第2話
美香に会うのは四年ぶりくらいになる。
最後に会ったのは、『会った』というより、『見掛けた』と言った方が正確かもしれない。
街中の交差点で、談笑しながら道を挟んだ向こう側の若い男女数人のグループの一人に美香が居た。いや、ほんとうにそれが美香だったのかどうかは分からない。
黄昏時、似たようなシルエットの女性だっただけかもしれない・・・。
彼女は高校卒業後、暫くは以前からのアルバイト先の喫茶店でウェイトレスをしていたようだが、その後、東京で就職したらしい。どんな企業に就職して、何の仕事をしていたかは分からないけれど、人づてにそんな話を聞いていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
その日、彼女はいきなり僕の前に現れた。
四月の終わりの水曜日、午後五時半。僕はいつも通りBarのオープン準備でカウンターの中でグラスを拭きながら、店のモニターに映るMTVをぼんやりと眺めていた。
一応は午後五時オープンではあるのだけれど、そんな時間にお客が来た
カラン・・・コロン・・・と少し遠慮がちに鳴ったドアベルに反応して、少し驚いて「あ、いらっしゃいませ」と声を掛ける。
カウンター前までやって来た女性客に目を向けると、背はそれほど高くはないがスラッとしたフォルムのその女性は「カウンター、良いですか?」と伏し目がちに尋ねた。僕はその声を聞いて、思わず「えっ」と声を上げてしまった。
「美香・・・いや、美香ちゃん・・・?」
いや、分かっている。それが美香なのは分かっている。更に僕を混乱させたのは、顔を上げた彼女の透き通るような微笑みと、ひと言。
「ただいま。会いたかったよ・・・」
僕は耳を疑った。
美香が僕に会いたい、と?
違う、そんなことは無いはずだ。
僕が会いたかったのだ。
会って、色々なことを謝りたかったし、もし出来るなら、美香のことが本当はどれ程大事だったかということを思い知った、そう伝えたかった。
謝って許しを請おうなんて思ってはいない。それに美香に対する想いが言葉で伝えられる程の語彙力が、自分には備わっていないことも理解していた。それでも会って話を聞いて欲しかった。
そして、そんなことは恐らく、一生叶わない望みだろうと思っていた。
所謂『どの面下げて』ってことだ。
一体何が起こっている?こんな状況を想像だにしたことは無かった。美香と再会できるなんて。しかも美香が突然訪ねてくるなんて・・・。
「座っても大丈夫?それともまだオープン準備中?出直そうか?」
美香の言葉に我に返った僕は、「あ、ああ、勿論。どうぞ、そちらへ」と、慌ててカウンター席に促す。
いや、これもまた違う。美香の言葉で我に返って慌てた訳ではない。
僕が慌てた本当の理由は、「出直そうか」というフレーズに対してだった。ここで彼女を見送ってしまうと、本当にもう二度と会えない気がした。
「ありがとう」
そう言ってカウンターの席に腰掛けた美香は、座ったまま店内をぐるっと見回して、再び僕の方に顔を向けると「良いお店だね」と微笑むと、「まさか、カズヒロさんがバーテンダーになるなんて、思いもしなかった」とも言った。
「あ、うん、そうですね、ははは」
僕は「良いお店」と「バーテンダーになるなんて」と、どちらに反応していいのか迷った挙句、丁寧語交じりの可笑しな受け答えになる。
言葉もそうだが、どんな風に美香と接すれば良いのか量りかねる僕は、何とも言えない胸の内で騒めくさざ波に、どうにも落ち着かない。
「メニュー貰って良いかしら」
また慌てて「あ、はい」と言いながらメニューを差し出す僕に、美香は「どうしたの?」尋ねる。美香の表情は至って普通に『どうしたの?』の言葉通り『不思議そうな』顔をしている。
「えっ、いや・・・」
僕は何と言って良いのやら全く分からなくなってしまう。
