二 「始まりの朝」

 煙草屋の主人と別れて、再び南大通りを自らの経営する雨具屋へと、ロイドは足速に進む。少し道草してしまったが、保温性も兼ねた雨除け布に守られている紙袋は、まだほんのりと温かかった。


 ロイドの雨具屋は、表通りに面した一階部分が店舗、奥の裏通り側に事務所、二階部分が居室二部屋を含む居住スペースになっており、二人の「自称従業員」が住み込みで働いている。

 二人は良く似た容姿をした男女で、元々は孤児だった双子の兄妹だ。雨の国唯一の教育機関である「学舎」に通い、もうすぐ晴れて働き手として様々な職に就けるようになる。この国では、年齢に関係なく学舎を出ることが成人することと同意義である。二人の記憶が確かなら年齢は十七歳。親代わりのロイドからしてみればまだ少し早い気もするが、法律的にはもうすぐ「大人」の仲間入りである。二人とも専攻する学科は違うがとても優秀で、厳密にはまだ正式な従業員ではないものの、実質雨具屋の経営は現状でもほとんど二人に任せていると言っていい。元々ロイドは眠りが浅く不規則だったことと、生活力も経営手腕も乏しかったことが重なって、彼の雨具屋は、最近では「双子が学業から帰ったら開く店」として通っていた。


 そんな二人が雨具屋に転がり込んできてから、早六年。気付けば二人とも随分大きくなり、年が明けて春になれば正式に自分と同じ「大人」になる。そのための学舎の就業試験が、今日から始まるのだ。家業を継ぐために生家を実地試験先に選ぶ者も多いと聞くが、まさか二人揃って本気で店の看板を狙いにくるとは、正直全く思っていなかった。


 この国に、雨具屋の数は決して少なくない。嬉しいような残念なような……朝から少し、複雑な気分だった。









 中央広場から南の大通り「馬車道通り」を抜けて、少し東へ、緩やかな坂道を下って行く。大通りから離れて行くほど用水路へ近くなり、建物も密集し、一層陰も濃くなる。


 世界が分断された後、古くからあった街の地下を走る下水路だけでは雨水を逃しきれなくなり、新たに「上水路」と呼ばれる雨水専用の水路が創られた。古い下水路から繋がる街の最下層には、家を持たない貧困層の者たちが身を寄せ合って暮らしていたが、新設された上水路は、元々は通行路だった場所を僅かに掘り下げて創られたため、外観は通路と同じ石造りの川のようだった。アーチ状の小さな橋が数十メートル間隔で渡され、水路と水路が交わる場所は、少し開けた小さな池のようになっている。ロイドの店も、事務所側の出入り口である裏口を出ると、目の前が上水路になっている。


 そしてこの石造りの水路には、いつ頃からか、鮮やかな鱗を持つ「人魚」達が住み着いていた。








 クスクス、クスクス……。


 水路街の暗がりから、笑い声が聞こえる。


 「雨具屋 ロイド」と書かれた看板の下げられた表口に、「準備中」の下げ札がかかっているのを確認して、ロイドは店のショーウインドウの横を抜けて裏口へと回った。店内の灯りはついている。双子が開店準備を始めているのだろう。

 歩きながら、コートのポケットから事務所の鍵を取り出す。表の通りはともかく、水路街に面した裏通りはお世辞にも治安がいいとは言えないため、出かける時は必ず施錠するようにしている。


 クスクス、クスクス……。


 今日はやけに、「彼女達」が騒がしい。確か彼女達も、朝は苦手だと言っていた。「貴方も、そんな顔してるわね」と、初めて言葉を交わした日に言われたのを覚えている。

 人の上半身に魚のような鱗に覆われた尾鰭を持つ人魚達は、ロイドの知る限り女性だけだった。子供や老人の姿は見たことがなく、皆若く美しい。尾鰭から延びた鱗は、背中側は腰のあたりから人の皮膚に変わり、腹側は臍の両脇を通って胸まで覆っている。キラキラと輝く鱗に、同じく光を反射する豊かな髪。どこかこのモノクロの国には不釣り合いな存在だった。


