三 「戯れ」

 開いた両目に雨粒を受けながら、ロイドはそのまま上空の一点を凝視した。両眼が、薄らと碧色の光を帯びる。


 淡い緑色の光が二つ、遥か遠く雲の間を流れている。そのまま更に目を凝らすと、二つの光は力強く羽ばたいているのがわかる。姿形やその種類まではとうてい認識できない距離だが、それは紛れもなく、雲間を飛ぶ二羽の鳥だった。


(良かった……ちゃんと『視える』)


 小さく安堵の息が漏れる。どうやらまだ、この「眼」は鈍っていないようだ。もう一度集中し、今度は水路街へと視線を下ろす。

 上空とは比べ物にならない程の数の光が、はっきりとした形で、動きで、存在しているのが分かる。久々に感じた眩しさに、小さく唸る。色の濃淡や明暗の違いはあるが、どれも美しい緑色の光を放っている。ついさっき自分が走ってきた方向、雨具屋の方を視れば、事務所側に一人、奥の店内にもう一人、しっかりと姿を確認できる。肉眼で見えているあらゆる壁も暗闇も全て突き抜けて、ロイドは「生命」を視ていた。


「……いた!」


 足下から伸びた水路の先、正方形にくり抜かれた小さな池は、元々は噴水広場だった場所だ。そこに、夥しい数の光が集まっていた。人魚をこの「眼」で見たのは初めてだったが、人より黒く鈍い色の光が群れている。まるで餌を持つ人間の足下に集まった鯉のように、腕を伸ばし人の形をした光を水中へ引き摺り込もうとしていた。声の主だろう子供と、大きさからして男だろうか、人の姿は二つ。人魚達が群がっているのは大きな方の光で、片腕を掴まれているのか、水路の縁にかがみ込んでいる。子供は襲われている方の腰のあたりを引き、必死に抵抗している。二人の関係性は不明だが、噂になっていた「誘拐犯とその人質」には見えない……


 サッと、全身から血の気が引いた。


 「眼」を閉じ、走りだす。建物などの障害物は、肉眼の方が遥かに鮮明に見える。噴水広場までは通り二つ分。群がられている者の抵抗する力が尽きてしまえば、あっという間に水中に連れ去られてしまうだろう。そうなってしまえば、恐らくもう助けることはできない。それどころか、子供も道連れにされかねない。


 全力で走り、壁に手を突き勢いのままに角を曲がると、恐れていた光景が目の前に広がった。黒い雨衣に身を包んだ小柄な影からもう一つの黒い影が引き剥がされ、派手な音を立てて一瞬で池に沈んだ。ついさっきまで密やかに響いていた人魚達の笑い声が、一斉に歓喜のそれへと変わる。


(まずい……!)


 奥歯を噛み、更に走る。突然の第三者の登場に、子供の黒い影が驚いて固まった。


「あ——」

「助ける、下がってろ!」


 その横を走り抜け手短に叫びコートを脱ぎ捨てると、ロイドはそのまま池に飛び込んだ。コートと一緒に投げ捨てた紙袋が石畳に落ち、雨除け布の隙間から中身が転がり出た。


 冬の朝の水温は刺すように冷たく、あっという間に身体の熱が奪われていく。捕らえた獲物をどうするつもりなのか、水路の奥へ連れ去るでもなく、人魚達は相変わらず楽しそうに群れている。水中では意味がないとわかっているが、「やめろ!」とロイドは吠えた。既にだいぶ弱っているのか、人魚達に纏わりつかれた影が水面へ弱々しく手を伸ばした。そのとき、もがく獲物の雨衣の頭を、後ろから一人が引っ張った。大量の気泡を上げながら、顔を覆っていたフードが外される。


