第7話 契約者は夢を見る。



 懐かしい声が、聞こえる。


 その声の主を求め、オルトは揺蕩う意識の中で、目を開けて耳を澄ませた。

 すると、視覚は笑顔で立つ可愛らしい少女を捉え、聴覚は鈴の音のような声色を拾った。


『ねぇ、お兄ちゃん。ここから出ても、ずっと私のお兄ちゃんでいてくれる?』


 多量の期待に僅かな不安を混ぜ、身体を左右に揺らしながらオルトを下から覗き込む少女。その動きに合わせて、片側でまとめた茶髪のサイドポニーがふわふわと舞う。

 彼女の身なりはベージュの薄布一枚のみ。しかも碌に手入れがされていないのか、髪からはあちこち枝毛が跳ねている。多少、いやかなりみすぼらしい姿だが、それをして隠し切れない『地』の可愛らしさがあった。

 そんな少女の問いに対し、どこか不明瞭な感覚の中にいるオルトは暫し悩むが、その意思に反して己の口は勝手に動き出してしまう。


『       』


 オルトは、自分自身のものであるはずの身体が口にした言葉を聞き取れない。口が動いたという感覚のみしか知覚できなかった。

 しかし、聞き取れなかったのはオルトだけであったようで、少女は望んだ通りの答えが得られたらしく、安心したような喜色満面の表情を浮かべ、これまた彼の意志に反して動く手のひらで頭を撫でられている。

 突如、少女のそんな顔と態度に強烈な既視感を覚えたオルトは、昔日の記憶を掘り起こしにかかる。


『じゃあ、約束ね!はいっ!」


 少女が笑顔を湛えたまま両手をこちらへと突き出す。そんな彼女の仕草を見て、オルトは完全に思い出した。同時に、何故忘れられるはずもないを一時とはいえ失念したのかと自省する。

 視界に入れるだけで吐き気がこみ上げる施錠された部屋。薄汚れた茶髪の幼い少女。悪夢に打ち克つための約束。これらの要素から、やはりオルトの視点で少女と対面する人物は己自身であることを確信した。

 差し出された小さな両手を見た―――過去のオルトは、自らの手を動かし、少女の手のひらと合わせる。


『         』


 この時、己は何を言ったのだったか。

 思い出そうとしたオルトだったが、やがてその意識は見えない力に引っ張られるようにして何処かへ連れ出され、ここまで見ていた景色は、電源を落としたテレビみたくぷつりと切れた。


 そして、前触れなく風景が切り替わる。


 切り替わると言っても、部屋の内装はほぼ同じ。まるで物置小屋のような暗い地下牢である。

 違うのは、重厚な木製の扉を背にし、オルトの前で下卑た笑みを浮かべる小太りの男がいることと、先ほどより明らかに意識がはっきりしていることだ。


『やぁ。調子はどうかね?…クク、相変わらず元気そうだねぇ』


 見れば、男は金の刺繍があしらわれた豪奢な衣服や、煌びやかな装飾品をそこかしこに身に着けており、普通の身分では無いことがうかがえる。

 一方で、オルトの深層心理がそうしているのか、男の顔にだけは黒い影が差しこんでおり、人相のほうは判然としない。

 それでも、彼は男を警戒すべき対象であると理解しているらしく、身体は自然と身構えた。

 …体が動く。そんなオルトの驚きは一瞬。すぐに目の前の男が漏らした薄気味悪い含み笑いで我を取り戻す。


『そう構えずとも、今日は何もせんよ。つい先ほど戯れてきたばかりだからね。…それより』


 不意に、男の視線がオルトを外れ、部屋の奥に置かれた簡素なベッドで身を縮こまらせて眠る一人の少女へ向けられた。ねっとりと、からみつくような視線が。

 それにとてつもない不快感を覚えたオルトは、少女の姿を隠すように足を動かした。


『アレとは、どこまで進んだのかね?』


 男の口にするアレとは、少女のことだろう。

 そして、進んだ、というのは。

 オルトは奥歯が鳴るほど噛み締める。その言葉に含まれた、男の下衆な思惑を全て解しているからこその怒りであった。

 そんな目前の少年の態度から、進捗が芳しくないことを悟ったか、男は一転して苛立たし気に低く唸る。


『ううん、困るねぇ。彼女、百人以上の子を見てきた私からしても逸材なんだ。早く味見したいところなんだが…。なぁ、少年?一日中一緒にいるんだから、君もその魅力を理解できるだろう?』


