四 「夢と夢」


 マグナスとサフィラがルーナと邂逅した頃、雨具屋ではレジーナが目を覚ましていた。

 ジェンが目撃したと言う黒いモヤが現れることはなく、また酷く魘されることもなく、静かにその目蓋が持ち上がる。じっとその様子を見つめていたロイドは、現れた双黒へ向けて微笑んだ。

 

「大事ないですか、殿下」

「……私…………」

 

 ゆっくりとソファの上に起き上がった王女が、ぼんやりと瞬きする。問いかけの意味が頭に沁みてくると、自分の身体と部屋の様子に順番に目を走らせた。

 

「何か、あったのですか?ジェンはどこ?ミーニアは、大丈夫でしたか?」

「大丈夫、二人とも無事です。今は、それぞれ頼んだ仕事をこなしてくれています」

「よかった……私は、眠っていたのですか?一度、起こしてもらったのに……」

 

 どこか遠くを眺めるように、黒い瞳が虚空を見つめる。「私は……」と呟いたきり口を閉ざしてしまった王女に、ロイドはじわりと拳を握った。言葉選びは苦手だったなと、不意に思い出す。双子達と暮らし始めて、徐々に忘れていった感覚だった。

 慎重に選んだ言葉を、声に乗せる。

 

「答えにくければ、流してください。殿下は……自分が自分でないような、不思議な感覚になることがありませんか」

「自分でないような……感覚……?」

「そうですね……例えば、頭の中で誰かの声がしたり、自分が知らないはずの事を知っていたり。自分で感じなくても、周りに言われた経験があるとか、どんな些細なことでも構いません。思い当たることはないですか」

「……そういう意味で言っていたのかは分かりませんが、でも……子供らしくないとか、不自然なほど大人びていて不気味だとか、噂されていたのは知っています。あまり、実感はなかったけれど……」

 

 暫くぼんやりと考える素振りをした後、思い立ったように王女は口を開いた。

 

「夢を、見るんです。もう、何度も」

「夢……」

「物心ついた頃に初めてその夢を見て、それからは数えきれないほどで……いつもいつも、同じ夢でした」

「どんな夢を?」

「真っ黒で、何も見えない空間に、私一人で立っている夢です。身体中に蛇のような何かが纏わりついてきて、這い回っていて、私を呼ぶ声だけが聞こえて、動けないし、声も出せない……でも……」

「……」

 

 暗い瞳が、細められる。

 

「今日、初めて変化が起きたんです。呼ぶ声に、返事ができた。そうしたら、急に辺りの様子が変わって……花がたくさん咲いていて、部屋の真ん中に、不気味な鳥籠のような物が現れて……その、中に…………」

「……殿下によく似た少女が居たのでは?」

 

 まるで見ていたかのような言葉に、王女がロイドの方へ顔を向けた。少し思い切り過ぎたかと発言を悔いるロイドに、向けられた瞳は沈んだ色をしていた。

 

「アルビス……私は『彼女』なのですか?貴方が言いたいのは、そういうこと?」

 

 ふっと、王女の口角が上がる。幼い相貌に張り付けられた、その不釣り合いな表情。時空海の深淵を覗いているかのような、深い闇色の瞳。不気味だと形容されるのも頷けてしまう、人々の恐れる、その色。

 

 それでも。

 

 いま、目を逸らしてはならない。

 ロイドは双黒を、正面から見つめた。

 

「いいえ。貴女は貴女だ。イーオン陛下とミラ妃殿下の間に生まれた、王女レジーナ様です。大丈夫、その事実は変わらない。絶対に」

 

 見開かれた王女の瞳に、みるみる涙の膜が盛り上がる。溢れて零れた一筋を驚いたように指先で拭うと、レジーナはもぞもぞとソファから脚を下ろした。

 

「もう一度、会えますか?父上と、母上に」

「ええ、必ず」

「……ありがとう」

 

 アルビス、ではなく「ロイド」と結んで、レジーナが微笑む。彼女がこれまで頑なに呼ばなかった名を、この時初めて、彼女の声が紡いだのだった。

 胸の内に暖かく広がる何かを感じながら、ロイドも彼女の名を呼んだ。

 

「会いに行きましょう、レジーナ様」

 

 

 

 

 

 

 

