第3話

 時計の針は、既に午後十時半を回り、お店のお客は少しばかり引き始めたところだったが、ただ僕の心ここにあらずの状況は今も続いていた。

「北島チーフ、ちょっと」

 僕はバーテンダー兼サブマネージャーの北島に声を掛ける。

「今日さ、俺、ちょっと用事あって、十一時できっかり上がらせてもらうけど、良いかい?」

「ええ、もちろん。今日、そんなに忙しくないし、大丈夫ですよ。俺と聡とイズミ、三人居るんで、問題無いです」

「悪いな。ま、無いと思うけど、この後、万が一忙しくなっても、俺、今日は上がっちゃうけど」

「いいですって。いつもマスター働き過ぎですって。普段だって、きっちり上がってください、俺らに任せて貰って構いませんから」

「お、ほんとか?それじゃ、明日から毎日早上がりしちゃうぞ」

「あ、いや、お願いするときはお願いしますんで。取り敢えず、今日は大丈夫です」

 北島はそう言って、僕に何か言いたげに片方の眉毛を上げるようにして目で訴えかけていた。

「ん?どうかしたかい?」

「いや、さっき聡が言ってたんですけど、ひょっとして、新しい彼女さんですか?何か、早い時間に来た綺麗な女の人がいたって。それから、今日のマスターちょっといつもとテンションが違うって、聡がそんな風に言ってたんで」

 ドキッとする。

「な、何なんだよ、新しい彼女って」

 僕は平静を装って無理に笑おうとして、反ってどもり気味になってしまう。ダメだ、このおかしな動揺は隠しきれない。北島には正直に言っておこう。

「いや、それがさ、前に付き合ってた子が、今日、いきなり訪ねて来てさ、ここに。これからちょっと会うんだよ。俺の上がる時間に来るって言うからさ」

「マジっすか。依り戻す感じですか?」

「分かんないよ。今日、ほんとに急に現れて、その時は殆ど何も喋ってないんだ。だから、何でいきなり現れたのか、何か用事があったのか、全然分かんないんだよ」

「ほんとっすか?怪しいなぁ」

 本当のことを話して、怪しいと言われてしまうなんて、僕も大概だ。

「怪しいってなんだよ。言った通り、そのままなんだけど」

「いや、マスターがどうこうっていうことじゃなくって、その元カノさん?その女性ひとの方のことですよ」

「?」

「マスターにとってはいきなりのことだったとしても、相手にとってはどうなんでしょうね?その元カノさんは、何か思うところがあって来たんですよね?多分」

 確かに僕は舞い上がっていて、自分がどうしようか、どうすれば良いのか、会って何から話そうか、そんなことで頭が一杯になっていた。

 言われてみれば確かにそうだ。美香には何かの意図があって、僕に会いに来たに違いない。彼女の話を聞いてみるのが先であって、僕のことなど本来どうでも良いことなのだ。例えそれが僕にとって良いことでも悪いことでも。

 そう、北島の言う通りなのだ。

 僕は自分のことばかりで、まるで周り、相手のことが見えていなかった。

 美香のことを疑う訳ではないけれど、少しばかり不安な気持ちにもなる。

 ふと、時計に目を遣ると、ちょうど十一時だ。

「それじゃ、俺、上がるな。後、宜しくな。あ、それと、気ぃ使ってくれて、ありがとな」

「いえ、後は任せてください。マスターにとって良い話だと良いですね。ま、マスターなら大丈夫でしょうけど。優しいし・・・」

 そう言った北沢の言葉に、僕は自分自身が少し残念になる。

 僕は優しくなんかない。彼らは知らないことなのだけれど、僕は最低な人間だった。僕は美香と別れて、自分がどれほど愚かで人でなしでバカ者なのか、そういったことを色々と思い知った。そして少しだけ真面な人間になれた気がしていた。

