ってしまう。
いや、美香が居残ってくれるのは嬉しいのだ。
しかし、岸本さんが何でまたいきなり美香に声を掛けたのかが理解できない。
美香同様、どうしたものかと思い悩む僕なのだが、当の岸本さんは僕ら二人に向かって如何にも『な、良いアイディアだろ』と言わんばかりのどや顔なのだ。
僕は僕で、こんなところで油を売ってる訳にもいかず、もうここは岸本さんに託すしかない、そう思い美香に告げる。
「うん、折角だからそうすれば?岸本さんが奢ってくれるよ、ね、岸本さん?」
「当たり前じゃん。いつもお世話になってるTomyさんの・・・、なんだからさ」
そんな
二人のことを気にはしながら、それでも店の忙しさに殆どその会話の内容も聞き取れないまま、美香の実に可笑しそうに笑う声や、岸本さんの『でしょ?』という声を耳にして、それから美香が時折僕に向かって『カズヒロさん、ホントに?』と振って来る言葉に、全く話を理解していないにも拘らず、愛想笑いで応え続けていた。
岸本さんが美香と話し始めて、薄々は感じていたが、岸本さんはかなり僕の話で会話を盛り上げてくれているようだった。
岸本さんなりの、僕に対する援護射撃なのだろう、そう思う。
気になったのは、岸本さんが美香との会話の中で、変に僕のことを上げ過ぎていないか、ということ。
今日の岸本さんは、僕を終始『Tomyさん』と呼ぶし、それに美香も美香で僕に『カズヒロさん』と言う。何だか他人行儀が過ぎて、いつもの『Tomyちゃん』とか『ますたー』だったり、美香には『カズくん』と呼んで貰った方がしっくりくるのに・・・。
店の壁掛け時計の針は午後八時を回り、団体客の注文もその数が減り始めたことで、店内は少しばかり落ち着きを取り戻し始めていた。そろそろ団体客の彼らは帰り支度を始める雰囲気だ。
この後、午後九時に次の団体予約が入っていたが、そちらは時間からして恐らくは居酒屋の後の二次会であろうということが想像出来たし、多分つまみの注文は殆ど入らないだろうから、ここまでのようにドタバタすることは無いだろう。
僕はカウンター内の作業台にダスターを掛け、ひと通りの整頓をし直すと、「ちょっと失礼」と岸本さんに声を掛けてから煙草に火を点けた。
「お疲れさん。今日は随分忙しそうだったね」
「ええ、まぁ。でも、昨日よりはマシなんですけどね。昨日はこんなもんじゃなかったんですよ。閉店まで、煙草も吸えなかったけど、今日はこうやって吸えてますから、はは・・・」
岸本さんに応えた後、僕は美香に向かって訊いてみる。
「随分楽しそうだったね。岸本さんって、面白いでしょ?」
何の話をしていたのか、探りを入れているみたいで少し気が退ける感じもしたが、思わず口を突いてしまったというのが実際のところだ。
これが僻み、やっかみ、そして嫉妬ってことなのだろうと、若干の恥ずかしさを自分自身に覚えながら、美香の返答を待つ。
「うん、すっごく可笑しいんだよ、岸本さん。笑い過ぎちゃった。それと、カズヒロさんの最近の話もたくさん聞いたよ」
「え?何を聞いたの?いや、聞かされたの?岸本さん、何話したんですか?」
岸本さんは「いや、俺は事実を事実のままにだねぇ、Tomyさんのことを・・・」、そう言ってニヤリと笑い、そして美香に目配せをした。
そして美香がそれに応えてニコリと微笑むのを確かめた岸本さんは、続けて僕に言った。
「明日、遊びに行くんでしょ?二人で。その時、質問責めにあって、しどろもどろになっちゃえ」
それを聞いた美香が、声を上げて「あはははっ」と笑う。
僕はワザとらしく目を白黒させるような素振りで、カウンターの二人を交互に見遣ると、美香は更に可笑しそうに笑った。
「美香さん、何かもう一杯飲む?」
美香の三杯目だったスプモーニの空いたグラスを見て、岸本さんは美香にそう問いかけながら、自らの腕時計をこれ見よがしに確かめる風な動きをすると、次に敢てなのか何なのか、今訊いたことと反対のことを言い出す。
「あれ、もうこんな時間、八時半だよ。もう一杯飲んでる内に、次の団体客、来ちゃいそうだよね。そしたら、まぁた、Tomyさん、ドタバタだね」
岸本さんの言葉は、明らかに美香に帰ることを、やんわりと促していた。