 近づこうと泳ぐロイドの視線の先で、黒いコートから長い青髪が溢れ、水中にふわりと大きく広がった。


「……!!」


 思わず動きを止める。それまで必死さから大きく開かれていたロイドの目が、今度は驚愕で見開かれた。鮮やかな青い長髪の青年。その目が僅かにロイドの方を向き、苦しげに歪められた。煙草屋との会話、王宮の近衛達、今朝の喧騒。その全てが、頭の中で一つに繋がった。

 やっぱり嫌な予感って当たるんだな、と、妙に冷静な自分が頭の中でため息をついた。








「あら、ロイド!ロイドだわ」

「本当だわ。水の中まで会いに来てくれたの?嬉しい」


 クスクス、クスクス。


 獲物に群がっていた人魚達が、するするとロイドの側を回り始める。これ以上迂闊に近付けないと判断し、水面へ出るよう、彼女達へ人差し指を上げて見せる。


「あら、ダンスよりお喋りの方がお好き?」

「私たちの『灰色の坊や』!いいわよ、上でお話ししましょう?」

「今日は朝から随分と元気なのね、素敵」


 まだ僅かに抵抗を見せていた青年が、気を失ったのか俯いて動かなくなった。その身体にまだ二人、人魚が腕を回しているのを見ながら、ロイドは浮上した。

 水面へ顔を出し軽く息を整えていると、ぽつりぽつりと派手な色の頭が後を追うように浮かんで来た。まるで楽しくて堪らないと言うかのように円を描いて漂う人魚達に、少し大袈裟にため息を吐いて見せた。


「……こんな趣味があるなんて知らなかった。お楽しみのところすまないが、返してくれないか」

「あら。それは、あの子に?それとも……貴方にかしら」


 赤い鱗の人魚がロイドに問うと、沈んでいた青い髪の青年が浮かんできた。紫色と金色の人魚にまるで幼児のように抱きかかえられている。紫の人魚が青年の頬に軽く手を添えると、ゴボッと一度だけ水を吐く。その額に張り付いた前髪を、人魚の細長い指が優しく横へ梳いて流す。二人の人魚と青年の長い髪が、水面を鮮やかに彩る。子供の頃一度だけ見た、夜明け前の晴天の空のようだとロイドは思った。


 振り返ると、子供はさっきの場所から一歩も動かずにいた。雨除け布で表情は見えないが、鳩尾のあたりで握りしめた両手が震えている。その視線が青年から自分へ向けられたのを感じて、ロイドは安心させるように軽く微笑んで見せた。


 人魚達に向き直ると、どうやら彼女達もこれ以上「遊ぶ」つもりはないらしく、左右に分かれてロイドに道を空けた。

 泳いで行くと、金の人魚が青年から離れ、するりとロイドに体を寄せる。


「まさか貴方が来るなんて思わなかったわ。ごめんなさいね、彼があんまり綺麗だったものだから。いじめるつもりはなかったの。本当よ?」

「死んでなければ、別にいい。だから早く退いてくれ」

「ふふ。貴方のそんな顔、初めて見たわ!赤の他人にそんなに必死になれるなんて、私たちのロイド、貴方ってそんなに出来た人間だったかしら」


 人魚の眼が、僅かに暗い色を帯びる。

 その言葉と、揶揄うように細められた眼に一瞬面食らったロイドだが、すぐに自嘲の笑みを浮かべて、今日何度目になるかわからない盛大なため息をついた。

 金の人魚を軽く押しやりながら、紫の人魚の元へ。意外にもあっさりと、人魚はロイドへ青年を手渡した。左手の小指だけを、名残惜しそうに青い髪に絡めて掬い上げる。その一房も、水滴に混じって細い指からこぼれ落ちていった。ロイドの腕の中で、青年が激しく咳き込みまた水を吐いた。ぐったりはしているが、自発呼吸もある。早く水路から引き上げなくてはと思う反面、懐かしさに思考が停止する。興味津々と二人を見つめていた人魚達に、ロイドは答えを返した。彼の意識がなくて逆に良かったと思った。




「俺の…………弟なんだ」







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