 まぁいいや。

 僕はカウンター奥の休憩スペースで着替えを済ませて店内の戻ると、カウンターの一番端の空いた席に腰掛けて美香を待つことにした。

 「待っている時間は永い」とよく言うが、確かに永く感じるのだけれど、逆に、時間が進むことに対しての焦りもあった。

 五分が凄く永く感じるのに、もう五分も経ってしまって、本当に美香は現れるのか・・・、そんな可笑しな具合だ。

「マスター、お電話です」

 いきなりカウンター内の北島から声が掛かり、少し驚く。

「彼女さん、ですかね。オオシロさんって、女性の方です」

 美香だ。

 僕は受話器を受け取り、「もしもし、代わりました。どうしました?」と、焦る気持ちを出来る限りセーブしながら電話に出た。

「あ、もしもし、カズヒロさん?ごめんなさい、遅くなっちゃって。今、お店の前に居るんだけど、もうお仕事終わった?」

 どういう表現が当たっているのか分からないけれど、兎に角、美香が『店の前まで来ている』という事実に、全身の緊張がフニャフニャと緩んでいく感覚を覚えたのは確かだ。

「あ、うん。いや、全然、もう上がったよ」

 返答の言葉の順番が滅茶苦茶で、自分でも何が言いたいのか分からない。

 ハッキリ言って、バカのように、阿呆みたいに、嬉しい。本当はただそれだけの感情なのは間違いないのだが・・・。

「どうしよっか?あたし、車なんだよね。そっちに上がって行っても飲めないし・・・」

 ああ、そういうことか。

「分かった。えっと、あ、じゃ、すぐ行きますね」

 高まる鼓動とは裏腹に、僕は誰に対してか、如何にも落ち着き払ったフリを装いながら、北島に電話を返して「じゃ、俺、行くわ」と告げ、カウンターから立ち上がる。

「お疲れ様でした」

 北沢の声を背中に受けながら、僕は店の扉を出た。そして階段を駆け降りたい気持ちを抑えつつ、階下へ向かう。


 階段を降りきり、店舗前の車道を確認すると、赤い軽自動車が停まっていて、その運転席から携帯電話を片手に持った女性が見えた。

 美香だ。車はダイハツかな。

 僕はその赤い車に近付き、助手席の窓を軽くコンコンとノックした。

 それに気付いた美香がこちらに振り向き、助手席の窓がゆっくりと下がる。そして、美香と目が合い、彼女はにっこりと微笑んだ。

 僕は息が止まるかと思った。

「遅くなってごめんね。取り敢えず、乗って」

「あ、はい」

 僕は言われるままに助手席のドアを開けて、シートに座ったのだが、変な緊張と急激な心拍数の増加、そして過呼吸にでもなるんじゃないかというくらいの浅くなりすぎた呼吸を感じ、息苦しいって言うのは、決して嫌な時だけ起こるものではないんだ、そう思った。

「どこ行こっか?」

「え、あ、うん、どこでも」

「そぉう?・・・じゃ、良いところあるんだ、夜景?っていうのかな?そこでいいかな?」

「あ、うん、どこでも」

 美香の運転する車の助手席に座って、美香が決める行き先に向かう。今まで想像もしたことが無い状況だ。

 でも、そうか、あれからもう随分経っているもんな。僕だって変わっただろうし、彼女だってもう大人の女性だものな。それにしても不思議な感覚だった。

 車をスタートさせて直ぐに、美香が再び「ほんと、ごめんね、遅くなって」と言う。

「いえね、家を出る時、少し揉めちゃって・・・」

 僕はハッとした。恐らく、彼女は僕に会うことを家族の誰かに告げて、それで揉めたのだろうと、直感した。

「ごめん」

 僕は反射的に謝る。

「え?カズヒロさんが謝ることじゃないよ。大丈夫よ、気にしないで」

 やっぱりだ。美香の口ぶりで分かる。大方、姉か母親に止められたんだろう。父親や兄なら、恐らく家から出てくることは出来なかったと思う。

 本当に僕は最悪だった。僕には謝るべきことが幾らでもある。そして、ふと思う。彼女はそんなことより、僕に何かしらの復讐をする為にこの状況を作ったんではないか、と。

 そう、さっき北島が言っていた「元カノさんには、何か思うところがあって・・・」という言葉が頭をぎる。

 いやいや、それは考え過ぎだろう。少なくとも僕が知っている彼女は・・・。いや、待てよ、誰がそう言い切れる?あれから四年、何がどう変わっていても不思議ではないじゃないか。

 でも、しかし・・・

「どうかした?」

 頭の中がどうにも混乱しきりの僕に向けられた美香の言葉は、如何にもあっさりしていて、それでいて何だかとても優しい。

「あ、いや、なんでもない、けど・・・」

「やっぱりカズヒロさん、ちょっと、変わった?」

 僕は「おまえの方こそ・・・」という言葉を飲み込みながら、「そうかな・・・」とだけしか答えられなかった。

 そして、つい『おまえ』と言いそうになった自分を恥じると同時に、自分に対して、この意気地なし、と心の中で呟く。

 車は国道を外れ、丘の住宅街を抜け、民家も疎らで人影もない山道を進んだ。

 会話らしい会話も無く、ただ、『元気だった?』とか、美香が東京ではどこに住んでたとか、僕がいつからバーでの仕事を始めたとか、そんな他愛もない話しかしなかった。いや、寧ろ出来なかったと言った方が正解かもしれない。

