一章

一 「雨の王国」

 カランカラン、と、小気味の好いベルの音が鳴る。

 中央広場へ続く大通りのパン屋の扉が開き、店主の「またどうぞ!」の声と共に、長身の影が通りへと現れた。膝下まで隠れる丈の長い黒いフード付きコート、頭をすっぽりと覆ったフードにはサンバイザーのようなひさしが付いており、その先端からは顎下までを覆う透明な雨除けの布が垂れ下がっている。左手に抱えた香ばしい匂いのする紙袋も、上からすっぽりと同じ生地の布で覆われていた。


 早朝の通りを歩く他の住人達も、色や装飾こそ違えど、ほとんどがパン屋から出てきた男と同じような格好をしていた。

 一年のうち九割は雨が降り、常に分厚い灰色の雲に頭上を支配されたこの国では、建物の外へ出るにはこの雨衣あまえが欠かせない。常に片手が塞がってしまい横幅もとってしまう「傘」など、遠い昔話の中にしか登場しない。この国で「上着」と言われればこの雨除けのコートを指すと、学舎へ通うようになったばかりの子供でさえも知っていた。


 長身の男は、店内と外との温度差に扉の前で小さく身震いした。焼き上がりの時間に合わせて、わざわざ早起きして買いに来たのだが、この寒さでは帰路の途中で冷たくなってしまうだろう。オーニングの下をドアの前からショーウィンドウの端まで移動し、男は徐に空を見上げた。


(……初雪にでもなるかな)


 ほう、と吐き出した息が、雨除け布の先で白く色付いた。








 「雨の国」。この国はそう呼ばれている。


 およそ二百年前、ひとつだった世界で争いが起きた。小さな争いはやがて大きくなり、世界の全てを覆い尽くそうとした。そしてひとりの心優しき女神が、己の美しい身体と共に、醜い戦争ごと世界を七つに砕いた。砕かれた世界の狭間には、空とも海とも似て非なる輝く闇が広がり、その闇を渡ろうと船を出した者達が再び戻ることはなかった。人々はこの美しくも恐ろしい黒い海を「時空海じくうかい」と呼び、自らの過ちと愚かさを悔いながら、分断された世界の中で各々の歴史を歩んでいくことになる。


 雨の国は、そんな世界のかつての中心地だった場所だ。荘厳な都には王が住まう堅牢な城がそびえ、城下の町は世界の歴史と繁栄の象徴だった。

 世界が砕かれた日、王宮と城下の町、そしてその周辺の僅かな農村地帯だけが、雨の国の領土となった。海や森に面さず、すぐに大規模な食料問題に直面したこの国を、間髪入れず第二、第三の問題が襲った。

 世界分断の日から暗く重い雲が立ち込めていた空から、止むことのない雨が降り始めたのだ。それは唐突に始まり、はじめは気にも止めなかった住人達も、一週間、一ヶ月と降り続ける雨に、不安げに空を見上げる機会が増えていった。

 そして新年を目前に、二ヶ月続いた雨にちらほらと雪が混じり始めた頃、静かに煌めくだけだった時空海が、不気味な海鳴りと共に突如沖合から赤黒く染まった。そしてそのどす黒い水の中から、異形の者達が姿を現したのだ。


 「魔物」。あれは「魔物」だと、かつて鉱山の町で働いていた農夫が、悲鳴を上げながら警備隊詰所に転がり込んだ。恐怖からか、その両脚は小刻みに震えてもつれ、何か鋭利な物で裂かれた右腕からは血が流れ出ていた。震える指が示す方へ向かった警備隊が見たのは、二本脚で歩く大きな角の生えた蛇のような怪物と、人の上半身にタコの脚のような物で這い回る怪物が、逃げ回る人々を次々に襲っていく姿だった。それだけではない。他にも人と何かを掛け合わせたかのような悍しい化け物達が、次から次へと波打ち際から這い出して来る。


 王宮の近衛兵や魔術士までもが駆り出され、多くの死傷者を出しながらもなんとか魔物達を殲滅した雨の国だったが、無情にもこの正体不明の化物達は、その後も時空海が赤く色付くたび、大群で現れ町を襲うようになった。


 降り続く雨と未知の魔物の襲来。人々はこれを、争いを起こした自分たち人間への罰と、自らの身体を差し出し贄となった女神の嘆きだとして、「女神の涙」と呼び、戒めとした。親から子へ、子から孫へ、忘れてはならない、語り継ぐべき悲劇として。








 雨の国の朝は早い。

 灰色の空にどんよりと広がる雲は分厚く、昼間と呼べる時間帯でもどこか薄暗い。気温によっては雨が雪に変わる冬の時期ともなれば、更に限られた日照時間の中で日常生活を送るため、住人たちは日の出とともに仕事に取り掛かり始める。


