二章

一 「下水の街へ」

 雨の国の夕暮れは短い。

 分厚い雲の向こうにあるはずの太陽は、今日も顔を出すことはなく時空海の果てに沈んでゆく。冷たい雨に小さな霙が混じり始めた夕飯時、「雨具屋 ロイド」の裏口から、二つの黒い影が通りへと現れた。黒の雨衣に身を包んだ二人は、家路を急ぐ人の波に背を向けて、入り組んだ下り坂のその先へと歩を進めて行く。

 その後ろ姿を、雨具屋の窓から心配そうに見つめる双黒。王女レジーナは、薄く湯気の立つカップを両手で包みながら、同じように隣で見送りをしているミーニアに尋ねた。


「行かせてしまって、本当に大丈夫でしょうか?」


 問われた方のミーニアはと言えば、何か面白い物を見ているような、それなのにとても面白くなさそうな、奇妙は表情かおでガラスの向こうを見つめていた。


「何がですか?」

「彼はまだ熱があるのに……それに、あの二人はなんだか複雑そうで……心配です」


 ああ、と、ミーニアは目を細めた。


「たぶん、本当は仲悪くなんかないと思いますよ、あの人たち。あたしとジェンが喧嘩したときもあんな感じだし、だいたいは勝手に仲直りしますから」

「そう……でしょうか。私は……もし兄上とぶつかることになったら、どうしていいか分からないと思います」

「お兄様——クラルス殿下とは、喧嘩したことないんですか?」


 一度もありません、と、レジーナは首を横に振る。そのままカップを口元へ運ぶと、僅かに中身を嚥下する。カップを握る手に力が籠った。


「それに、外でもし素性が知られてしまったら、彼はまた無茶をするかもしれません」

「ロイドが一緒だし、そもそも地下は近衛の管轄外だから、きっと大丈夫。それに、ジェンが調べてきてくれた情報通りなら、さっきの『アレ』で士長サマだってバレないはず」

「……!あの術は驚きました。サフィラは色々な属性術を使えるけれど、アルビスは生命術の天才だと、聞いていた通りでした」


 不安げな様子が少し和らぎ、感心した風に瞳を輝かせるレジーナに、ミーニアが微笑んで片手を差し出した。


「お茶、おかわり淹れてきます」








 ロイドの雨具屋の裏口が面しているような上水路通りには、ポツポツと魔石燃焼式の街灯が配置されている。街の中心部から離れていくほどその数は減り、反対に暗がりが増えていく。日没前の時間であっても、この辺りまで来ると明かりなしでは歩けなくなる。入り組んだ坂道を下った先には、更に複雑に石造りの階段が伸びている。街の中心から少しずつ雨水を集めながら流れてきた上水路の行き着く先は、地下街を通る下水の川だ。雨水は「上」と「下」の境まで運ばれると、滝のように音を立てて真っ直ぐ地下へと注いでいく。上下の水路から流れ出た多量の水は、淀んだ流れとなり最後は時空海へと注ぐ。

 流れ落ちる水の音を左右に浴びながら、手に提げたランタンの明かりのみを頼りに、二人は階段を下へ下へと進んだ。


「大丈夫か」


 少し声を張り、先を行くロイドが振り返り尋ねると、立ち止まったサフィラが呼吸を整えながら答えた。


「大丈夫に、見えるのか」


 発熱のせいか、それとも次第に辺りに漂い始めた異臭のせいか、サフィラは雨除け布越しに口元を押さえている。眼が痛むのか、しきりに瞬きもしている。なぜこんな場所に、と、不満を漏らしながらも、ロイドが歩き出せば大人しく後に着いてくる。周囲の警戒は続けながら、ロイドは気を紛らわせるための言葉を探した。


「こうやって歩くのも、随分久しぶりだな」

「昔のことなど、もう忘れた」

「お前が街に来るのは、『あの日』以来か」

「覚えていないと言っている」

「昨夜、お前達を追ってきたのはドゥークだな」

「だったらなんだ」

「いや、マグナスじゃないことはわかってたんだが……やっぱりあいつか」

「昨日は殺す気だったようだが、どういうわけか今朝になって命令が変わったようだな。それがどうした」

「うん……お前達が無事でよかったよ」

「『おかげさまで』な」

「……母さん、元気か」

「……知りたければ自分から会いに来ればよかっただろう」

「……ザイン、どうしてる?」

「っ……もういいだろう!あんたと話すことなど何もない!黙って歩け!」


 サフィラの怒鳴り声は水音にかき消され、二人の脚は石段の最後の一段を下りた。自嘲の笑みを溢したロイドが、雨衣のポケットから小さな包みを取り出した。青白い指に挟まれたそれは、ランタンの薄灯に白く浮かび上がる。サフィラが目を凝らすと、それは薬包紙のようだった。


