第13話

 午前二時に店を出て、岸本さんと北島の二人と別れ、徒歩十五分程度の自宅アパートへと歩き始めた僕は、携帯電話の振動に気付き、胸ポケットからそれを取り出した。


 LINE着信。

 2:08

『お仕事、お疲れさま。あんまり寝てなかったけど、大丈夫だった?

 明日、明後日と、お仕事頑張ってください。

 では、おやすみなさい。

 また、LINEします。

 しても良い?』


 僕は嬉しい。単純に。

 即、返信の為、キーボードのタップを始める。


『昨日は、ありがとう。

 楽し・・・


 僕は慌てて、今書きかけた文章を消した。

 幾らなんでも『楽しかった』は無いだろう。

 いや、実際、美香と再会できたこと、更には半日も一緒に過ごせたことに関しては、気持的には『楽しかった』とか『嬉しかった』というのは、僕自身にとって間違いではなかった。

 確かに車中で話している最中は、どう仕様もなく辛くて、みっともないくらいに涙も流した。

 それでも結果、美香と初めて結ばれた感動は、北島に指摘された通り、僕に心のゆとりを与えたことは紛れもない事実だ。


 僕は相変わらず、下衆な男だろうか。


 返信で、『楽しかった』なり、『嬉しかった』なりと書いてしまって、そのことが、何に対して楽しかったり嬉しかったのか、おかしな勘違いを生みそうで、勢いで返信ボタンをタップしてしまっていたらと思うとゾッとした。

 LINEメールを書きだしたら、書きたいことはいくらでも在って、書いても書いても収まり切れないような気がしてきたし、だからといって、深夜二時過ぎに幾ら携帯電話だからとはいえ、実家に滞在中の美香に電話することも憚られる。

 それでも、返信だけは早く送りたい。


『ありがとう』


 僕はそれだけを書き込むと、送信ボタンをタップした。

 溢れ出しそうな胸の中の想いと、それを抑え込もうとする眉間の軽い頭痛のようなものが、ちょうど下顎のリンパ節辺りでせめぎ合い、何とも言いようのない安定を欠いてフラつく感じは、これは決してワイルドターキーのせいではない。

 早く帰って、シャワーを浴びて寝ちまわなければ、自分の所在さえ分からなくなってしまいそうだ。

 美香とのほんの一言のLINEのやり取りに、嬉しくて無条件にニヤけてしまう自分と、それを必死で抑え込もうとしている前頭葉。

 やはり、もう一言、二言でも書き足してメールしたい、いや、直ぐにでも電話を掛けたい・・・。

 今すぐにでも、会いに行きたい。

 そして、ふと、いつか誰かが言っていた、こんな言葉を思い出した。


『言葉は気持ちを伝えない

 話して半分

 文字にして三割

 そんなものだ・・・』


 一瞬、乾いた笑いが、僕の頬を引き攣らせる。

 そんなものなのだろうか・・・。

 ・・・きっと、そんなものなのだろうな・・・。

 まるで今の僕のことみたいじゃないか。そんなことを、今思い出すなんて、皮肉なものだ。

 生暖かい纏わりつくような風が、不意に身体を包み込み、じんわりと汗ばむ感覚、そして少し離れた目の先の街灯が、少しぼやけて見える気がする。


 あと十日もして連休を抜けたら、ここは梅雨前線に入る・・・。


 部屋に帰ってシャワーを浴びると、一気に煽ったワイルドターキーがここにきて効いてきたのか、ベッドに沈み込むように堕ちていった。



 一度は午前九時過ぎに目を覚まし、携帯電話を確認し、少しガッカリして、再び二度寝してしまい、次に気が付いたのは午後一時過ぎだった。

 一度目に起きた時とは違い、ちゃんと起き上がってベッドの淵に腰掛けてから携帯電話を手に取り、恐る恐る画面をタップして通電させてみる。

 そして今度はあった!美香からのLINEメール。

 慌て過ぎて、僕は携帯電話を落っことしそうになり、それを落とすまいと思わず足を延ばすと、携帯電話はその角を向けて、僕の足の甲を直撃した。

「痛ってぇ」

 誰も聴いていない一人きりの部屋なのに、僕は声まで上げてしまい、結局は床に落としてしまった携帯電話を苦笑しながら拾い上げると、再度画面をタップしてLINE画面を開く。


 12:18

『おはよう☀

 まだ寝てるかな?

