第4話 契約者は外出する。
草木寝静まる深夜。
だが、オストラントの中央都市、ネヴァダはこの時刻になっても活気を失わない。多くの酒場には未だ人の出入りが見られ、道端で管を巻く市民も散見される。
不夜城で有名なネヴァダは、市街が夜通し街灯に照らされているため、深夜の街を出歩くことに抵抗を感じにくいのだろう。
オストラントの街の大半を占める西洋風の建物は、まるで夜天に対抗するかのように多様な色でライトアップされ、いっそ過剰なほど輝いていた。
さて、レイモンの大出世祝いを終え、オルトは行きつけの酒場から出て帰路についていた。
茶髪の女性店員絡みの一件以降、どれほど己が異性との接触に恵まれなかったかを涙ながら聞かされたり、挙句「我慢できねぇ!」と言いつつ彼女に特攻かまそうとしたりしたため、殴って物理的に止めたりなど色々あったが、特に大きなトラブルもなく、オルトはレイモンと別れていた。
「ああ見えて肝っ玉が小さいんだよなぁ。もう少し踏み込めれば…まぁ本命は別として、あっという間に目的達成できそうなもんだが」
持ち前の自己評価の低さと少々捻くれた恋愛観が災いし、一向にまともなアプローチをかけられないでいる。
生来のものであるため、おそらくはシュヴァリエになろうと、たとえプルミエールになったとしても変わらないのだろう。
オルトとしては、その方がむしろ人間味があって好ましくはあった。単に己より先に幸せになってほしくない、という邪な思いもないことはないのだが。
「あー、流石に呑み過ぎたか」
友との久方ぶりの再会で、世間話にも酒にも熱が入った。
オルトはそう自覚しつつも、ここ最近に集中した非日常の連続で疲弊しきった心に潤いがもたらされたことも、同様に理解していた。
心労が溜まるのも無理はない。
何故なら、今まで味わってきた無能である己への自責や懺悔とは全く異なる、未知に対する恐怖のようなものなのだから。
―――それは力だった。
あらゆる存在を圧倒する、神と名乗る女性がもたらした、唯一無二の力。
これを何の犠牲も払わず受け取った…などということはなく、契約の折にとある代価を求められた。
その代価とは、ある制約だ。
当初はこの制約を軽んじていたオルトだったが、いざ己が身で体感すると、その厳しさと認識のズレに愕然とした。
望んでいた形との乖離が激しいからこそ制約を受けるたびに心身ともに疲弊し、彼は力を振るうことの意味を疑問視した。
こんな結果となってしまったからか、オルトはこの力をもたらした人物が信用に足るかと問われれば、即答はできなくなってしまった。
では、神と自称する得体の知れない存在から差し出された力を、なぜ彼は疑いもせず受け取ったのか。
簡単なことだ。
あの時のオルトが求めてやまなかったものは、無能から脱する力なのだから。
「―――――っ」
ピリリと、額からこめかみにかけて走る弱い電気のようなシグナル。前触れなく起こったそれは、オルトにとって慣れ親しんだ感覚だった。
途端、酒で濁りきったはずのオルトの五感が、山稜から降りてきた水のように澄んでゆく。続けて、どこか遠かった周囲の喧騒が、瞳に映る光源の彩度が、皮膚を撫でる風の温度が、細部まで感じ取れるようになる。
それもそのはず。彼の身体からは酒気が完璧に抜けているのだから。
別物に生まれ変わったかのように明瞭となったオルトの感覚は、やがて一個の目標を拾った。
恐るべきことに、それは方角や距離まで鮮明に捉えており、数百キロ離れているにも関わらず、初めから知っているかのごとく脳内に経路が浮かび上がってくるのだ。
「ん…おおよそ170km先、か。っと、はいはい行きますよ。全く、毎度のこと思うが、急き立てるくらいならもっと余裕持って情報渡せよな」
目的地までの情報がひとしきり揃ったところで、今度はオルトの脳内に響き渡る命令。