 身支度を整え、暖炉の後始末を終えた時、微かな蹄鉄の音を両耳が拾った。窓辺に身を寄せカーテンの隙間から通りを見下ろしたロイドは、レジーナを促し階下へ向かった。氷の塊が蓋をしたままの裏口を通り過ぎ、反対側、雨具屋店内へと続くドアを開ける。ちょうど頼まれ事を終えたらしいミーニアが、表口を開け顔を覗かせた。冷たい雪の降る夜闇の中、街灯の下に手綱を繋がれ、一頭の馬が左右に頭を降っていた。濡れたたてがみから、細かい雫が四方へ飛び散る。振り返り馬の様子を伺ったミーニアが、一度扉を閉め、落ち着かせに戻って行った。

 ドアの数歩手前で、ロイドはレジーナを引き留めた。王女に雨衣のフードを被せてやりながら、店主は口を開く。

 

「ここを出たらもう、暫くは安全な場所は無いと思ってください。道中も城も、恐らくはその後も」

「その後……さっき話してくれた、『女神の欠片』のことですか?」

 

 先立って上階で伝えたドミナからの情報を、レジーナは既に何度も反芻していた。

 真剣な眼差しが、ロイドのそれと交錯する。

 

「そうです。まずはこの国の欠片を探しに、王宮へ向かいます。ひとつ目の欠片を入手でき次第、次の国へ渡ります。それを繰り返し、全ての欠片を集めて、持ち主の元へ帰す。それが、俺達の役目です」

「役目……」

「はい。この国でいま起きている異変のように、恐らく他の六国も、何らかの危機に陥っています。度合いは違っても、放置すれば行き着く先はひとつ……」

「国が、滅びる——?」

「……ええ。既にその道を辿った国もあると聞いています。雨の国自体、二百年続く雨に疲弊しています。それだけじゃない、十年前の『大空襲』の傷跡は癒えることなく、今も残ったままです。このまま雨がやまなければ、いずれ必ず、倒れることになる——根が腐り果てた大樹のように」

 

 ロイドの言葉に、王女が俯く。

 王宮と、城下と。両方を生きた経験のある男の言葉は、それなりの重さを持っていた。

 

 二百年の間、降り続く雨。それはゆっくりと、だが確実に、かつての大国を蝕んでいる。その事実を、静かな口調で、しかしはっきりと彼は告げていた。

 排水は時空海という捌け口へ注いで行くため、氾濫が一度も起きなかったことが、不幸中の幸いだった。それでも、次第に建物は腐り、幾度も病が蔓延し、魔術士が一人減る度に食糧難が襲う。大規模な海鳴りが起これば、多くの民が犠牲になる。そうして蓄積された澱みは、停滞こそすれ、改善されることは決してない。それが、雨の国の現状だった。

 

 細められ、泳ぐ瞳。逡巡する様がはっきり見てとれるその顔には、年相応の純心さが滲んでいた。

 

「それは……その役目は、やりたくないと言ってはいけないもの……?私には貴方達のような、特別な力は何もない。私より、強い人ならいくらでもいます。私……すごく怖いんです。うちに帰りたい。このまま、今まで通りの生活に戻りたい。女であることがいけないことなら、一生男として生きていきます!今までみたいに!父上と母上にも、兄上にも、絶対に迷惑はかけません!静かに生きられれば、それで良い……だから……それでは……いけない?」

 

 溢さないよう、目一杯に溜まった涙。雨衣の袖をきつく握りしめる両手。レジーナの心の底からの言葉が、冷え切った店内に痛切に響いた。

 店の正面ドアが静かに開き、控えめなベルの音が響く。ミーニアが戻ったのを視界の端で捉えながら、ロイドは膝を折り、王女と視線の高さを合わせた。

 

「レジーナ様。貴女は貴女です。その事実は絶対に揺らがない。ですが、殿下の中には『もう一つのアニマ』があります。それがさっき、殿下の身体を支配し動かしているのを見ました。恐らく、夢に現れ何かを訴えているのも、そのアニマの人物です」

「——!夢の中の、彼女?」

「はい、恐らく。ほんの少しだけですが、声を聞けました。彼女の元へ来るように、と。その時に、確信したことがあります。容姿が似ているだけじゃない……過去に何度も、俺は彼女の顔を『視て』いたんです」