 男は膨らんだ腹を撫でながら、少しばかり鼻息を荒くする。

 そして、頭の中で何を思い描き始めたのか、腹以外の部分をおもむろに膨張させつつ、舌なめずりをした。


 男には倒錯的な趣味がある。

 ここまでの言動や少年の置かれた状況を見れば碌でもない内容だと察しはつくだろうが、やはり劣悪の一言に尽きる。

 このようなことをする目的。それは、端的に言ってしまえば身寄りのない少女と少年をわざと相部屋にして監禁し、無理矢理関係を持たせることだ。


『とはいえ、あまり混ぜ物をしすぎると、私の理想とする自然な関係ではなくなってしまうからねぇ。つくづく、君の鋼の精神力には感服するよ』


 更には一日一食の僅かな食事に一服盛り、情欲を煽るよう仕向けている。男はこの方法をあまり好まないため、量は僅かだが。

 それでも、この地下牢へ連れてこられた少女や少年は、大半が強い不安やストレスから抵抗の意志を削がれ、ついには思考を放棄した獣となってしまっていた。

 無理もない。薄暗い狭空間、漂う臭気、施錠された扉、さらには地下牢にいる先客たちの上げる嬌声が一日中響いてくるのだ。これで長く正気を保てるはずがない。


 しかし、始めは極限状態や薬を理由に交わっていた少女と少年は、やがて回を重ね、期間が過ぎることで、歪ではあるが愛情が育まれていく。

 大抵ひと月もすれば、薬などなくとも進んで睦みあうようになるのだ。


『まぁ、あまり頑固すぎるのも考え物だからね。場合によっては、代役と交換させてもらうよ。…ククク。あぁ、早くあの無駄のない柔らかそうな全身を撫でまわしたいなぁ。腰の上で彼女の悶える姿を目の前で眺めたいなぁ』


 そして、男の歪み切った性癖が発揮されるのは、ここからだ。


 次に男が取る行動は実に単純である。

 十分に関係が深まった二人の仲を、引き裂くのだ。


 例えば、少年が見ている目の前で男が少女を犯したり―――

 例えば、男の下女へ命じ、少女の目の前で少年と交わらせたり―――


 互いが互いの存在を精神的な支えにしていたからこそ、愛情や絆の証明であったはずの行為を己以外の人間と交わす光景は、大きな失望と落胆を抱かせる。

 同時に、今までの情事が文字通り児戯のレベルであった事実を、パートナーが大人となったことで思い知らされ、抗えない快感に翻弄される。

 これを繰り返していくことで、二人の子供の純粋だった想いが、穢れ、壊れていく様をみるのが、男にとって何よりの快感なのだ。


 『      』


 『ハハハ、そう噛みつくな。今のところは三組くらい使えるのがいるから、せいぜい楽しみは後にとっておくさ』


 既に終わったものと理解していても、激しく気分を害する男の発言に苛立ちを表すオルト。それでも声を出す気などなかったのだが、過去のオルトの意志が絡んでいるのか、口が勝手に動き出してしまう。…前回同様、その声は彼自身の耳には届かなかったが。

 対する男はどこ吹く風というように、軽く笑って流し、背を向ける。そうして踵を返し扉に手をかけた男は、その向こう側から差す光を浴びつつ、暗闇に囚われる少年へ悪魔のように微笑みかけた。


『では、引き続き互いに自慰と希望の囁き合いに耽っていてくれたまえ。長くは持たんだろうが…あるいはその願い、どこぞの物好きが聞き届けてくれるやもしれんぞ?』


 反響する耳ざわりな哄笑とともに、扉が閉ざされて魔術により施錠される。

 そうしてオルトは、再び闇の中で無力な己を呪う作業に戻るのだ。


 ――全ては、この時だった。

 この時があったからこそ、オルト・ハイゼンはより力を求めるようになったのだ。


 それを再確認したと同時に、オルトの見る周囲の景色が、霧を帯びたかのようにぼやけ始める。かと思いきや、今度は意識そのものが見えない手で引っ張り上げられるかのように浮上していく。