頭蓋の内側を跳ね回るような男とも、女ともつかない声は非常に不快であり、頭痛すら伴うため、彼はたまらず行動を開始する。
そう、オルト・ハイゼンは、これから170km離れた目的地へ向かおうというのだ。
現代で表わすと東京から群馬あたりまでの移動距離である。とても徒歩で気軽に足を伸ばせる長さではない。
この世界には車や電車などといった便利アイテムなどなく、魔術を除いた最高の移動効率を誇るものは馬車程度。
速度はたかが知れており、まして舗装された道なりにしか進めないため、目的地まで直接運んでいって貰うことすら望めない。とどめに、山を一つ越えなければならないのだから、長旅は確実だ。
どれほど急いでも、往復で七日はかかるだろう。だというのに、オルトの表情からは一分の悲壮感も伺えない。
「最後にフレガ山脈を越えなきゃならない以外、経路に特筆することナシ。うまくいけば朝方にでも帰って来れるだろ」
オルトは自宅への歩みを止め、オストラントの出入り口である正門へ向けて歩みを進め始めた。
まるで、これから寄り道でもするかのような足取りで。
正門が位置するのは、オストラントの南方区画だ。名の通り南側に位置する。
オストラントは方角ごとに区画名が定められており、中央都市ネヴァダを含めると五つに分けられる。
都市全体を含めた面積は約50㎢と小さく、人口はおよそ20万人ほど。とても国とは言えない規模だが、この世界に現存する国家で軍政都市オストラントはもっとも大きい。
ただ、小規模であるからこそ、外周を強固な防護魔術が付与された石垣で囲むことができており、地上からの魔の侵入を防いでいる。
オルトがレイモンと共に呑んでいた酒場は、幸い比較的南方区画側である。
とはいえ、区画一つの距離も決してバカにはならない。徒歩のみで移動となれば、一時間ほどはかかってしまう。
その点については、都市内のある特殊な交通網を利用することで解決できる。
「お、ちょうど来たな」
広い石畳の街路の中央に敷かれた、二本のレールのようなもの。それに沿って移動するのは、大気中のマナを吸って稼働している小型の石柱だ。
正式名称はドラクーンといい、都市の住民からはドラちゃんと言われ親しまれている。
石柱とはいえ、きちんと人が乗りやすいように整えられており、研磨や装飾もしっかりと施され、見た目はまるで芸術品のようである。
オルトはドラクーンが通過する前にレールへ近づく。
すると、後方から迫っていた無人のドラクーンは自動的に静止し、ボディの一部がひっこむことで人の乗れるスペースが現れた。
「ほっ、と。この時間だし、少し飛ばしても大丈夫だろ」
乗り方は、全身ではなく片半身を乗せて移動する感覚だ。キックボードを全自動化したようなイメージがもっとも近いかも知れない。
タラップに片足を乗せ、コントローラーを兼ねた取手を片手で持つ。あとは取手のスイッチを押し込めば組み込まれた魔石がマナを取り込み始め、再び前進を始める。
最高速度は40km/hほど。徒歩は無論のこと、馬車にも迫る速さを誇る。
ただ、あらかじめ敷設されたレールの上のみしか移動できないため、あくまで目的地付近までの足として利用するに留まる。
オルトにとっては、この都市でも一二を争う重要アイテムなのだが。
「魔術からっきしの俺からすりゃ、これがなきゃ移動は死活問題だもんなぁ」
オルトの顔を心地のいい夜風が抜けていく。視線を左右に向けてみれば、さまざまな色の光が尾を引いて後ろへ流れていった。
日中は利用者が増えることもあり、ほぼ確実に速度制限が設けられてしまうが、その縛りは深夜帯であれば滅多に発生しない。アルコールに侵された者はドラクーンには搭乗できないことも大きいだろう。
目論見通り、オルトは最初から最後までほぼトップスピードで市街を駆け抜け、正門までたどり着いた。