「……?」

「殿下の中にある、もう一つのアニマは……ディウィティアという少女の物です。アニマで書かれた本にあった、王家の最初の一人の名です」

「それは……二百年も前に生きていたはずの人が、まだ私の中で生きている、ということ?」

「生きている、と断言できるかどうかは分かりません。アニマの状態も、生者の物とはかけ離れていました。彼女についてはまだ謎が多いですが、一つ言えるのは——」

「『私の代わりはいない』?」

「……ええ。殿下と彼女に繋がりがある以上、この『役目』は避けては通れないと思います。殿下の夢で彼女が伝えようとしている事は、恐らく他の誰でもない、殿下にしか、出来ない事です」

「……」

 

 唇を結び、俯いた王女。

 その小さな頭に、ロイドは片手を伸ばす。ぽんと軽く、掌の熱を伝えるように、静かにフードの上から触れた。

 

「殿下にしか出来ない事、ではありますが……絶対にやらなければならない事、ではないです」

「……え?」

「誰か一人にしか出来ないことだからといって、周りがそれを強制する権利なんてない。このまま城に帰って陛下や妃殿下の元に残りたいと仰るのでしたら、欠片集めには俺達だけで向かいます。いや……俺達、と言うのも違うか。サフィラやマグナスが残りたいと言うなら、俺一人で。この国を離れて、旅先で気に入った国に残りたいと言うなら、それもありだと思います。殿下の意思を、俺は最優先にします」

「それは……どうしてですか?貴方は、怖くないの?他の国がどういう状態かもわからないし、家族とも離れ離れになってしまうのに、どうして?」

「俺が、そうしたいからです」

「自分だけが、犠牲になれば済むと?」

「違います。そんな立派な理由じゃない」

「ディウィティアと繋がる私がいないことで、欠片集めが成立しなかったら?」

「その時は、別の手段を考えます。必ず、世界を元に戻す方法はあるはずだ」

「どうして、そこまで……」

 

 はっきりと告げたロイドに、困惑した顔のレジーナ。そのやり取りを黙って聞きながら、ミーニアは腕を組んだ。次にロイドの口から出る言葉が何なのか、わかってしまったから。

 彼が、人知れず抱き続けているという夢。昔一度だけ、本当に唐突に、独り言のように発せられたのを兄と共に聞いた。数え切れないほどの本を読み、地下に潜り情報を集め、探し続けている、その答。

 ロイドの唇が、開く。

 

「取り戻したいからです。この国に、陽の光を。生きる希望を」

 

 俯いていた王女の顔が上がる。見開かれた瞳が、小刻みに揺れている。熱を失い蒼白だった頬に、微かに朱が差した。

 ミーニアが知る限り、雨の国で最後の晴天が観測されたのは、自分達兄妹が産まれるより少し前。隠居していた先代の王、オムニスが崩御したその日。空から一切の雲が消え、澄んだ風が国中をさらって行ったと言う。そしてまた、次の太陽が登る頃には、日の出と共に雨雲が空を覆う。建国以来、王族がこの世を去るその日だけ、民は青い空と照りつける太陽を見上げ、ただ涙する。レジーナには、晴天をその目で見た経験はないはずだ。それでも、王家の人間として、幼い頃から何度も伝え聞いてきたはずの景色。「なんてずるい言葉だろう」と、ミーニアは一人奥歯を噛み締めた。

 

「これはあくまでも俺の勝手な願望です。なので——」

「いいえロイド。私も、一緒に行きます。連れて行ってください。女神の欠片を探す旅へ」

「……殿下」

「大丈夫です。もう、決めました」

 

 大丈夫、と、もう一度小さく呟く声。真っ直ぐに青灰を見つめる漆黒は、もう揺れていなかった。

 

「私も見てみたい。雲一つない、晴れ渡るこの国の空を。その下で生きる、人々の表情かおを」

「……わかりました。必ず、守ります」

 

 立ち上がり自らの雨衣を整えると、ロイドは冷え切った王女の手を取り、歩き出す。表口の前で待っていたミーニアの所で立ち止まり、徐に右手を差し出した。握られていた拳の下に、掌を上向けて差し出すと、ミーニアの手の中にヒヤリとした硬質な何かが落ちてくる。渡された物を確認したミーニアは、すぐにそれを突き返した。瞬間的に、頭に血が上ったのが分かった。それなのに、鳩尾の辺りがぐっと冷たくなる。

 

 ロイドから渡された物、それは彼が常時携帯している、店と事務所の鍵の束だった。

 

