ねぇ、ほんとうって、どこにあるの
ninjin
前編 再会
第1話
「ねぇ、かずくんさぁ、明日、暇してる?ってか、暇っしょ?」
「はぁ?失礼な奴だな。明日は・・・。あ、あれだ、あれ・・・」
美香は少しニヤニヤしながら、「あっそ」と言って、カウンター内のサイフォンを木べらでかき混ぜる。そしてもう一度同じことを言う。
「やっぱ、明日、暇っしょ?」
うん、暇だ。くそっ、何だか腹が立つ。僕は黙ったまま携帯電話のSNSニュース画面を見詰める振りをするが、書いてある文字の内容は全く頭に入って来なくなってしまった。
自分が実際には何に腹を立てているか分からない。何なのだろう?
「はい、キリマンジャロ、お待ちどうさま」
美香がコーヒーを差し出したので、思わず「ありがとう」と言ってしまう。腹が立っているにも拘らず、だ。
しかし、だからと言ってカウンターの席を立ってテーブル席に移ったり、店自体を出ていく勇気?も無い。
勇気だろうか?決断?
まぁ、それはどうでも良い。ただ、ムカついている。多分、美香に対して。
「ねぇ、何か怒ってる?」
コーヒーをひと口啜ったところで、美香が先ほどより少し神妙な面持ちをして訊いてくる。それでもまだ目が笑っている様に見えた。
「いや、別に怒ってないよ」
僕は明らかに嘘と分かる嘘を吐く。けれど、何を怒っているのかは自分でも分からない。
「あっそ」
今度はかなり素っ気なく言った彼女は、そのままカウンター裏のキッチンへ入っていってしまった。
もうすぐ午後十時。お店も終わる時間だ。
「マスター、先にお勘定」
僕はカウンター端のレジスターで、今日の売上計算か何かをやっているマスターにコーヒー代を支払って、再び携帯電話に目を遣った。おや、いつの間にかLINEにメッセージが一件入っていた。
誰だろう、こんな時間に。
えっ、智恵美さん?
僕は慌てて智恵美さんとのトーク画面を開く。
『遅くにごめんなさいね。明日の午後、時間取れないかな?
もし大丈夫なら、申し訳ないけどすぐ返信欲しいんだけど。
折り返し電話するから。
ほんと、急でごめんなさい。
あ、それと、この着信から一時間以上経ってたら、無視して。』
僕はLINEの着信時間を確認する。「21:47」。
今から三分前、丁度支払いの為に携帯電話から目を離していた間だ。
一瞬考えた。正直に話していいことかどうかは内容次第だが、明日が暇で無くなる。兎に角、美香の「どうせ暇なんでしょう?」という言葉を全力で否定できる。
そう思った瞬間、僕は智恵美さんに返信を打ち込む。
『良いですよ。電話ください』
明日、多分、美香は僕と何処かへ行くつもりだ。というか、僕のバイクで何処かへ連れて行けと言うつもりだろう。
けれどそれは、ここ最近のワンパターンのツーリングデートで、僕にとってはあまり乗り気のしないものになっていた。
美香と付き合い始めてやがて一年。彼女のことを嫌いになった訳ではない。しかし、自分でもよく分からないのだけれど、何かモヤっとした苛立ちというか、釈然としない腹立たしさが、ここ最近続いている。
これが倦怠期ってやつなのかな。
そんなことを思っていると、案外早くに電話着信のコールが鳴る。
「はい、もしもし、智恵美さん?どうしました?あ、ちょっと待ってください。店の外に出るから」
僕は携帯電話を耳に当てたまま、席を立ち、お店の出入り口へ向かった。
「あれ、飲んでたの?ごめんね」
「あ、いや、コーヒーをね。今出るから、ちょっと待ってください」
多少勢い余って扉を押し開けてしまったせいで、カランコロンッと鈴が大きめの音を立てて鳴ってしまった。
「あら、随分レトロな喫茶店に居るのね」
「あ、うん、ま、そんなところかな。大学近くですよ」
僕はお店の駐車スペース脇に置いてある煙草の灰皿に前まで行き、空いている右手で胸のポケットからタバコの箱を取り出して一本を口に咥え、更にそれに火を点けながら「いいですよ、出てきたから」と言った。