 そして、車は丘の上の砂利の駐車場?(路肩の車両避難スペースかもしれない)に、フロントから下界を見下ろすような位置で停車した。

「ふぅ、着いたよ」

 そう息を吐いた美香は、サイドブレーキを引きながら、言う。

「見て、凄くない?」

 僕も促されたフロントガラスから見える下界に目を向ける。

 なんだこれ・・・。もう随分とこの土地に住んでいるが、初めて見た。こんな光景があったのか・・・。

 それは電照菊の畑が広がる、何とも煌びやかで、美しい風景。なのにどことなく浮き上がって乾いた、温かみを一切感じることのない光のような気もした。

「綺麗だね・・・。こんなとこが在るなんて、知らなかったよ」

 僕はその光に見惚れて、思ったことをそのまま口にした。初めて見る異世界のような風景と、感動にも似た驚きで、すんなりと言葉が出てきた感じだった。

「良かった。カズヒロさんに見せたかったんだよ、これ」

「昔から知ってたの?」

「ううん」

 美香は首を横に振る。

「あたしもね、去年の今頃、初めて知ったの」

「そっかぁ・・・。あ、ってことは、毎年、たまには帰って来てはいたんだね」

「・・・うん・・・」

 少し返事を言い澱む美香を見て、僕は要らない質問をしたと、後悔した。

 しかし、そんなこと訊かなければよかった、と思えば思うほど、僕の気持ちは昂り、抑えが効かなくなる。

「どうして、今年は、会いに来てくれたの?」

 そして、再び自己嫌悪だ。そんなこと訊いてどうするんだ、と。

「・・・うん・・・どうしてだろう、ね・・・」

 美香は少し困ったように眉を八の字にして、途切れ途切れに答える。

 お互いに次の言葉が出てこない。相手に対して、何かを探っていることを、僕も彼女も分かっている。

 短いはずなのに、永遠に続くのではないかと思える沈黙。僕は耐えきれない。

「ごめん。変なこと、訊いちゃったね。ごめん」

「ううん、良いの・・・。訊かれないと、ほんとは、あたしも何話していいか、分からないし・・・」

 違う、違うんだ。僕は美香に何かを訊きたい訳ではない。

 それでも北島の言った『元カノさんは、何か思うところがあって・・・』、その言葉が、僕の本当の思いを阻害する。

 いや、でも待てよ。僕が勝手に話し始めるのも何か違うのではないか?それでは昔と同じで、美香の気持ちをそっち除けにして、あの頃の自分勝手な僕のまんまなんじゃないか?

 どうする、どうすれば良い、どうしたい、どうすべきなんんだろうか・・・。

 眼下に見下ろす電照菊の煌びやかな灯りの塊が、ふと、巨大な宇宙船に思えた。そして、今にも浮き上がって飛び立ちそうに。

 こんな時に、不謹慎か?

 それでも、今の二人の状況を考えると、無理に核心の話に持って行くことは出来そうにない。

「あの、さ。可笑しなこと言うかもしれないけどさ、俺、さっきから、あの電照菊の畑の灯りってさ、何か、でっかい宇宙船に見えちゃうんだけど、変かな?しかも、今にも浮き上がりそうな・・・何ていうか・・・飛んで行っちゃうって言うか・・・」

 僕はそう言って、運転席の美香の様子を伺うように、彼女に視線を向けた。

 僕の視線に気付いた彼女も、僕の方に顔を向けるたが、彼女は少し驚いたように、その瞳を大きく見開いて、何か言いたげな表情だ。

「ん?どうしたの?やっぱり、俺、変なこと言った?」

「違う・・・。うちもそう思ってたってば・・・」

 美香の表情が、驚きから見る見るうちに、嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような、そして泣き笑いみたいな表情へと変わっていく。

 しかも、自分のことを『うち』と言った。確かに言った。

 瞬間、世界がちょっとばかり色付いたことに気付く。

 そう、電照菊の畑の様子を見て、先ほどから感じていたのは、それは『無機質』であることなのだと、今更ながら理解した。

 恐らく、美香はそんなことを意識して僕をここに連れてきたわけではないだろう。しかし、この場所は僕等にとっておあつらえ向きの場所だったということだ。

 ここまでの二人の会話も、あまりにも無機質すぎたし、更に無機質なものを眺めて、それに耐えられずに発した言葉が、実はお互いに同じようなことを感じていたことに気付かされた。

 そしてあのモノクローム写真のようだった思い出が、今、少しだけ、現実の色を帯び始めた気がしていた。

「今、俺、ちょっとホッとしてる」

 美香は不思議そうな瞳を向けながら、「え?」と小さく呟くような声を上げた。

「さっき、君は自分のことを、『うち』って言ったよね、『あたし』じゃなくって」

 今度は「あっ」と、また小さな声で瞳を見開いた美香が、照れくさそうに僕の視線から逃れるように瞳を泳がす。

「いや、別に、そのことが君にとって、どうということはないのかもしれないけど、俺は少し嬉しいような・・・何ていうか、本当に君が今ここに居ることを実感したって言うか・・・」

 美香は視線はそらしたままなのだが、今度は僕にもハッキリと聞き取れるように「うん」と頷いて、ゆっくりと瞬きをするような仕草をして見せた。

 その様子を見て、僕は決心が固まった。

「俺、たくさんのことを、君に謝らなければいけない。君・・・、あ、ごめん、その前に、『君』じゃなくて、『美香』って呼んでいいかな?」

 美香は黙ったまま、コクリと頷いた。

「ありがとう・・・」

 そして、僕は話し始めた。

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