 この感覚は。


 ――――夢の、終わりだろう。




◆◆◆◆◆




 軍政都市オストラントの東方区画に立つ、階層型居住地。つまりはマンションだ。

 浮いたりワープしたりなどはせず、特に目立った造りの違いはないが、ドアやエレベーターなど自動化されている部分は、ドラクーンのようにマナを利用した動作システムが採用されている。


 さて、そのマンションの四階、端から数えて五つ目の部屋、405と札の貼られた扉こそ、オルト・ハイゼンの住処である。

 この表現の仕方は誤りというわけではないが、一部不足している情報があるため、補足しておきたい。


「あ、起きた」


 それは、目を覚ましたオルトの眼前に迫っていた少女という、同居人の存在である。


「……」


 瞼を起こしてから、オルトがいの一番に選択した行動は、鼻先が触れ合う寸前にまで近づく少女の顔面を掴んで押し返すというものだった。

 少女は『あうー』という非難まじりの間抜けな声を上げつつ、抵抗虚しくオルトの伸ばした腕の幅分だけ距離を開けられる。

 そんな一連のやり取りは、日常的に行われているからこその流れ作業のような雰囲気を思わせる。


「ふぁ…いつも言ってるだろ、エミ。怪我はしてないから安心してくれ」


「うーん、まぁそれも心配ではあったんだけどさ。おにぃ今日何の日か知ってる?」


「きょう?今日は、んーあれだ…てかなんだエミ。休日なのに制服エプロンして。お前のほうこそ兄ちゃん心配になってきたぞ」


「……」


 オルトにエミと呼ばれた少女は、エミリ・アイレス。年は19で、6つ離れたオルト・ハイゼンの義理の妹である。

 髪色は茶、瞳は黒。長い髪は白いリボンでポニーテールにしてまとめており、前髪には黒の髪留め。服装は紺が基調の学生服の上にエプロンを着こむといった、奇抜なファッションとなっていた。

 そんな彼女は、自身の服装の奇妙さを指摘してきたオルトに対し、やれやれしょうがない奴だ、とでも言わんばかりにかぶりを振った。


「おにぃ、まだ三日前にレイモンさんと呑んだお酒抜けてないの?それとも夢の中に記憶置き忘れてきちゃった?今から取りに行く?」


「待て、待ってくれエミ。自然な流れでマナ時計掴んで振りかぶらんでくれ。それ地味に重量あるから」


「じゃあ自分で思い出して。ほらほら」


「勿論だとも。えーと今日、は…」


 掛布団をぼふぼふと両手で叩いて捲し立てるエミリを余所に、オルトは顎に手をあてて考える。

 とはいえ、会話をしていれば自然と頭に血が通い、思考も冴えてくるというもの。急速に記憶の整理がなされていったオルトの脳内には、一秒も経たず忘れて良いはずがない一大イベントの文字が躍っていた。


 ちなみに、マナ時計とは空気中の特定のマナを利用して現在時刻を針で刻む時計だ。内装の雰囲気に大きく寄与する家具ということもあり、凝っているものから簡素なものまで多岐に渡る。

 マナを取り込んで動作する関係上、属性ごと仕様は若干異なるが、基本的な機能は同じだ。

 こういったマナを使って利便性を向上させた物品には、大抵マナ石と呼ばれる多量のマナを取り込み、長時間にわたって蓄積できるものが組み込まれている。

 マナ石は今やあって当然のものとなっているが、研究によって開発、発見された当初は、それは革命のような大騒ぎだった。


 閑話休題。

 本日のイベント内容を思い出したオルトは、何かの間違いではないかとマナ時計の日付を凝視する。しかし、今や寝起きのボケから回復し鮮明となった脳の海馬は、容赦なく現実を突きつけてくる。