「そう、それでね、明日なんだけど、午後から大丈夫?」
大丈夫かと問われると、恩着せがましくちょっと貸しを作りたくなる。何といっても憧れの智恵美先輩だ。借りを作ると、どんな無茶振りされるか怖くて仕方ないが、貸しを作っておくと、いつか食事くらいには誘って貰えるかもしれない。
「午後からって、実際、何時から何時くらいですか?」
「うーん、何時までっていうのは何とも言えないんだけど、スタートは一時から。多分、夕方までで大丈夫と思うんだけど、そこはちょっと、今は何とも言えない、かな」
「そうですか。夕方までなら何とか。あまり遅くなると、僕もちょっと予定が・・・」
僕は何気に言葉を濁す。今度は嘘と分からない嘘だ。予定など無い。
「わかったわ、出来るだけ早めに切り上げられるようにする。それで、集合場所なんだけど、キャンパス東門に十二時半に来れるかな?」
「行けますけど、ちょっと待ってください。まだ何をするのか、聞いてないんですけど・・・」
「あ、ごめんごめん。あたしも焦ってて、肝心なこと言ってないって、あたしって、可笑しい」
本当に慌てていたらしく、智恵美さんが電話の向こうで可笑しそうに笑っているのが分かる。
「ごめんね、自分で可笑しくなって笑っちゃった。それで、やってもらうことだけど、孝明君知ってるよね?久米木孝明」
「うん、知ってますけど。確かダイビング部で・・・理学部の三年生でしたっけ?」
大学内では有名人だ。身長180センチ以上で日焼けした肌と、逆三角形の引き締まった身体に、更に顔はハーフ張りのイケメンときている。地元のモデル事務所なんかにも所属していて、時々地元情報誌の表紙や衣料系の店の広告のモデルなんかでも見掛ける。
「そう、その孝明君がさ、交通事故起こしちゃって、今日ね、足骨折しちゃったみたいで、明日の撮影、ううん、明日以降もずっとなんだけど、ダメっぽいのよ。ここまで撮り終えた分も全部撮り直ししなくちゃいけなくなっちゃって。それで、富永君、代打、お願い」
「えっ」
ちょっと待って、それはどうなんだろう。てっきりいつも通り機材運びやタイムキーパーを遣らされるくらいのことだろうと思っていた僕は、思わず口籠ってしまう。
「ダメ?」
いやいや、そんなこと言われても、無理なものは無理だ。いくら智恵美さんの頼みでも、あのイケメンの替りなんて、僕に出来る筈がない。
「替りが出来そうな男の子って、富永君くらいしか居なくって」
「いや、あの人の替りなんて無理ですって。大体、何もかも違うじゃないですか。あの人、背高いし、色黒だし、イケメンですよ。全くタイプ違うじゃないですか」
「最初から撮り直しだから、あんまり関係ないって。替りって言うから良くなくって、初めからのキャストみたいなものよ。台詞も少ないし、富永君ならすぐ覚えられるって。実をいうとね、そもそも今回のキャスト、孝明君はちょっとイメージ違ったのよ。何て言うかな、ああいう爽やかスポーツマンタイプイケメンよりも、ちょっと陰のある、そう、ちょっと不良っぽい感じで、裏表が在るっていうか、話の中で自分の本質に気付いていくっていう設定の物語だから、あそこまで初めから爽やかに見えちゃうと、ちょっと違うのよね。ま、実際は彼もそんなに爽やか青年ではないんだけどね。演技、下手だったし。ね、だから、お願い」
そんな猫撫で声で言われてもねぇ・・・。何ひとつ僕が褒められてる訳でもないし・・・
「やりますっ」
はぁ?僕は何を言ってるんだ。今、自分の口から出た言葉に自分で驚く。
「ほんと?助かる。ありがとう。撮影全部終わったら、絶対何か奢るから。ほんと、ありがとう。じゃ、明日、十二時半、東門で。その時、台本も渡すわ」
