四 「ずっとあんたを探してた」



「へえ……」


 フードを外し素顔を晒したサフィラを、対面のドミナが舐めるように見つめる。例の手配書は地下でも出回っているはずだが、ロイドが施した細工のおかげか怪しまれてはいない。ひとまずの安堵を得たところで、ドミナがぐっと身を乗り出した。ロイドの方へ向き直った妖艶な笑みの、片側の口角が少し上がる。


「言い値は?ま、出すと約束は出来ないけど」


 何の話だ、と、サフィラがロイドを睨む。少し待てと片手でそれを制し、ドミナの両目を真っ直ぐに捉える。

 ここからが、交渉開始だ。


「紹介したいやつがいるとは言ったが、働き手としてじゃない。今日ここへ彼を連れて来たのは、あんたにとって有益だと思ったからだ。だいぶ待たせたが……ツケを清算させてもらいたい」


 ロイドの言葉に、ドミナは大仰な身振りで肩をすくめて見せる。深い溜息と、困ったように首を振る仕草も付いてきた。


「清算〜?あんた今、清算って言った?額、忘れたわけじゃないだろ?その子一人に肩代わりさせようってのは、ちょっと無理があるんじゃない?有益って言ってもねえ……まあ、みてくれは悪かないけど、口の利き方もできてない。あんたもついでに暫く働いてくってんなら、考えなくもないけど?ん?」

「ドミナ……さっきも言ったが、働き手として紹介したいわけじゃないし、俺もここで働くつもりはない」

「じゃあ何?売る気?」


 杯を煽った艶女に、ロイドの眉が怪訝そうに寄る。そんなわけないだろうとでも言いたげな顔に、「連れじゃないんだろ」と内心毒づくドミナだったが。


「違う。俺の弟だ」

「は?」


 思わず間の抜けた声が出た。一拍置いて、じわじわと可笑しさがやってくる。ばふっと音を立てて、ドミナは背凭れに身体を預けた。


「……弟?あんたの?あんた、兄弟いたの?」

「言ってなかっただけだ。他にはいない」


 質問の深意に気付かずに的外れな答えを寄越した男に、本格的に笑いが込み上げてきた。背後に控えている二人へ向けて、艶を乗せた声で呼び掛ける。


「ふ……ハハ!ねえ、この二人兄弟なんですって。ルプス、ノクス、あんた達と一緒ね」

「ハッ、一緒にしねえでくださいよ」

「やめろノクス、其方さん方もそう思ってるかもしれねえだろ」


 ロイド達から見て右手側、悪態をついた方がノクス。左手側、先刻ドミナの着替えに同行した方がルプス。ノクスは頭頂部のみ残して刈り上げた頭の、左耳の上に三本爪のような痕がある。一方のルプスは、細く編み込まれた髪の束を後ろで一つに括っている。地上では見慣れない風体の彼等も、血を分けた者同士のようだ。「弟がすまない」と、ルプスが僅かに頭を下げた。


「いや……こちらこそ、失礼した」


 ロイドが二人と順番に目を合わせると、ノクスはあからさまに顔を背けた。舌打ちの音が響く。そのやり取りを愉快そうに眺めていたドミナが、くつくつという含笑いと供に再び身を乗り出した。


「ねえロイド、アタシやっぱり勿体無いと思うよ。城も街も騒がしいってんで、今日はどこの店も部屋余っちまってるからさ。ねえ、まずは一晩でいい、稼いでいきなよ」


 ゴブレットを揺らし、ドミナが囁く。紅が彩る唇から発せられる声が、言葉が、さっきの煙草の煙のように甘く漂う。これではどちらが交渉される側かわからないではないかと、苛立ったサフィラがロイドを睨む。ロイドは表情一つ変えず、静かにドミナの瞳を見つめていた。

 やがて小さくだがはっきりと、「すまない」と言葉が紡がれる。少し眉尻の下がったこの笑みで、どれだけ荒稼ぎができるのか。経営者としては想像しただけで垂涎物なのだが、当の本人は歯牙にも掛けない。溢した溜息は、芳しい葡萄と酒精の香りがした。杯をテーブルへ戻し、すかした青灰の瞳に挑発的に笑む。ちょっとした意趣返しくらい、許されるだろう。


「あーあ、勿体無いねえ。二人並べて客間に出しゃあ入れ食い間違いなしだってのに。でもま、あんたも兄弟もちょーっと年増としまだしねえ……ああ、あんたんとこの双子なら、それなりの値で預かってやらなくもないけど?」