利用は有料なので、距離換算で提示されたお金を備え付けられた投入口につっこみ、その場へ降り立つ。
「相変わらずゴツいな」
オルトの目の前に建つのは、厳めしい石造りの門。その大きさは巨人の侵攻すら阻むほどの迫力を持っていた。
周辺は閑散としており、オルトを除く人間は一人も見当たらない。
それもそのはず。この深夜に荷馬車を引いた労働者や商人、キャラバンに乗った旅人など来ないし、襲撃による緊急出動でもなければ、都市を出て行く者もいない。
そんな門に向かって、オルトは懐から取り出した四角いカードのようなものを肩口あたりの高さまで掲げながら、気負うことなく歩いていく。
「お疲れ様です、守衛さん。通らせて貰いますね」
「あら軍人さん。またこんな時間までお勤めたぁ頭が下がりますわ」
都市の出口側に構えた待機所で雑誌を拡げていた初老の男性は、オルトを見るや否や柔和に微笑む。
そしてあろうことか、こんな時間だというのに外へ出ようとする彼に対し碌な疑いも持たず、何重もの
これは、別にオルトだけに許された特権、という訳ではない。アストラルの人間であれば、そこに在籍をしている証である身分証を提示すれば、基本都市の出入りは自由なのだ。
軍規の中には、個人で異常に気付いた際、都市内外問わず即時対処できる体制であらねばならない、とある。
何より魔への徹底抗戦を芯とするオストラントであるがこその、軍に属する人間へ与えられた自由であるといえよう。
「はぁー、本当に融通が利かないな。確かに『網』はあるけど、人目はもうないだろうに」
オルトは感触を確かめるように片手で拳を作るが、それはまだ奥底で眠っているようで、返ってくるのは皮膚に爪が食い込む感触だけだった。
苛立ち紛れに悪態を吐きながら、門の向こうに広がる荒野をひた走るオルト。
ここは遥か昔、百年ほど前であれば木々の立ち並ぶ樹林帯であったのだが、大規模な魔との戦争で一帯が吹き飛んだのだ。
同時に環境が利用できない汚染されたマナ…通称『ポシューション・マナ』が大地に浸透してしまったことで、不毛の荒野と化してしまった。
このポシューション・マナだが、確認自体はとうに数十年前からされており、魔術の発展が目覚ましいオストラントを筆頭として研究も盛んにされてきたのだが、明らかになったのは五属性のうちのいずれでも扱えないマナであること、五属性全てのマナの流れを阻害することの二点だ。
これは研究後の数年内に明らかとなっており、それから十年単位で進展が全くないことを意味する。
そんなポシューション・マナにより、不毛となった大地が広がる範囲は、オストラントを中心に半径10kmである。
半径10km。これは軍政都市オストラントが、ここ10年に渡り魔の侵入を完全に防いでいる範囲そのものだ。
この見通しの良さと、ポシューション・マナが浸透した大地そのものこそ、実のところオストラントにとって最大の地の利なのだ。
さて、ようやく広大な荒野のおよそ半分を走り切ったオルト。
そんな彼の身に、待ちわびた変化が訪れる。
「ふぅ、やっぱり半分くらいまで行かないとダメだな」
身体の芯に灯った熱が、やがて全身へ回る。
それはオルトの持つ、否。人間の持つ力とは全く異なる、異質な色を持っていた。
仮にオルトの側に観測者がいれば、常識を覆す光景に腰を抜かしていただろう。
そして、一秒とかからず、オルト・ハイゼンの変容は完了する。
―――結果、彼は人を超越した。
「よッと!」
オルトの片足を起点に、地面へ蜘蛛の巣状に罅が走った。
否。彼はただ、前方への推進力を得るため、少し強めに踏み込んだだけだ。
実際のところは、地面が割れるほどの運動量で跳躍したため、軽く弾丸に迫る速度で飛翔しているわけだが。
とてつもない速度で前進を始めたのは良いが、お蔭で荒野の終着点はすでに目と鼻の先。このまま進み続ければ、木々に衝突して挽肉である。
(空へ!)