 裏口のドアに鍵を差し込み、カチリと音がするまで回したところで、少し振り返って水路の方を眺めた。相変わらず可笑しそうな声はどこからともなく聞こえてくるが、水面をキラキラと彩る極彩色の鱗は、視界に入って来なかった。

 少しの違和感を覚えたが、左手を塞ぐ温かい紙袋の存在を思い出し、ドアノブに手をかけ引こうとした、その時。


「やめて!お願い、誰か……誰か、助けて!」


 小さな悲鳴が、冷たい朝の空気の中に響いた。








 迷ったのは、一瞬だった。

 開きかけたドアから手を離し、声のした方へと、ロイドは駆け出した。どう考えても、子供の声だった。


 この二百年の間に増改築を繰り返され、小ぶりな家屋がひしめき合う水路周辺の入り組んだ地形は、住み慣れた者だろうと迷い易い。走りながら、ロイドは小さく舌打ちした。助けを求める声は、もう聞こえてこない。地下の下水路と違い、上水路は水深も浅く流れも緩やかだ。落ちて流されたとは考えにくい。せめて、もう一度声をあげてくれれば……。


(......クソッ!)


 水路の上に架かる小さな橋の上で足を止め、辺りを見渡す。微かにだがはっきりと聞こえた子供の声は、決して大きくはなかった。そう遠くはないはずだ。いっそこのまま見つからず、あの声もただの聞き間違いであればいいのに。


(どこだ……どこにいる……?)


 小雨とはいえ、視界に薄く架かる雨の膜が邪魔だ。それに、この雨除けの布も。空いている右手で、乱雑にフードを頭から落とした。頭の天辺から緩く束ねた銀色の髪の先まで、じわじわと冷気が滑り込んでくる。こうして雨を被るのは久しぶりで、そしてどこか、酷く懐かしかった。

 「どこにいる!?」と叫ぼうか、一瞬頭に浮かんだ考えは、すぐに自ら却下した。煙草屋の主人の話と、物々しく闊歩する兵士たちの姿が脳裏をよぎった。追われているのが誰なのかは知らないし、今朝の喧騒と小さな声の主が関わりがあるのかも分からない。ただ、押し殺した様に、一度しか助けを求めなかった声の主が、何か訳ありだと考えない方が不自然だと思った。だがどれだけ見回しても、路地裏の水路に動くものは見当たらなかった。


 ふと、奇妙な感覚を覚える。

 「動くものがない」。それは、ここ数年の水路街では有り得ない光景ではないか。ロイドが今の場所に店を構えたのはおよそ十年前だが、その頃から上水路では人魚達が泳ぎ、石畳に腰掛けてはお喋りをしていた。そしてここ数年、その数は増えてきていた。少しずつではあるが、確実に。それが、今こうして見渡している中に一人もいないのは、逆に不自然だった。


(集まっているのか……どこに……?)


 嫌な予感がする。

 彼女達人魚は皆美しく穏やかだが、反面ひどくミステリアスで、時折底知れぬ不気味さを感じる。優しく背中を撫でていた野良猫を、次の瞬間水路に引き摺り込み、そのまま姿を消したのを見たことがある。人に危害を加えることはないと言われているが、その鋭く尖った牙や硬く伸びた爪、気まぐれに細められる眼に宿る物騒な光を、ロイドは知っている。


「仕方がない、か……」


 ぽつりと吐き出されたそれは、諦めの言葉。だが彼は、その場から動かなかった。

 深く息を吸い込むと、ロイドはゆっくりと目を閉じ、顔を上げ空を仰いだ。特徴的な青灰色の瞳が目蓋に隠されて、吸い込んだ空気を、今度はゆっくりと吐き出す。まるで煙草の煙のように、白い呼気が雨の中に漂った。


(これ、久しぶりだな。鈍ってはいない……はず)


 もう一度小さく深呼吸し、気持ちを眼に集中させる。

 そして、銀髪の青年は力強く両目を開いた。







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