二 「もう一つの国都」


 初めてこの場所を訪れた時のことを、ロイドは鮮明に覚えている。人にとって、嗅覚から得る記憶は他の感覚より強烈な物だとは聞くが、そんな一般論を容易く打ち砕くほど、目の前に広がった光景はあまりにも新鮮だった。確実に脳に届いているはずの「匂い」など意に介さず、ロイドは眼前に広がる「街」の様相に目を奪われたのだった。




「これは——」


 隣に立つサフィラから、驚嘆の声が漏れる。ロイドと比べても更に年季の入った箱入りなのだから、無理もない。


 下水を時空海へと運ぶための排水路は、幾つもの細い配管が要所要所で合流し、人々が「川」と呼ぶ巨大な水路へと合流する。この「川」は、東西南北に四本のみ存在している。国土の北西に聳える王城が最も高地、川が地表へと現れる場所が、最も低い場所として位置付けられている。従って、北と西の川は全長も短く流れも比較的速い。王城から遠い南と東の川は、北西と比べ緩やかな分、水量も多い。

 そして今、この「川」に沿うように、地下街へと続くアーチ状の巨大な「門」が、二人の前に口を開けていた。


「ちょっと信じられないだろ?ここ」


 ぽっかりと開いた地下への入口を見上げる弟に、ロイドが声をかける。兄の方は見ずに、サフィラが小さく肯定の意を示した。全体をよく見るためか、一歩下がって雨除け布を額まで上げる。


「地下街の存在は耳にはしていたが、これではまるで……要塞じゃないか」


 アーチ状に口を開けた地下街の入り口は、中心に幅二十メートルはあるだろう「川」が流れている。その両脇を通路が通り、川の上に渡された左右を結ぶ橋のような通行路が、等間隔に奥へ続いているのが見える。左右の壁には煌々と街路灯が灯され、遥か頭上の天井からも照明が吊られている。そのおかげか、広大なトンネルのような下水路沿いの空間が、夜闇にくっきりと浮かび上がって見えた。トンネル内部の通路は、水路に沿って細かく枝分かれしているようで、雨衣ではなく襤褸を纏った住民たちが盛んに行き来している。そこかしこで小さな火が焚かれ、布切れや木端で作られた住居のようなものがいくつも並んでいる。火を囲んで博打に興じる者達、手招きする女の後を我先にと追う数人の男達、獲物を物色するかのように目を光らせながら歩く、子供の集団。水音に混じって、調子外れな鼻歌や下卑た笑い声が響いてくる。ただただ粛々と日々を送る城や城下の町には無い、不可思議な活気が満ちている。

 想像していたものとのあまりの落差に、サフィラは眉根を寄せた。地下街という呼び名は地上と比喩しただけで、実物はただの下水道なのだろうと思っていたが、どうやら認識を改めるべきらしい。


「これは一体……いくらなんでも不自然すぎる」

「やっぱり、そう思うか」

「排水量に伴い上水路が整備されたのは『女神の涙』以降。それ以前からあったはずのただの下水道が、これほど広大である必要性がない。かと言って、建国後にこんな大掛かりな地下整備が為されたという記録もない。そもそも、下水の排出口が四つしかないという時点で、今にして思えば不自然極まりない。何なんだ、ここは」

「……一つ、可能性がある」

「……?」

「……歩きながら話そう」


 入口に立ったままの二人に、俄かに視線が集まり始めていた。上等な雨衣で夜分訪れる客など、ほぼ皆無と言っていい場所だ。注がれる好奇の視線から逃れるべく、ロイドはサフィラを促した。

 トンネル内部へ足を踏み入れると、二人が通った場所から喧騒が消えていく。隙あらばと伺う目、何の目的でと怯える目、関わるなと伏せられる目。友好的な視線は、一つもなかった。ひそひそと、抑えられた声が耳に届く。


「ねえ見て、綺麗な上着……」

「『上』のやつがこんな時間に何の用だか……」

「両方男か?女?」

「どっちだろうと構やしねえ。奥でやっちまおうぜ」

「あの靴、あれだけで半年は腹一杯に食えるぞありゃあ……」

「待ちな。『あの人』の客だったらどうする、殺されるぞ」

「畜生、もったいねえなぁオイ」


 雨衣の下のグリモアを片手で確かめながら、サフィラは再び口元を覆った。


「さっきの薬」

「ん?」

「まだあるなら寄越せ」

「……やめておけ。どんな薬も適量を超えれば毒だ」

「なら早く続きを話してくれ。気分が悪い」


 そうだったな、と、ロイドはこの不可解な地下街に関する一つの考察を述べた。


「この場所、何かに似てると思わないか」

「何か……と言うと?」

「何かというより、何処かだな」

「……心当たりがない。もったいつけるな」

「本来必要ないはずで、どうやって造ったのかも分からない、取って付けたような場所」

「……まさか……『三階』か?」

「ご明察」

「だが、あの場所は——」


 ロイドの雨具屋に存在する、外からは視認することのできない、「三階」。あの空間を創り上げたのは他でもない、サフィラだ。

 今からおよそ十年前、ロイドがメンシズの名を捨てた後、連れ戻そうとしたサフィラが雨具屋を訪れた。もっとも、まだその頃は店は無く、ロイドが買い取ったばかりの空き家同然の建物だった。そして、その頃はれっきとした「三階建ての」家屋だった。だが、弟の願い叶わず二人が壮絶な兄弟喧嘩を繰り広げた結果、癇癪を起こした弟の暴走した魔力と出鱈目な術式で出来てしまったのが、あの透明な三階だった。