二度目の踏み切り。今度は足の力のベクトルを上へ向けた。
地面を物理的に割り、オルトは一瞬で高度30mほど上空へ跳び上がる。彼の眼前にまで迫っていた林は、瞬く間に眼下へ消えていった。
「『
滞空中に短く唱えると、オルトの背中に円形の輪が左右に三つずつ展開する。
そのうちの左右一対が細かく震えた瞬間、空気を叩く凄絶な炸裂音とともに前方への推進を開始した。
急加速の影響か、オルトの耳に若干の閉そく感が襲うも、間もなく解消する。
それを待っていたと言わんばかりに、彼はもう一対の光輪を追加で振動させた。
「この速度で飛んでるときはいつも思うけど、やっぱ生身でやったらバラバラになるんだろうな」
現在のオルトは、体内で生成される特異なマナの恩恵で、人の身体能力を大きく逸脱している。
特異な魔術の属性は、『光』。
この世にある五つの属性のいずれにも属さない、女神から賜った
なぜ特異と言えるのか。それは、魔術の発生原理による。
通常の魔術であれば、術者の扱える属性のマナのみを選択的に取り込み、それを基として応じた魔術を発動させるという手順だ。
しかし、光魔術は全てのマナを取り込めてしまう。つまり大気中のマナの全てが扱える、ということになる。
この特性は、他の既存の魔術属性を完全に後方へ置き去りにしてしまった。
魔術師は大気中のマナ属性の偏りに大きくポテンシャルを左右される。中には遠方のマナへ手を伸ばせる例外的な才の持ち主もいるが、漂うマナの五分の一しか扱えない事実に変わりはない。
大抵は魔術として組み立てる間で集められるマナはたかがしれている。しかも、魔術として放出する際は必ずと言っていいほど、指向性を持たせられなかったマナが余剰として霧散してしまう。
故にこそ、念入りなマナ吸収、そして効率的な変換をさせられる大魔術は溜めが長い。
では、その五属性全てのマナを己の魔術に変換させられる光属性はどうだろうか。
至極単純に考えれば、同じ時間で魔術を組み立てた場合、他の属性魔術と比べて出力は五倍。反則的な威力を誇ることは想像に難くない。
更に反則さに拍車がかかっている要素が、光魔術が純粋なエネルギ―の放出に近いということだ。
まるで、元を辿れば全ては一つに帰結する、とでも言わんばかりに、各属性のマナを一個の熱量に変換してしまい、オルトはそれを使って魔術を行使している。
属性の枠に囚われないため、事実上有利、不利が存在しない唯一の力と化しているのだ。
「俺が普通の魔術師だったら、こうも首尾良く脱走まがいのことなんてできないしな」
オストラントの周囲10km…荒野の範囲内には、『礼陣』と呼ばれる外敵感知用の魔術が張られている。
獲物を嵌める罠のイメージから、アストラルの関係者間では網と表現されるが、実際は指定の範囲内をすっぽりと網羅する性質である。
(これだけ規模のデカい魔術を扱える普通の人間なんて、恐らくあの人を除いて他にいないだろうな)
ちなみに数多ある魔術には、習得難度と及ぼす効果の観点から基礎・下位・上位と三つのランク分けがなされている。『礼陣』は上位に位置する物の中でも更に難度の高い魔術だ。
では、そんな上位中の上位である『礼陣』の効果とは何か。
簡単だ。都市内部を除いた、網の効果範囲である荒野で五属性のうちのいずれかの魔術を行使すれば、あっという間に居場所や特性が露見してしまうのだ。
人間が魔術を扱う場合は、自己意志を持って詠唱を行うことで発動させるが、魔は常に何らかの魔術を行使している状態らしく、『礼陣』の範囲内に足を踏み入れた瞬間に反応してしまう。
24時間体制で監視するアストラルの目で敵と判断され次第、すぐさま砲火が始まり、隠れられる障害物もないため、対象はものの数秒で木端と化す。
仮に耐え忍ぶ者が現れても、必ず2~3名は交代制で常駐しているシュヴァリエやその師団メンバーが直接対処にあたる。
そんな絶対的効力をもった『礼陣』の監視・迎撃態勢も、残念ながら万全とは言えない。
十分なマナと使用者の技量が合わされば、大抵の場所に展開可能な魔術ではあるが、これが適用されない範囲は、確かに存在する。