 パン屋を後にした男が中央広場へ差し掛かると、早朝にも関わらず通路に面した全ての商店が店を開き、仕事へ向かう通行人達へ挨拶と呼び込みの声を掛けていた。

 今日は寒いから薪屋が儲かるだろうな、と、男はまだ温かい紙袋をしっかりと抱え直し、絶え間なく馬車が出入りする方の通りへと脚を進めた。雨水を水路へと逃がすための細かい排水溝が葉脈のように走る石畳の道は、北西の城門前から伸びて中央広場で東西南北の大通りへと広がり、更にその先で細かく分岐し街の隅々まで行き渡っている。

 男が進む南側の大通りは、中央広場から少し歩いた所にこの国最大の車屋が店を構え、広い国内の移動手段として重宝されていた。


 車屋の鹿毛や栗毛の馬達が、冬の朝の冷気に白い息を吐きながら様々な大きさの車を引いて行く。ふと、その中に市街では見慣れない白馬が引く濡羽色の車を見つけ、男は足を止めた。車体には白地に金色の縁取りで、黒い薔薇の紋章が描かれている。中央広場の方を振り返ると、王宮へと続く北西の登城通りから、他にも数台の兵車と思しき濡羽色の馬車が降りて来る。馬車だけでなく、同じ黒薔薇紋の制服に身を包んだ歩兵の姿も確認できる。兵車が広場から各大通りへと分かれて行くのを眺めていた男は、小さく目を細めたあと、再び帰路を急ぎ始めた。


(朝から騒々しいな……『海鳴り』でもないのに)


 注意して見てみれば、そこかしこで兵達が住民へ何やら聞き込みを始めているようだった。物々しい空気に、肌が粟立つ。

 関わらない方が賢明だと、フードを深く被り直し歩く男に、突然朗らかな声が掛かった。


「よお、ロイドの旦那!こんな時間に出歩いてるなんて珍しいな!雨具屋、今日は朝から開けんのかい?」

「……煙草屋の。どうも」


 声を掛けてきたのは、若草色のコートに身を包んだ煙草屋の主人だった。新緑のような柔らかな色の雨衣は、背負った大きな商売道具の鞄まですっぽり覆える、特注の一品物だ。高級嗜好品である煙草を扱うこの仕事は、商人の中でも高給取りの部類に入る。

 ロイドと呼ばれた男は、足を止めるとフードのひさしに軽く手を添えて挨拶を返した。


「今日から学舎が冬季休暇で。うちの『従業員達』は働き者だからな……叩き起こされた」

「ハハ、そりゃあ良い!昼夜逆転生活してるのなんざ、あんたぐらいだからな。せっかく質のいい雨具を置いてるってのに、真っ当な時間に商売してるのなんて見たことがない。『あの子ら』が無事に成人したら、正式に店乗っ取られちまうかもな。ハハハ」

「……そうならないように、焼き立てのパンで買収しておくよ。そっちは今日は外回りか」


 ロイドがコートの背中の膨らみを視線で差しながら問うと、煙草屋は広場の方を一瞥し表情を曇らせた。一歩、距離を詰めて小声で話し出す。


「そのつもりだったんだがなあ……兵隊さんがたがこうもうろうろしてたんじゃあ、ゆっくり商談も一服もできやしない。王宮近衛の皆様方の所へも、定期便に伺おうと思ってたんだが……この感じじゃあそれどころじゃなさそうだ」

「…………」

「聞いた話だと、重罪を犯した魔術士が昨晩のうちに城下へ逃げ込んだ、とかなんとか。俺たちみたいな町人が王宮の魔術士様なんて匿ってるはずないだろうに、ああやってガサ入れまでしてるんだ、一体何をやらかしたんだか」


 瞬間、ロイドの目つきが変わった。物珍しそうにチラチラと広場の喧騒を盗み見ていた煙草屋は気付かなかったが、紙袋を抱えた左手にも力が籠り、微かにくしゃりと音を立てる。


「その罪人の特徴は?」

「いや、うちはまだ直接兵隊さんと話したわけじゃあないから、詳しくは知らないよ。ただ……そうだ、人質がいるから一刻を争うとか、そんなような話だったな」

「……そうか。情報、ありがとう」

「いやいや、そのうちあんたんとこにも来るだろうよ。近頃、北東の空から飛んでくる妙な影を見たって噂もあるし、なんだか物騒だな本当。このままうちに戻るのもなんだし、ガサ入れの終わった店に世間話にでも行って来るかな」


 長話になりゃあ人間一服したくもなるだろう、と、不敵な顔になった煙草屋に苦笑いで応じる。


「商魂逞しいようで何より。うちも見習うよ」

「ハハ、旦那も気をつけてな!」


 自分が来た道へと去って行く煙草屋に挨拶を返し、その背中を通り超えて、遠くそびえる王城へと視線を登らせる。歴史上、世界が砕かれこの雨の国が出来てから、来年でちょうど二百年になる。年明けには盛大な建国の宴も催される。その節目となる年まで、残すところあと、三日。


 忍び寄る不穏な気配も嫌な予感も、全て杞憂であれと、ロイドは願った。









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