向こうから電話が切れて、僕は「ふぅ」と、一つ息を吐く。タバコの火は殆ど吸わないままにフィルターのすぐ手前まで来ていた。そのチビたタバコの最後のひと口を吸って、僕はお店に戻る。
もう既に閉店時間の十時を過ぎていて、美香が帰り支度を済ませて、先ほどまで僕が座っていたカウンターの隣に腰掛けていた。携帯電話をポケットに仕舞いながらカウンターに向かう僕の方をに少しだけ視線を向け、そして直ぐに逸らして、如何にも素っ気ない風に美香は「電話?誰から?」と訊く。
僕はその質問には答えずに、「もう終わったの?」と逆に訊き返して、それから半分以上残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「うわっ、温っ」
「当たり前だよ。二十分も放ったらかしだもん」
美香の返しに、何故か又、カチンとくる。
僕はその腹立ち紛れにさっき決まったばかりの予定を、唐突に話し始める。
「あのさ、明日なんだけど、急用、入っちゃってさ、一日中、ダメだわ」
一瞬黙った美香が「今の電話?」と訊くので、僕は「うん、まぁ」とだけ答えた。
「なにそれ?ミィカより大事な用な訳?信じられない」
美香は怒ったり、甘えたり、感情的になった時には必ず、自分のことを「うち」ではなく「ミィカ」と呼ぶ。今は完全に怒っているみたいだ。
僕もそれなりに苛々が募って来てはいる。しかし、そこは如何にも冷静さを装って、言葉を選びながら、表情も変えることなく対処しようと試みる。ずっと後になって分かったことなのだけれど、そういうところが僕の最もいけないところなのだと思う。
「美香より大事とか大事じゃないとか、そんな問題じゃないんだ。困ってる人が居て、助けを求められたら、自分が出来るのであれば、助けるだろ?普通はそうだろ」
ひょっとして、本日ある男が大怪我をして入院してしまって、その代役として僕が行くことになった、そうちゃんと説明したら、或いは美香は納得して快く了解してくれたかもしれない。当たり前だけれど、美香はそれくらいの常識が在る女の子だ。
なのに、僕は敢てそんな細かい説明はしなかった。意地悪がしたかったのだろうか、美香を怒らせたかったのか・・・。嫉妬して欲しいのとは全く違う・・・。
「いいや、もう」
そう言って席を立った美香は、カウンター奥で、多分本日の売り上げ精算をしているマスターに「お疲れ様です」とそこは愛想よく声を掛けて、その後はそのまま黙ってお店の出口に向かう。
僕は理由もなく「はぁ」と溜息をついて、その後を追った。
店の外に出ると、美香は僕のFZR250の前で少し俯いた風にして、両手を後ろ手に組み、靴の踵で地面を蹴るような仕草をしていた。
多分、美香は僕が既に彼女の背後に居ることに気付いている。そして、それを分かった上で振り向こうとはしない。
半年前なら恐らく、僕は美香が踵で地面を蹴り飛ばすしぐさを見て、可愛らしい、愛おしいとさえ思ったに違いない。
だが、今はどうだ。つい「チッ」と舌打ちをしてしまう。
その舌打ちが聞こえたのか、聞こえていないのか、美香は地面を蹴る仕草をピタッと止めた。
「帰るね。一人で」
振り向きざまにそう言った彼女は、僕とは目を合わせようともせず、そのまま僕の脇をすり抜ける様にして結構な
僕が引っ掛かるのは、やはり「一人で」と付け加える余計な一言だ。
僕も黙ったまま、通り過ぎる彼女を振り返ることも見送ることもせず、そのままバイクに跨り、そしてタバコを取り出し、それに火を点ける。
深く吸い込んだ煙を吐き出しながら、特に何かを考える訳でもなく、風に捩れて消えていく白い
どれくらい時間が経っただろう。タバコ一本が燃え尽きるまでの間なんて、大した時間ではない。五分くらいのものか。僕は今しがた美香が立ち去った方向を振り返って、その道のずっと先に目を向けてみたが、勿論、彼女の姿はもう何処にもない。