―――地中だ。
地中には目が届かないため、構造や適した発動方法が把握できず、設置することができない。
そのため、地中を移動することで『礼陣』の敷設範囲を脱することができれば、奇襲は容易く成功してしまう。
魔には地中を掘削し移動できる種は珍しくなく、破られる可能性は非常に高い。
この問題を解決するのが、ポシューション•マナだ。
ポシューション•マナは五属性のマナの流れを阻害する特性上、長時間に渡り直接触れ続けたり、多量に体内へ取り込んだりすると、一定時間魔術を扱えなくなったり、衰弱してしまったりする。
それは地中に潜ろうものなら一層顕著となり、マナが生命力の源である魔にとって致命的となる。
無論、マナの流れそのものを阻害してしまうので、防御手段を講じても砂糖菓子を水に浸したかのように溶け消えてしまう。
つまり、オストラントを外から攻め落とそうと考えるのなら、『礼陣』の張られた迎撃態勢万全の地上か空中の二択に絞られる、ということである。
これこそ、十二年に渡り魔を拒み続けた、オストラントが誇る鉄壁の守りだ。
そんな危険地帯で堂々と魔術を行使してしまっているオルトだが、網は彼の存在を感知することなく、敷地外への逃走を許していた。
なぜなら―――――
「流石に番外の属性まで感知するシステムはないってことだな」
光属性は、五属性のいずれにも含まれない。派生属性としても認識されない。
網の術者も、こればかりは想定の外だろう。五属性のマナ、五属性の魔術。千年以上もの昔から続いてきた常識なのだから。
「よし。ここいらで加速するか」
オルトは『光翼』を仰角を上げることで、更に飛行高度を上昇させる。これまでの30mから一気に1000mへ迫るほどの高さへ。
加速するにあたり、なぜ高度をあげる必要があるのか。それは、音を超える速さで物体が運動した際に発生する衝撃波を地上に届かせないようにするためだ。
このあたりはまだアストラルの哨戒範囲である。ズタズタになった地形を見れば何事かと無用な心配を抱かせる事になってしまう。オルトはこれを避けるために高度をあげた。
地上の景色が下へと押し流されていく。そして、視界の九割方が空に埋め尽くされたところで、左右もう一対の『光翼』へマナを流した。
これで展開している光輪全てが起動した。彼の姿を地上から目撃した者がいたとすれば、それは一条の星のようであっただろう。
「お、フレガ山脈が見えてきたな。こいつを越えてすぐのところが目的地か」
フレガ山脈は、標高4300mを誇る高山だ。世界でも有数の長距離連峰であり、その長さは全長1500kmに及ぶ。しかも、連なる山々はどれも3000m級ばかりであり、よっぽど端の方へ行かねば1000mレベルまで標高が下がらない。
頂上付近は一年を通して天候が酷く不安定であり、登って越えようとするものは魔を含めまず居ない。荒れている時は平均で風速40m/sの暴風が周辺を蹂躙し、凍てつく吹雪も伴って踏み込む生命を徹底的に死へと追いやる。
オルトが見る今日のフレガ山脈も、やはり頂上をすっぽり覆うように見事な笠雲ができていた。内側の環境は目も当てられない様相となっているだろう。
「こりゃあ大変だろうな。…通って進めば、の話だが」
『光翼』の仰角をさらに上げる。上げ続け、ほぼ直角へ。
そうして直上への推進力を獲得したオルトは、幾重もの薄雲を抜け、みるみるうちに高度を1000mから更に上げていく。
10秒も掛からぬうちに高度5000mへ。オルトはフレガ山脈を完全に俯瞰する高さに到達した。
フレガ山脈は確かに難所だ。生半可な装備と覚悟で通ることは不可能。…そう、通るのであれば。
通らずに迂回することができるのなら、このリスクを完全無視してもよいのだ。
ただ、この山脈で常人がとる普通の迂回方法は、東側のほぼ端に位置する2000mほどの低山を登って越えることだ。
間違っても、オルトのように5000mの高さまで飛び上がって越えるなどという方法ではない。
余談だが、このフレガ山脈を越えるルートは、オストラントがもう一つの都市国家とやり取りをする上で非常に効率的である。