「……なんだそれは」

「お前の分。今飲めば丁度いいはずだ」

「何の薬だと聞いている。大体、あんたに薬など必要ないだろう」

「無闇に生命術は使えない。眼の光輪でバレる。いいから、飲んでおけ。じゃないと、たぶんお前吐くぞ」


 言葉を失ったサフィラが、じっと包みを見つめる。一度ロイドを睨むと、包み紙を開いて雨除け布を鼻の辺りまで上げた。意を決して薬を煽ったサフィラが、小さく唸り再びロイドを睨んだ。ロイドは、肩をすくめた。先に、言っておくべきだった。


「味は、保証しない」








 同じ頃、「雨具屋 ロイド」一階。ジェンと交代で、ミーニアが一人、店番をしていた。客足も落ち着き、一人になったところで、頭の中で状況を整理する。

 

 レジーナが王女であることを告白した後、ジェンは一旦情報収集を兼ねた買い物へ出かけ、ミーニアが店番をすることになった。二時間後、ジェンは「子供を連れた、青い髪、薄紫の目の男性魔術士を探している」という旨の手配書を入手して帰宅した。内容を読んだというジェンが店番を代わり、残りの面子で手配書を囲んだ。手配書には、心当たりのある者は速やかに近衛もしくは近くの警備兵へ通報すること、決して殺さず、匿わず、これに背いたものには厳罰を、との記述があった。より緊急性のある「王子」ではなく「子供」としたのは、悪意ある者に彼女が捕まった際、女児であることが広まってしまうことを恐れたためだろうと、ロイドは言った。

 レジーナとサフィラによれば、彼女が王女であることを知っている人間は、母である王妃ミラ、王妃の信頼する僅かな使用人と、ロイドとサフィラの母であるクラヴィアのみだという。年齢とともに隠し通すのが難しくなり、真相が表沙汰になり娘に危害が及ぶことを恐れた王妃は、年明けの式典で雨の国全土に真実を公表するつもりでいたのだ。過去に女児の存在が抹消された経緯を知らない国民達は、初めての王女の存在に驚きはしても、やがて受け入れるだろう。そうして周知させることで、「王女」の存在を認めない何者かから、娘を守ろうとしたのだ。もしも、それでも娘の身に危険が迫った場合は、手の届かない時空海の外へ逃す予定だった。

 だが、昨晩突然状況が変わった。深夜、夜着のままの王女を連れた王妃が、血相を変えてサフィラのもとを訪れた。それが、長い夜の始まりになった。


 結局、一刻も早く行動を開始したいというサフィラの熱に押されて、ロイドがある提案をした。その目的地へと、今は兄弟二人で向かっているはずだが……


(また喧嘩、してそう)


 カウンター内のスツールに腰掛け、帳簿の上で万年筆の背を撫でる。

 今は、ジェンがレジーナに付いている。彼女にはああ言ったけれど、正直あの兄弟の軋轢は根が深そうに見えた。自分たち兄妹はなんだかんだうまくやっているし、お互いなくてはならない存在だと認識している。とんでもない事に足を突っ込んでしまったという自覚はあるが、ジェンが一緒なら大丈夫だと思えた。それに今は、ロイドもいる。

 ふと、憧れの魔術士を前にした兄の紅潮した顔を思い出した。子供の頃から、少しだけ魔力があるとわかっていたジェンは、学舎への入学試験の際、天眼は備わっていないことが判明し、魔術士への道を諦めざるをえなかった。

 万年筆を置き、カウンター端に置かれた観賞用のプランターの前に立ったミーニア。


「…………」


 プランターには、淡い桃色のセントポーリアが綺麗に花を咲かせている。今思えば、この花は本来暑さにも寒さにも弱いはずだが、もう長いことこうしてカウンターで咲いている。これも、もしかしたらロイドが手を加えていたのだろうか。

 小さな丸いプランターに両手を添えて、静かに目を閉じた。右手を、そっと花弁に触れさせる。また突然思い出したが、ミーニアは右利き、ジェンは左利きだった。


 セントポーリアの花弁が、はらはらと散る。茎が、力なく曲がる。

 茶色く変色し干涸びた葉を、根を押し上げて、新たな緑が顔を出した。

 

 ほんの、数秒の出来事だった。何事もなかったかのように、ミーニアの手の中で桃色の花が咲き誇っている。プランターの中、カウンターの上に、元の残骸だけを残して。ミーニアの手の上にも、落ちた花びらが力なく乗っかっていた。


 顔を上げると、正面のショーウィンドウ、店内の明かりに照らされて、ガラスに反射した自分の姿が映っている。その両眼は、淡い碧色の光輪で縁取られていた。






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