追いかけるべきか、このまま帰るべきか、それとも感傷に浸りながらここにもう暫く留まるのか、バイクで海岸沿いを流すか・・・・
多分、可笑しな恋愛ドラマの見過ぎだ。現実はそんなに切なくも無ければ、劇的に展開することはない。単純なのだ。お腹を空かせて家に帰り、ご飯を食べる。それくらい単純な話。
僕はバイクのエンジンを掛け、ゆっくりと駐車場を出た。
そのままゆっくりと国道まで続く住宅街の下り坂を進み、国道に出る交差点で赤信号に捕まり停車する。ハンドルから両手を離し、グローブのマジックテープを締め直し、信号が変わるのを待つ。
青。
僕は右にハンドルを切り、直線道路に向かってバイクと身体の向きが平行になった瞬間、上半身をタンクに摺り寄せるように屈めると、一気にアクセルを開き、ギアを二段、立て続けに開放する。それでも直ぐに回転数は目いっぱいに上がり切り、四速、五速へとシフトチェンジ。
直線を一気に加速してスピードメーターはいつの間にか時速90キロを超えた。
一瞬、冷たい風を肌に感じて、おやっと思ってアクセルを緩める。スピードが落ちるのと同じように態勢を徐々に起こし、今度はのんびりと法定速度に戻しながら周りの空気を確かめる様に走る。
国道を北上し続け、どれくらいになるだろう。市街地を抜け、住宅街を後にし、今は両サイドにフェンスで仕切られた広大な敷地の間を走っている。
小さな雨粒がぽつりとヘルメットのシールドに当たった。
来そうだな。いや、来るな。
次はパチンっと音がするほどの大きな雨粒。
そして立て続けにバチバチと雨粒はヘルメットと言わず身体と言わず打ちつけ始め、道路の先のオレンジ色の街灯は既に雨に煙って乱反射して見える。
良いや、行っちゃえ。
僕はそのままその水煙の中に突っ込んだ。
土砂降りの雨の中に突っ込んで、五百メートルも進んだだろうか。このままのスピードでそれ以上走るのは無理がある。何せ、前が真面に見えない。一台先を行く車のテールランプを確認することさえ怪しい。
諦めた僕は左ウインカーを点滅させて減速しながらバイクを路肩に寄せ、そのまま歩道に乗り上げた。ヘルメットの中以外は、ほんの一瞬で上から下までずぶ濡れになってしまい、羽織っているGジャンがやけに重たい。
僕は歩道に乗り上げたバイクはその場に停め、自分は街路樹の下に急ぐ。もうここまでずぶ濡れになってしまったら、急ごうが慌てようが走ろうが、あまり関係ないのかもしてないが、それでも小走りに街路樹の下に辿り着くと、そこから見える国道の風景に見惚れてしまった。
オレンジ色の街灯、紫とピンクのモーテルのネオンサイン、通り過ぎる車のヘッドライト、全ての明かりが雨に打たれて世界に滲んで溶けだしているように見える。
そして一瞬、空を切り裂き、溶けて滲んだ世界をかき消すように稲妻が走るっ。
夏が来た。
僕はそう思った途端、今街路樹に身を寄せたばかりなのに、そこを直ぐに飛び出してバイクに向かう。
雨は一時の土砂降りよりは幾分弱まっているのか、それでもまだ大粒の雨粒がバイクのタンクに弾け、カウルを伝って滝のように流れ落ちている。
バイクに跨る。尻が冷たい。でもそんな事は構わないで良い。だって、夏が来たのだ。
僕はエンジンをひと蒸かしすると、ハンドルを切り、今来た道を折り返して逆車線を走り始めた。
夏の訪れを感じる雨の中は、ついさっきまでの雨に降られて『ずぶ濡れ』という感覚とは違い、これはまさにスコールを『浴びる』に近い。
バイクを走らせること十分くらいだろうか、そのスコールは次第に小降りになっていき、いつの間にか乾いたアスファルトの上を走行し始める。
でも、もう間もなく、ここにも夏はやって来る。
エンジンは回転数を上げ、呻りを上げながら、国道を疾走した。
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