第515話 活と無
これはあるカウンセラーさんに私が質問した話です。
私は自分が生きていると感じるのは活があるからだと
思っています。
「私は生きると言う事は、何かしら
あるからだと思いますが、現実的にそういう人は多いですか?」
「Kさんが思う以上に多いです。特に中高齢者の方々が
熟年離婚や退職し、居場所の無くなった人たちが、
自分の人生は何だったんでしょう?」と質問される方は多いです。
私は敢えて、黙って聞き続けた。
「生き甲斐は人それぞれ違いますが、多くの人達が
この最後の道の合流地点で多くの方が、茫然と立ち尽くしています」
これは哲学の世界では初歩的な事で、
『晩年の哲学』
と呼ばれるもので、人それぞれ違った人生を歩むが、
『中年の哲学』「若年の哲学』『幼少の哲学』等に出会えなかった
人達が最期に悟る哲学である。
哲学といっても人生に付き添う為、人はそれを知らずに、
知る機会は得ている。人生で何度も何度も何度も…………。
より深みのある人生ならば、晩年の哲学に出会う前に、哲学を知る。
私はカウンセラーとその話をし、全てでは無いが色々話はしている。
だから、私が最も知り得てはいけない、
『愛』の『哀』の悟りを知っている事を知っている。
私はこの自分の話を幾人かに話したが、哀れみを感じたり、
直視できない悲哀な目で見られる。
目と目が合っても、言葉は出ない。
————だから私は…………『愛』と『哀』が葛藤している。
本来はあるべきものが、100%無い事を幾度も味わった。
だから私は壊れた。
そう。一度は完全に壊れた————しかし、私は私に死の選択を拒否された。二重人格とかでは無い。
形ないモノを、今回の一件で、私は多く感じた。
『愛』もそうではあるが、『心』が人間にはある事を知った。
心の中の私は、私を助ける為に、『怒り』『恨み』『負の感情』等の
今回における問題の全てを私の『心』の扉に押し込めた。
最初に違和感を感じたのは、女の子がホストに殴られ顔面を蹴られた
時だった。私はその様子を見るだけで動かなかった。
普段なら助けるはずなのに? それから私自身に変化が起きている事を知った。
一度だけ、私はその扉を開こうとして、死など全く別次元の恐怖を
知った。それから二日後に急性心不全になり、その後慢性心不全に
なった。
私は今、一体自分が何者なのかが分からない。
基本ベースは私のままだが、明かに変わった。
良いか悪いかさえも分からない。
ただ今回は深い闇にずっと浸かっていた。
その理由は分かった。私は未解決な背後と、前方に見える道に
板挟み状態だったからだ。
バットエンディングは嫌いだ。
だからハッピーエンドに向かって私は進む。
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