「カズヒロさん、ちょっと可笑しい。喋り方も変よ」
彼女は僕を
そう考えると、何だか少し意地悪が過ぎるとも思ったが、そんな風にも見えない。
「カクテルとかも作れるの?」
美香が現れてから、会話の主導権はずっと彼女だ。
「あ、ええ、勿論。何か作りましょうか?」
ダメだ、この流れで喋り方を変えられない。しかし、昔の付き合っていた頃のように話すことも、僕の中では決して許されることではないとも思っているのだ。
「そうねぇ、じゃあ、何かおススメを一杯作って貰って良いかしら」
ふと気付く。
そうか、彼女の話口調も少し昔と違っている。
そういえば、イントネーションから訛りが抜けているし、言葉の一つ一つが大人の女性っぽいというか、あの頃の女子高生なりの子どもっぽさが無くなっているというか・・・。
そもそも僕のことをちゃんとフルネームの「カズヒロさん」と呼ぶ。昔は「カズくん」と呼んでいた筈だ。
「おススメ、ですか・・・。分かりました」
僕は敢てちょっと考える仕草をしてから、スミノフウォッカ、GFジュース、それにクランベリージュースをカウンターに準備して、ロックアイスをアイスクラッシャーに入れ、ハンドルを回す。
出来上がったクラッシュドアイスを、先ほど拭き上げた大きめのロックグラスにたっぷりと掬い入れ、そのグラスにウォッカ、GFジュースを等量注ぎ、それからクランベリージュースでグラスを満たす。
軽くステアして、最後にレモンの輪切りスライスをカクテルピンで半月に刺して飾る。
「ストローはお使いになりますか?」
「ううん、大丈夫」
「では。Sea Breezeで御座います」
僕はそう言って、コースターに乗せたピンクのカクテルをカウンター越しの美香にスッと差出した。
「うわぁ、きれい」
美香は差出されたグラスを見ながら、手をパチパチと叩く素振りをして見せる。
まだ西日が当たる店内のカウンターで、陽の光に照らされたグラスは、確かにキラキラ輝いて、我ながら美しく良い出来栄えだ。少し気持ちが落ち着いてきた。
「これ、何て言ったかしら?カクテルの名前」
「ああ、Sea Breeze・・・です」
「海の、そよ風・・・かぁ。良い名前だね。さて、味は・・・」
そう言って軽くグラスに口を付けた美香が、瞬間、パチッと目を見開くのを、僕は見逃さなかった。心が軽くなるのが自分でも分かる。
「どう?」
「うん、美味しい」
「でしょう。君、昔よくGFジュース、好きで飲んでたよね」
「え、そんなこと覚えてたの?」
「もう一つ覚えてる。君はピーナッツチョコはニキビが出来るから食べないって」
「やだぁ、そんなことも?」
美香がニコリと笑って、もう一口グラスに口を付けた。
そんな美香を見ていると、何だか不思議な気分になる。ひょっとして、昨日も彼女はここに座っていなかったっけ?と。
「どうしたの?私の顔に何か付いてる?」
「あ、いや、何にも・・・。って言うか、君、昨日・・・」
まて待て、本当に昨日、美香がここに居たとしたら、それはオカルトか若しくは僕がアタオカだ。
「昨日?どうかした?」
「いや、どうもしない。何でもないよ」
会話がおかしい。普通のお客とバーテンダーの会話でもないし、赤の他人でもなければ、だからと言ってもう彼女彼氏の関係でもない。男友達、女友達の関係というのもちょっと違う気がする。
どんな距離感が正しいのか、僕には全く感覚が掴めないでいるのだけれど、果たして美香はどうなのだろうか。僕から見て、美香にはそんな動揺している様子は見受けられない。その喋り方も東京言葉?のせいで、随分と落ち着いているように聞こえる。
店の壁掛け時計は、いつの間にか午後六時を既に回っていた。
美香が現れて以来の、本日二度目のドアベルが、今度は勢いよくカランコロンッとそれは鳴り響いた。