「受け取らない。ここはロイドの家でしょ」

「このまま持ち歩いて、知らない土地で無くしても困る。戻るまで、持ってて欲しい」

「断ります。ちゃんと自分で管理しなさい。絶対に無くさないように、それに……」

 

 鍵を握りしめたままの拳を、更に強く握る。冷たい金属の塊が、じわりと熱を持った気がした。同時に、目の奥がぐっと熱くなる。

 

「ちゃんと、帰って来れるように……お守りだと思って、持ってって……お願いだから」

「……」

 

 柔らかな声で「わかった」と答えがあるまで、ミーニアは目を逸さなかった。ミーニアの手で暖かくなった鍵束を、今度はロイドが受け取る。折れなかったこと、泣かなかったことも、自分を褒めてやりたいと思った。一度、深呼吸をする。

 

「それに、まだ出発じゃないんでしょ?『例の場所』で合流って指示、あたしもジェンも忘れてないから。城でやるべきことが終わったら、ちゃんと来てよね」

「ん。とにかく二人とも、もしもの場合は俺の指示は無視していいから、さっきみたいなことがまた起きるかもしれない、何があっても自分の身を守るのを最優先に、怪我しないように、くれぐれも——」

「わかってる!何回同じこと言うの。それに、お互い様」

「……うん。そうだな。お互い、無事で……行ってくる」

「うん……行ってらっしゃい」

 

 雨具屋の扉が開く。

 長身の青年と、小さな少女の二つの影が、店の前で静かに待っていた馬の背に順番に跨がる。王女が馬に乗るのを手伝ってやりながら、ミーニアは馬の丈夫な首を何度も撫でた。一番脚の速い子を、と店主に依頼して借りてきた。車を引くより人を背に乗せて走る方が好きな馬だと、店主のお墨付きだった。どうか二人のことをお願いね、と、心の中で強く念じながら、脇腹をそっと押した。二人を乗せた馬が、ゆっくりと一歩踏み出す。ロイドとレジーナが、馬上でミーニアの方を振り返った。王女が、首だけで小さくお辞儀をする。少しだけ緊張しているようなその背に、ミーニアも頭を下げて返礼し、見送る。ロイドが、手綱を引いた。

 

「また、『海岸』で」

「……うん!気を付けて!」

 

 手足で巧みに指示を出すロイドが駆る馬の姿は、巻き上がった雪煙の向こう、夜の帷のその奥へと、蹄鉄の音を響かせながら遠ざかっていった。

 

「……『取り戻したい』、か」

 

 白い溜息と共に、こぼれ落ちた言葉。

 この国に生きる者ならば恋焦がれて当然の、命を育む陽の光。青い空。爽やかな風。ミーニアだって、それに恐らくジェンだって、晴天が戻るのならば、それほど嬉しい事は他にないだろう。

 

 けれど。

 彼女達兄妹を暗闇から掬い上げてくれた、優しい月明かりのような青年。血は繋がらないけれど、自分よりも大事だと思える、ただ一人の存在。陽の光と引き換えに、彼を失うことになるのならば。そんな選択肢なんて、比べるまでもない。だというのに、こうして大人しく送り出してしまった。日常でよく見せる諦めたような顔ではない、「夢」を語る、その表情に、声色に、抗えなかった。

 

(……好き……なんだなあ、やっぱり)

 

 自覚など、とうの昔にしている。背中を押してやる覚悟もできた。彼の手筈通りにいけば、外つ国への出立前にもう一度顔を合わせることができる。旅へ同行することは、許可してくれなかったけれど。

 店の中へ戻り扉を閉め、稼働した吸水器の青白い光を眺めながら、両頬を軽く叩いて気合いを入れた。ロイドに指示された「頼み事」以外にも、まだやれることはある。ミーニアが馬を借りに走り、その間ジェンは別件で水路へ向かった。兄が戻ったら、二人で支度を整え、急ぎ合流地点へ向かうことになっている。それが、家主からの最後の指示だ。その前に——

 

「うん……きっとできる、やってみせる」

 

 朝の近衛来訪時、込められた魔力が尽き術式が消えた吸水器の魔石を、ジェンが予備のものと交換していた。カウンターの奥、回収に出すために箱に詰められた、光を失った石を一つ取り出した。何度も再利用され、人の手を渡り歩き続けた黒い石は、角が取れ所々に薄くひびが入っている。拳大のそれを大事に両手で抱えながら、双子の片割れの少女は二階、兄の作業場へと走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

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