 施した本人にもどうやって組んだのかもわからない複雑な術式で、魔力を浪費してふらふらになりながら帰宅したサフィラは丸二日寝込んだ。一方、気づいた時には階段も出口も消え間取りすら変わってしまった三階に取り残され、なんとか床に穴を開け二階へと脱出したロイドは、屋外へ出て見上げた自宅の様相に冷や汗を流したのだった。


「ここも、恐らくは属性術を用いて形成された場所じゃないかと、俺は思ってる」

「馬鹿な……これほど巨大な建造物を造るとなると、とんでもない量の魔力が必要になる。それに、国全体の地下構造を把握した上で、隅々まで行き渡るだけの詳細な術式を組む必要がある。そんな大それたことの出来る人間がいたと言うのか」

「真相はわからないが、可能性はある。あのアニマの本も、お前やレジーナ様だって、本来あり得なかったはずの存在なんだ。この国には恐らく、まだ俺たちの知らない真実が隠されてる。そのうちの一つを知ってるかもしれない相手に、今から会う。ただ……」


 急に思案顔になったロイドに、サフィラが首を傾げる。


「ただ、何だ」

「……わかってると思うが、地下は無法地帯だ。上の法も常識も、ここでは通用しない。その代わり、東西南北それぞれの区を治めている者が、絶対の力を持つ。この東区を支配している主人あるじは、四人の中で唯一の女性……まあ、『曲者くせもの』ってことだ」

「……情報を引き出す算段はあるんだろうな」

「うん、まあ……それなりに、な」

「?」


 その手段として、ロイドはサフィラをここへ連れて来た。理由を言えば狼狽させてしまうだろうから、本人にはまだ伝えていない。

 東地下街の女主人「ドミナ」は、もう長い間、ある「友人」を探し続けていると言われている。








「おやおやおやおや、これはまた随分と懐かしいのが来たねえ。元気してた?色男」


 寝台ほども大きさがあるカウチに身を投げ出し、妖艶に微笑む美女。片手で頭を支え気怠げに寝そべり、もう片方の手には水煙草のパイプ。煙草本体のガラス容器からは、女が手にした物も含めて四つのパイプが伸び、カウチの端に腰掛けた大柄な男二人がそれを咥えている。三人の吐き出す芳醇な煙が広い室内に満ちて、天井付近で薄く揺らめいていた。フードを外し、「久しぶりだな」と女に返したロイドの横で、サフィラが派手に咳き込んだ。男二人が、目配せして嘲笑う。


「何が『久しぶりだな』だい。いつになったらウチで働く気になるのかと指折り数えて待ってたってのに、いきなり来なくなりやがって。おまけにアンタ、今じゃ嫁もいないのに瘤付きなんだろう?貸しの分は死ぬまでに払ってくれれば構わないとは言ったけど、そうだね……たっぷり利息もつけてもらわないと割に合わないよ、この甲斐性なし」


 くつくつと、女が笑う。年齢は、ロイド達の母より上にも見えるし、もっとずっと若いようにも見える。派手な化粧と豊満な身体つき、胸元に流れる艶やかな金糸の髪、そして露出の多い肌着のようなドレスが、判断を迷わせる。部屋に充満している甘ったるい香りの煙にも、思考する力を奪われていくような気がして、サフィラは悟られないように拳を握った。

 女がカウチから脚を下ろし、男の一人に自分のパイプを預けた。そのまま男に凭れ掛かりながら、誰も吸っていなかった残りの一本を手に取ると、ロイドを手招く。誘われるままパイプを受け取ったロイドが吸い口を咥えるのを、女は眩しそうに見つめる。女から遠い方の男が、深く煙を吸い込む様子を鼻で笑う。だが、吸い終わると同時にすぐさま同じだけ深く煙を吐き、「甘すぎる」と笑んだロイドに、今度は感嘆の声を漏らした。


「アンタ、お上品なツラして吸い方知ってんのか」

「友人にこれが好きなやつがいて、たまに吸わされて。覚えた」

「ハッ、つまんねえ。笑わせてくれるの期待してたのによ」

「およしよ。この色男、こう見えてアンタらより腕っ節は上だ。ツケの回収に人をやらないのもアタシの情け。二人とも心得ときな。さて、乾杯も済んだことだし、要件を聞こうじゃないか」


 脚を組み、再びパイプを燻らせる女の生白い腿が、赤みを帯びた照明の光に艶かしく浮かんでいた。







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