何となくではあるが、僕は少しだけホッとした心持ち半分、もう半分は無理矢理に美香から引き剥がされる焦燥感を、同時に自分の胸の中でぐちゃぐちゃと入り混じるのを感じる。
「マスター、おばんですぅっ。四人なんだけど、大丈夫?あれっ、先客がいらっしゃった、俺らが一番乗りと思ったら」
入って来るなり、カウンター内の僕とカウンターに腰掛ける美香に目を向けたワイシャツにネクタイ姿の男性は、近所にある地方新聞社で記者をやっている岸本さんだった。
「ああ、いらっしゃい。今日は早いですね。どうぞ、奥のテーブル使ってください。四名様ですね?今、メニューお持ちします」
僕は至って普通を装って返事をしたが、美香や岸本さんに、僕の姿はどういう風に映っているのだろうかと気が気じゃない。
「あ、いいよ良いよ、ゆっくりで。取り敢えず、生、四つ。キンキンに冷えたヤツ、宜しく」
岸本さんの後に続いて入って来た三人、男性一人と女性二人は、店の中をキョロキョロと見渡すようにしながら、岸本さんの後に続いて奥のテーブルに向かった。
僕はその一人一人に「いらっしゃいませ」と会釈をしながら、奥のテーブルに促すと、岸本さんが彼等に向かって僕を紹介する。
「あ、この人、マスターのTomyさん。富永・・・ええっと、下の名前なんだっけ?」
「カズヒロです」
「あ、そうそう、富永カズヒロさん、通称Tomyさん。歳は俺と同じくらいだっけ?」
「いえいえ、岸本さんより多分下ですよ」
恐らく岸本さんは僕の2~3コ上の筈だ。
「ま、歳のことはどうでも良いや。兎に角、ここのマスターで、凄く良い奴だから、俺が居ない時でも、君らもたまに来てあげてよ」
「以後、お見知りおきを・・・」
僕は一人一人に再度会釈をしながら、営業スマイルを向けて、「宜しくお願いします」と付け足し、注文のビールの準備をするために踵を返した。
カウンターの中に戻った僕は、こちらの様子をジッと伺っていた美香に気付き、「ちょっと待っておいて」と言ってビールジョッキ専用の冷凍庫からジョッキを四つ取り出し、ビールサーバーの脇に並べていると、美香がポツリと言う。
「・・・Tomyさんって、呼ばれてるんだね・・・。いいよ、私は気にしなくて」
そう言った美香の言葉に、寂しさにも似た妙な気分が湧き上がる。
今この瞬間、全てを放り出して、美香の手を引いて表に飛び出したいと思う気持ちの昂り、これって僕はどうかしてしまっているのだろうか。しかし、そんなことが出来る筈もなく・・・。
どうにかこうにか平常心を保ったフリをして、僕は四杯分のジョッキにビールを注ぐのだけれど、どう考えてもいつもより泡ばかりになってしまう気がする。気のせいか?
あと五分か十分待てば、キッチン担当アルバイトの
実際のところ、いつも「空気が読めない」と、スタッフ連中から揶揄われている聡が来たところで、何がどう変わるという訳ではないだろうが、今は逆に空気を読めないスタッフの方が良いのかもしれない、僕的には。
多くなりすぎた泡をスプーンで掬って、更にサーバーから生ビールを注ぎ足しながら、僕はそれこそ一日千秋の想いで次のドアベルが鳴るのを待っている。
何とか四杯分の生ビールを見栄えよく注ぎ終え、そのジョッキを持って奥のテーブルに向かう。
「お待ちどうさま。生、四杯ですね」
そう言いながら、ジョッキをそれぞれのお客の前に置き、更に、本当は言いたくはないのだが、言わざるを得ない。
「お食事、おつまみのご注文は如何なさいますか?」
「ええっとぉ・・・」
岸本さんが連れてきた若い男性が、生ビールと一緒に持ってきたメニューを見ながら注文をしようとして、指でメニューをたどり始める。
その時、岸本さんがカウンター方向を一瞥してから、注文をしようとした男性客の機先を制するように僕に向かって言う。