「やべぇ…今日はアストラルの大規模討伐隊の凱旋式じゃねぇか。笑えない大ポカだぜ」


「はい。そんなおにぃの失態をカバーするのが妹たる私の務めです。ご飯できてるから早めに来てね」


 ニコリと微笑み、エプロンとスカートを翻しながら踵を返すエミリ。黒のタイツが眩しい。

 そんな彼女の足を止めたのは、焦った声で疑問を飛ばしたオルトだ。


「へっ?でもお前その格好は―――っと、あぁそうか」


「もう一つも思い出した?私がその式典に参加するってこと。まぁ参加しなくても心配だから様子見に行くけど」


「思い出しましたんですぐ行きます」


 学生であり、また家事の大半を担うエミリにとって、通学をする朝は学生服+エプロンを身に着けながら朝食の準備や洗濯をすることがほとんどだ。

 つまり、この姿をしているということは、学校関連のイベントがあるという証左でもある。

 勿論、これをオルトが承知していないはずがない。残念ながら脳味噌はまだ半分寝ているらしい。

 

 ということで、あまりボケをかますと後が怖いオルトは、早々に状況整理を切り上げて着替えに移る。

 寝間着の上着を脱ぎ、下も脱ぎ、ベッド横の箪笥を手前に引き出し、事前にエミリが用意していた洗い替えの隊服を手に取る。

 そこで、オルトはぐるりと首を90度左に回し、半裸の己をガン見している奇妙な義妹に渋い顔を向けた。


「何だエミ。まだ何か言い足りないことがあるのか?」


「えっ?ああ、いや。そういうわけじゃないんだけど…」


「じゃあ部屋から出てくれ。お前だって兄貴の裸なんぞ見たかないだろ」


 オルトはそう声をかけるが、エミリは何かを言いたそうにしつつも、視線を彷徨わせるだけで口を開こうとしない。

 一度服を掴むために動かしていた手を止め、察したオルトは仕方なさそうに、しかしどこか嬉しそうにふっと表情を緩める。

 それはここ最近で現れ始めたものの、彼にとってすでに見慣れた仕草であったからだ。


「さっきも言ったが、怪我ならしてない。それにこいつはアストラルの仕事とも関係ない」


「…でも、おにぃがアストラルで就いているのは特別なところだから。ホントに何か変な仕事やらされたりしてない?」


「心配すんな。あの超堅物プルミエール様が上に立つ間は、殆どの軍規違反者は即刻排除だ」



 許可のないワンマン都市外遠征は立派な軍規違反なのだが、こればかりはアストラル、ひいては国のトップたるプルミエールも拾えないだろう。

 あまりの聡明さから『賢人』の義名を欲しいままにしているが、五つのうちのいずれにも属さない魔術など想像の外だ。


 それでも、今代のプルミエールの悪事を見抜き、裁く力は圧倒的である。戴冠から今までで権力に溺れたアストラル内部の人間を百人近く炙りだし、一切の手心を加えない沙汰をくだしてきたのだから。

 罪人たちの辿った凄絶な贖罪の道を目の当たりにしたからか、現在に至るまでアストラル内での大きな不祥事は一つとして起きていない。


「ん、そうだね。そう思うことにする」


「なんだ、その微妙に歯切れの悪い言い方は」


「ふふ。じゃあ、あんまり時間ないから早めに身支度してリビングにきてね」


 エミリは意味深に笑いつつそれだけ言うと、さっさと扉を開けて出ていってしまう。

 取り残されたオルトは、ため息を吐きつつ心中で白旗をあげる。


 ―――鋭い。嘘を吐いていることは、恐らくすでに看破されている。ただ、具体的に何が嘘なのかはまだ掴みきれていない、というところか。

 オルトは考えつつ、己には魔術の才能だけでなく、嘘を吐く才能もないのかと苦笑いをこぼす。


「...魔術出来ねぇ不出来なピエロとか、救いようねぇな。俺」


 ふと目を向けた先には、姿見に映り込む厳かなアストラルの黒い隊服に身を包んだ青年の姿。

 オルトはそんな自分の全てが作り物めいて見えた。


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