 私は今日は特にすることも無かったので、

 お姉ちゃんの買い物に付き合わされることになりました。

 これから行ってきます。(^O^)/

 今日も、お仕事頑張ってください。

 それではまた』


 何てことはない内容なのだけれど、僕は自分の顔が綻んでいることにも気付いていたし、胸の辺りの暖かさが心地よい。

 僕は直ぐさま返信入力を始めた。


『うん、今起きたよ。

 メールありがとう。

 仕事、好きじゃないけど、少しやる気になったよwww

 早く、会いたい


 まただ。

 僕は『早く、会いたい』の文字に引っ掛かり、暫し手を止め、考え直して、今朝方同様『早く、会いたい』の部分を削除して、『そちらも気を付けて行ってらっしゃい』に書き換えた。


『うん、今起きたよ。

 メールありがとう。

 仕事、好きじゃないけど、少しやる気になったよwww

 そちらも気を付けて行ってらっしゃい。

 それじゃ、また』


 そして、送信。

 送信完了と同時に既読サインが付き、程なくして、可愛らしい猫の「了解」スタンプが届けられると、僕は何だか幸せな気分になり、ボンヤリとそのスタンプを眺めていた。

 それから僕は立ち上がり、シャワーを浴び、仕事にはまだ随分と早いのだが、仕事の準備を整え部屋を出た。


 店に出勤する前に、街に出て、ペアのシルバーのリングを買う為に・・・。


 もう昨晩の岸本さん達との会話のことは、既に綺麗さっぱり忘れていた。




 金曜日の本日、当たり前だが週末ということ、それと大型連休突入の前日、そんなことも重なって、店は大盛況の忙しさになった。

 僕らは従業員同士のお喋りは愚か、お客との会話さえもおざなりになる有様で、僕は只管ひたすらシェーカーを振り、ステアグラスをステアし、フルーツをカットしてはカクテルピンに刺し、グラスを洗っては拭き、それから氷の塊にアイスピックを突き立てる。

「マスター、今日はやけに忙しそうだね」

 カウンターに陣取る常連客からの揶揄い半分の声が掛かるが、それに構っていられる状況でもなく、愛想笑いを浮かべながら聞き流し、次々に上がって来る注文に応え続けた。

 カウンターに居座り続ける常連客を除いては、客席はもう既に三回転はしただろうという午後十一時過ぎ、何とか落ち着きを取り戻したカウンター内で、シンクに溜まった大量のグラスを眺めながら、カウンターの常連客達に「ちょっと失礼」と断って煙草に火を点ける。

「マスター、お疲れさん。何なの、今日は?初めてだよ、こんなお客でいっぱいのこの店見たのは」

 カウンターの一人の常連客の声に、僕は溜息交じりに答える。

「僕も初めてです。連休の始まりが、週末にバッチリ重なっちゃいましたからね、今年は。それで、大学生の団体客が、オープンから二時間於きに予約入っちゃって・・・。今やっとその予約が切れて落ち着いた感じです」

「そうかぁ、あの騒がしかったのは大学生だったんだね。道理で元気な訳だ。でもさ、大学生って、人の迷惑考えない人種だよね」

 それには別の常連客が口を挟む。

「いやいや、俺たちだって、昔はあんなもんだったと思いますよ。傍若無人って言うか、他人の迷惑なんて顧みること、無かったもん。社会の仕組みなんて、これっぽっちも知らなかったし」

「違いねぇ」

「それでも奴らもその内数年で、学生時代、何て自分はバカだったんだ、もっと真面目にやっとけばよかった、って、そんで、社会の厳しさを味わうんだよ」

「そうそう、今だけは自由にやらせてやろうよ」

「そう言えばそうだったかもね、俺たちも。散々悪さして、他人に迷惑掛けまくってたかもな、知らんけど」

「お前は今でもあんまり変わってないだろ?」

 カウンターの常連客同士で盛り上がる様子を傍目に、数年前までやはり学生だった自らに想いを馳せる。

 学生時代の消してしまいたいような思い出、美香との再会、そして今日の仕事の忙しさにかまけて忘れていたこの二日間の様々なこと、そんなもの達が一気に脳内に溢れ出し、今目の前に居る常連客の彼らが、まるで僕のことを指摘しているかのように思えて、額に嫌な汗をかいてしまう。