 軽口のつもりで発した提案に、ロイドの纏う空気が一変した。一度伏せられ、再びドミナへ向けられた瞳は、暗い水底のように冷たい光を放っていた。


「…………ドミナ」


 自分を諌めるその声に、背筋を冷たい感覚が這い上がり、抜けていく。

 ああ、本当に、性質たちが悪い。そして本当に、勿体無い男だ。


「……ハア。はいはい、意地でもウチに金落とす気はないってことね、ったく。まあいいわ。ねえ、ロイドの弟。気が向いたらいつでもアタシんとこに来なよ。兄貴のことなんか放っといてさ」


 ぐいっと、金髪の弟の方へ身体を向ける。これ程険しい目付きをしていなければ、女だと言われても疑わないような顔つきをしている。兄とはまた違った面差しだが、血は争えないとはよく言ったものだ。弟はドミナへ向けていた鋭い視線はそのまま、彼女の提案には応じず横目で兄を詰問した。


「おい、いつになったら話が進むんだ。これでは埒があかない。さっきも言ったが、私達は暇ではないんだ」

「待ちなよこのクソガキ。アタシとは会話する気もないっての?いい?わからないなら教えてあげるけど、わざわざ時間取ってやってるのはこっちなんだ。思い上がりも大概に——」


 激昂寸前だったドミナが、突然言葉を切った。不審に思ったルプスとノクスが、主人の背後で顔を見合わせる。同じく違和感を感じたサフィラも、ドミナの様子を伺う。眉根を寄せたドミナは、三人よりもさらに怪訝な表情をしていた。穴が空くほど、目の前のサフィラの顔を凝視している。薄く開かれていた唇が、僅かに声の調子を落として訝しげに言葉を発した。


「……あんた、どこかで会ったこと、ないわよね——?」


 見つめられ問われたサフィラが、首を傾げる。その仕草に否定の意味がこもっているのは明らかだったが、それでも釈然としない様子のドミナに、ロイドがゆっくりと口を開いた。


「ドミナ。あんたの最初で最後の俺への『依頼』、覚えてるか?それが果たされれば、金はいらないと」

「忘れるわけないだろ。なんで今そんな話を——なっ!?いや、待ちな……まさか、そんな……」


 血相を変えソファから立ち上がったドミナが、体勢を崩してよろめいた。すかさず、ルプスがその肩に手を添えて支える。ロイドも席を立ち、ドミナに背を向けサフィラの額に右手をかざす。何をされるか察したサフィラが、苦々しげに瞼を閉じた。

 主人の突然の取り乱し様に、焦ったノクスが威嚇するようにロイドに詰め寄る。


「おいてめえ、何してやがる!妙な動きしたら殺——」


 ロイドの正面に回ったノクスが、口を開けたまま固まった。その目が、大きく見開かれる。産まれてからずっと地下で生きてきたノクスにも、それが何なのかは瞬時に理解できた。


 仄暗い吊り下げ灯の明かりの下、銀髪の青年の瞳に碧色の光が灯っている。噂には聞いていたが、実際に見たことは無かった。

 「天眼」の放つ神秘的な光の色を、この時ノクスは初めて目の当たりにした。


「一つ、先に謝っておきたい。本人じゃなくて、すまない」


 ロイドが右手を離し元の位置へ戻ると、ドミナとルプスの位置からも何が起きたのかはっきりとわかった。今ロイドの隣にいるのは、派手な青い髪と薄紫色の瞳の青年。ロイドは自分の弟だと言ったが、間違いない。手配書にあった逃亡中の魔術士だ。ロイドの眼には碧の光輪。生命術を使ったのは間違いないが、いかんせん情報量が多すぎる。ロイドの謝罪の言葉も意味不明だ。困惑したルプスが、ドミナを支える手に力を込める。主人の肩は、どういうわけか小さく震えていた。


「ドミナ……一体何なんです、こいつら?」


 側近の問いかけに、主からの答えは無い。


 アニマを書き換えられた痛みに、サフィラは数度強く瞬きした。視界をぼやけさせていた涙の膜が引くと、目の前の様相に思わずぎょっとする。気丈で強気に見えたこの地下要塞の主人あるじの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちている。ルプスの腕に縋っていなければ、今にも倒れてしまいそうな程だ。驚いたのはサフィラだけではない。長年ドミナに仕えてきた二人も、これほど狼狽した彼女の姿は見たことがなかった。

 眦を朱に染めはらはらと涙を流すドミナと、わけが分からず途方に暮れるサフィラ、ルプス、ノクス。ただ一人、天眼を閉じたロイドだけが静かに成り行きを見守る中で、絞り出すようにドミナの唇が動いた。


「ああ、そんな……アタシは、ずっとあんたを…………『クレイス』……!」


 悲痛なその声は、目の前のサフィラへと向けられていた。






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