「取り敢えず、ミックスピザとメキシカンピザ。それにナッツ&チョコと、リンゴとチーズで良いや。また後で頼むよ」
ナイスッ、岸本さんっ。
岸本さんは続けて言う。
「ますたー、貸しね」
そして少し意地悪っぽくウインクをして寄越す。
ハイハイ、分かりました。借りは倍にしてお返しします。
「畏まりました。ミックスピザとメキシカンピザ、ナッツ&チョコ、リンゴさんチーズくん、以上承りました」
僕は踵を返してカウンター内に向かう。
すべての注文はカウンター内で行えるものばかりだ。が、しかし、後で岸本さんの追及が少し怖い。色々と根掘り葉掘り訊かれるんだろうなぁ。
カウンター内に戻り、美香に何となく愛想笑いをして見せてから、「ちょっと待っておいて、おつまみの注文やっちゃうから。それから、もうすぐキッチン担当のアルバイト来るから。あ、何か飲む?何か作りましょうか?」
言葉がおかしい。丁寧語なのか、友達言葉なのか、ごちゃごちゃだ。
美香はフッと一瞬笑みを浮かべたが、直ぐに真顔に戻ってこう言う。
「また、今度にするよ。忙しそうだし」
僕は慌てる。やっぱり今直ぐにでも仕事を辞めたい。
「あ、あのさ、今日俺、仕事十一時までなんだ」
何を言っているんだ。そんな夜分遅くに、彼女にどうしろと。
美香は少し考える風にしてから、僕に視線を合わせるようにして、ニコッと微笑む。
「うん、分かった」
そう言ってカウンターの席を立ち、美香は「お幾ら?」と訊く。
美香は何が「分かった」のだろうか?もう僕は気が気じゃない。
僕が会計金額を言い澱んでいると、美香はもう一度「ねぇ、お幾らかしら?」と訊き直す。
「あ、ごめん。じゃあ、700円頂きます」
美香は小銭でちょうど700円を支払い、財布をハンドバッグに仕舞うと、「じゃ、また後で」と、小さく手を振って見せてから、そのままドアに向かった。
え?
僕は声には出さないが、心の中は激しく動揺していた。
今、彼女は『後で』って言ったよな。確かにそう言った筈だ。そう聞こえた。
受け取った700円をレジスターに仕舞いながら、今しがた彼女が出て行ったドアを見詰めるようにして、彼女が言った言葉をぼんやりと思い返す。「また後で、か」。
いきなりドアが開き、けたたましいドアベルの音と共に、若い男が一人飛び込むように駆け込んでくる。
「すみませんっ、遅くなりましたっ」
息を切らしながら聡は謝ると同時に、手を洗いにカウンター内のシンクに向かう。
時計の針は確かに午後六時半を過ぎていた。
「いつも言ってるけど、遅れそうな時は、先に連絡してな」
「すみません」
「ま、良いけど。次は気を付けてな」
「あ、はい、すみません」
美香が帰ってしまった今となっては、そして「また後で」との言葉を残して出て行った美香のことを考えれば、聡を責める気にもならない。
まだ僕は少しぼんやりしていた。
「ねぇマスター、何か良いことあったんですか?」
「は?何で?」
「いや、何でもないっス」
嘘だろ、空気読めないはずの聡に読まれてるのかよ。
「兎に角、準備できたら、岸本さんたち来てるから、挨拶して、フードの注文取ってこい。今受けてるのはピザとチョコだから、こっちでやるわ」
「あ、ほんとだ。珍しいですね、こんな早くから・・・。さっきも一人、階段で女の人とすれ違ったし。お客さんだったんでしょ?」
「あ、ああ。いいから、早くしろ」
「はーい」
カウンターから出て行った聡は、岸本さんたちのグループと談笑しながら注文を取っている。
僕はピザをオーブンに入れ、チョコとナッツを器に準備してながら、それでも尚、頭の中は仕事には集中出来ていない。自分でも笑ってしまうほど、気持ちが浮ついているのが分かる。
多分、今日は仕事上がりまでこんな感じなんだろう・・・。
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