そのため、両国の軍内部にいる通商担当のトップが結託し、トンネルを開通させる計画を進行させている。これが為されれば、大きく経路を迂回する必要がなくなり、現状より最大で3日の短縮に繋がるという。
閑話休題。
悠々とフレガ山脈を越えてみせたオルトは、そのままオストラントとは反対側の麓へ降り立つ。
高速度の物体が着陸した衝撃で、土煙と病葉が舞い踊り、木々がざわめいた。
都市を出てからここまでの所要時間は、驚異の約15分。荷馬車を引く商人が聞いたら泡を吹いて卒倒するだろう。
オルトは軽くあたりを警戒する。周辺は高い木々に覆われ、夜間であることも手伝い見通しが非常に悪い。
その中でも、170km離れている距離からターゲットを捉えた異次元の索敵力は健在らしく、ここからほど近い場所に討伐対象がいると反応が帰ってきた。
―――と、オルトは索敵中にこちらへ向かってくるマナの塊を察知した。
「『
たった四句の短い詠唱で手のひらから出現した光の剣を取ったオルトは、今まさに頭上から迫っていた巨大な影を横薙ぎに両断する。
それは野太い悲鳴を上げたのちに赤々とした血飛沫を撒きながら地面に転がると、わずかに木々の合間から差し込む月光に照らされ、オルトの前に姿を晒した。
「こいつは…ガーゴイルか」
ガーゴイルは土属性の魔術を得意とする魔だ。蝙蝠のような翼に、鳥のような顔と体を持った、体長およそ3m程度の異形。
非常に動きが素早く、また常に全身を覆う強力な防御障壁を展開できるほど魔術の能力も高いことから、一匹でも確認されればオストラントではシュヴァリエをぶつけるほどの上級種である。
守りに徹し、消耗したところを叩くのが常套手段とされており、長期戦に持ち込まざるをえない手合いなのだが…
「そういうや、カルのやつが偵察中にこいつと出くわして死ぬかと思ったとか言ってたっけか」
アストラルの戦闘においての軍規では、まず一番に相対する魔が下級種と上級種のいずれであるかを判断するところから始める。その後にチーム全体がとる対応が分かれるからだ。
その大まかな内容としては、下級種のみであれば、アストラルの近衛戦闘部隊のみで対処。ただし、小隊員は多対一の状況を必ず避け、同数かそれ以上の数で敵と当たること。
上級種が含まれれば、必ずシュヴァリエが一人付き、その直下である師団が戦闘をアシストする。近衛戦闘部隊は基本的に上級種との接敵は禁止。と、このような形だ。
さらに詳細な部分を語れば、敵の傾向に合わせた味方の編成だったり、地形ごとの適した戦闘展開方法だったりなども存在する。
こういったルールが敷かれ、それが厳格に守られているからこそ、オストラントは躍進を続けているのだろう。
「ん?コイツと似た感じの反応が、他にも…?」
両断されたガーゴイルの死体を一瞥したオルトは、微かに違和感を覚え、その場で念入りに周囲の探知をかける。
わかりやすいほど大きなマナを抱える一個を除き、他の細かい反応も残さず拾っていく。
普通の魔術師であれば、このように精査などせずとも把握できる情報なのだが、今の今まで魔術をほとんど使っていなかったオルトにとっては、非常に神経を使う作業であった。
その結果、わかったのはここから少し離れた場所に大量の取り巻きが集っている事実だった。
「ふぅ、この数全部ガーゴイルか。大まかに数えても―――30。向こうだったら大騒ぎだろうな」
オルトは汗を拭いながら、この一帯に集中するガーゴイルの群れの存在を把握し、辟易とした顔を作る。
討伐対象として指定しているのは、ガーゴイルではなく巨大なマナを持つ大物の方だが、これをそのまま放置しておく選択はないだろう。
いくら間にフレガ山脈があるとはいえ、オストラントまでやってこないとは限らない。
何より、ここは交易のための経路に近いため、放っておけば人的被害が出かねないのだ。
「じゃ、まずは前哨戦からといくか」
オルトは光の剣の柄を握りしめた。
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