「ありがとうございます。でも、今日はもうこれで帰りますね」
美香は岸本さんの言葉の意味をちゃんと理解している。僕はそう思うと同時に、あの頃の美香に、もし僕が同じようなことを言ったとしたら、彼女は怒って『なに?ミィカに帰れって言ってる訳?』、若しくは帰りたがらない美香が『ミィカと一緒に居るのが嫌なの?』とグスグス泣き出すか、どちらにしても険悪なムードになっていたに違いない、そう思った。
「そっか。じゃ、またね。気を付けて帰るんだよ」
勿論岸本さんは美香を引き留めることはしない。
「はい、ありがとうございます。じゃあ、また。カズヒロさん、お会計お願いします」
「いいよ、美香さん。私が誘ったんだから、払っておくよ。それにさっきも言ったけど、いつも好くして貰ってるTomyさんの彼女さんだ。誘った私が払わないと、あとでTomyさんに恨まれちゃう」
「でも・・・」
美香が僕に意見を求めるようにこちらを見る。
岸本さんに美香のことを、僕の『彼女』と言われ、変な気分だ。
美香は・・・特に照れるでもなく、至って普通・・・か・・・
僕は自らの照れを二人に気付かれまいと、したくもない咳払いをこれ見よがしに「ゴホン」として見せてから、美香に言った。
「良いんだよ美香。岸本さんがそう言ってくれてるんだから、今日は甘えちゃいな。岸本さんの気持ちが変わらない内に、『ごちそうさま』って言っちゃって。岸本さんには、僕からあとでお礼しとくからさ」
「うん、分かった。それじゃ、岸本さん、今日はごちそうさまでした。今度また」
そう言って美香は席を立つ。
「ああ、今度またね。あ、そうそう。まだそんなに遅い時間じゃないけれど、支払いが浮いた分、タクシーで帰りなさいね。お酒も飲んでるんだし、気を付けて」
「はい、分かりました。そうします」
僕に「それじゃ、あした」、そう言って小さく手を振って店を出て行く美香を見送り、岸本さんを振り返って、ありがとうございました、そう言おうとすると、岸本さんがそれより先に、
「Tomyちゃん、なにボーっとしてんの。下まで送っていきなよ。ほらっ」
そう僕を急かす。
「な、北島君、ちょっとくらい、良いだろ?」
「あ、はい、マスター、行ってきてください」
レモンのスライスをしていた北島が、岸本さんの言葉に慌てて反応した。
僕も急にそんな気になって、前掛けを外すと、小走りに店を出て、美香の後を追って階段を駆け降りた。
「美香」
建物から歩道へ丁度出ようとしているところで、僕に呼び止められ、立ち止まり振り返った美香が、「どしたの?」と言う。
「いや、その、なんだ・・・。今日は、ありがとう・・・来てくれて」
「ううん。うちが来たかったから、来たの。ありがとう、だなんて・・・」
「あ、でも・・・ありがとう」
「ひょっとして、岸本さんに『行け』って、言われた?」
「え、あ、何で・・・、分かる?」
「うん、分かるよ・・・。でも良かったよ・・・、カズくんに良い友達、たくさん出来たみたいで、ちょっと、ミィカも安心したよ・・・」
美香の言葉の意味に、僕は解釈を戸惑う。
岸本さんは美香に、一体何の話をしたのだろうか・・・。
僕は黙ったまま、美香を見詰めることしか出来ない。
「じゃあ、行くね」
そう言って車道に向かって右手を挙げる美香の目の前に、ちょうどタイミングよく通り掛かったタクシーが、音もなく停車した。
後部座席のドアが開き、一度は乗り込もうとした美香が、僕を振り返り、踵を返してもう一度僕に近寄って来る。
それから美香は、何やらヒソヒソ話でも始めるかのように手を口に当てるので、僕も釣られて中屈みに顔を近づけた。
一瞬何が起こったか分からなかったが、美香は何も言わずに僕の頬に「ちゅっ」とキスをしたかと思うと、直ぐさまタクシーに戻り、「じゃあ、あした、待ってるね」、そう言ってタクシーに乗り込んだのだった。
僕は呆けたまま、小さくなっていくタクシーのテールランプを見送った。
何気なく擦った頬に、温かい美香の唇の感覚が、いつまでも残っている・・・。
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