「ね、マスターは学生時代、どんな学生だったの?さっきのあんな感じ?」

 僕はいきなり振られた質問に、おかしな思いを巡らしていた自分を晒すまいと、作り笑いで誤魔化しながら、煙草を灰皿に押し付ける。

 答えあぐねて焦る僕だったが、別の常連客が割って入ってくれた。

「いや、Tomyさんは違うだろ。どちらかいうと、もっとこう、何て言うか、学生の頃からここみたいなカフェバーで、ひとりお酒を飲んでる感じじゃない?しかもさ、ただ飲むんじゃなくって、研究熱心に興味深く、お酒とか店の雰囲気とかを味わいながら。じゃなかったら、この若さでこの店のマスターとか勤まんないでしょ」

 僕は「そんなこともないですけどね。まぁ、ご想像にお任せします」とだけ答えたが、恐らくは巧まずして出してもらったこの助け舟に、内心ホッとするのだった。


 その後、店はカウンター、ホール共に、一組、また一組とお客は退けていき、閉店間際の午前一時前には、店内にお客の姿は一人も居なくなっていた。

「いやぁマスター、今日は何だったんスかね、あんなに忙しかったと思ったら、退けるのは随分早かったっスね」

 シンクでの洗い物を終えた北島が、前掛けを外しながら、カウンターに並んだボトルを棚に戻す僕に声を掛けて来た。

「そうだな。明日から連休突入したら、皆、旅行だ何だって忙しくなるんじゃないのかな?それで連休前に、暫く会えなくなる連中同士で騒ごう、みたいな感じだったんじゃないの?ま、明日くらいまでそれが続くかも知れないけど」

「そうっスかぁ。明日もかぁ・・・。良いスねぇ、大学生って。俺も大学行けば良かったなぁ・・・。でも勉強、嫌いだったしなぁ」

 北島は地元の高校を卒業した後、昼間はサーフィンをしながら、夜はこの店で働いていた。

 彼が働き始めてもう二年になるが、確か歳は僕より少し下で、今年23歳だった筈だ。

 今はサーフショップなんかで働くよりも、稼ぎの割の良い夜の仕事でお金を貯めて、来年の冬にバリ島へ長期のサーフィン修行に行く計画があるという。そして、プロのサーファーを目指しているとも。

 僕はそんな彼が羨ましくもあった。

 十代の頃から夢や目標を持って、それを続けている北島を、歳は下だが、格好いいとさえ思う。

 あの頃の僕には、そんなものは一つの欠片すら無かった。

 今も明確に何かが有る訳でもない・・・。

「そういえば、マスターの学生時代って・・・」

 北島は言いかけて、「あっ」と小さく呟き、それ以上は口を閉ざした。

「いいよ、気にするな・・・」

「すみません・・・」

「いいって・・・」

 その後は特に北島と会話することも無く、そのまま店を閉めて、帰途に就いた。


 部屋に帰ってシャワーを浴び、シャワーから上がって携帯電話を確認すると、昨晩と同じように美香からのLINE着信があった。


 1:48

『お仕事、お疲れさまです。

 今日も大変だった?

 ゆっくり休んでくださいね。

 こっちはお姉ちゃんの買い物、けっこう連れ回されて・・・ww

 あ、明日、お店に遊びに行って良いかな?

 ダメ?』


 本当に今しがたの着信だ。

 今日もまだ起きているのか。

 僕は直ぐに返信を送る。


『お疲れさま。

 そっちも大変だったんだねw

 こっちはこっちで目が回りそうなくらい忙しかったよ。(ヽ’’ω`)

 明日、勿論構わないけど、忙しかったら、話す時間無いかもよ。

 それでも良ければ・・・』


 直ぐに既読サインが付く。

 そして程なく着信。


 2:02

『うん、分かった。

 じゃあ、早い時間に、顔出すだけ出してみるね(#^^#)

 忙しそうだったら、帰るよ(T_T)

 それじゃ、おやすみなさい』


『うん、おやすみ』


 送信ボタンをタップして、何故だか北島のことを思い出す。


 僕には未だ何一つ明確な夢も目標も無い。

 こんな僕で、果たして美香に・・・。

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