女神の追憶片
楸むく
雨の国と銀灰の治癒士
序章
「賽は投げられた」
点々と明かりの灯された薄暗い廊下を、二つの影が静かに横切る。城内が寝静まる宵闇の中に溶けるように、黒衣に黒いフードを被った二人が駆ける。王宮を囲う内壁の北と南を結ぶように増設された、長い連絡通路。その二階部分を、影は足音を殺し走り抜けて行く。ガラスのはめられていないアーチ型の窓から横殴りの雨が通路へ吹き込み、二人を容赦なく打った。
「いたぞ!連絡通路だ!」
走りながら小さな影が振り返ると、北棟から二人、追手が迫っていた。黒を基調とした兵装、左胸には金縁の薔薇の紋が見える。一人が懐から取り出した警笛を吹き鳴らすと、雨音を裂いて、甲高い音が城内に響き渡った。慌てて進行方向へ向き直り、もう一つの影から離されないよう、必死に脚を動かす。
「南棟までもう少しです!」
少し前を走る影が叫んだ。
南棟までたどり着いたとして、その先はどうするつもりなのだろう。逃げられる場所など、果たしてあるのだろうか。先導する彼には、何か考えがあるのだろうか。わからない。今の自分には、何一つ。今はただ、走るしかなかった。
あと少しで渡り切れるという所で、南棟からも兵が姿を現した。急停止した二人へと向かって来る。
「後ろへ!」
青年の声を聞き、来た道を駆け戻る。反対側からも追手は迫っている。進路も退路も絶たれてしまった。息が切れ、通路の中間でゆっくり立ち止まった小さな影を、青年が庇うように自分の背中へ回した。じりじりと慎重に近付いてくる兵の数は、北と南合わせて五人。一定の距離まで近付くと、様子を伺うように歩みを止めた。青年が小さく吐いた悪態の言葉は、雨音に掻き消された。
「動くな!貴様、何者だ!」
北側から追って来ていた小柄な兵が叫んだ。よく響くその声には凛々しさが滲む。女性兵だ。
「その御方をどなたと心得る!何の目的かは知らないが、大人しく引き渡せば情けはかけてやる!抵抗すれば、容赦はしない!」
言い終わると同時に、女兵は背負った長弓を構え矢を番えた。他の兵達も、各々に武器を構え再び距離を詰める。二人が後ずさると、背中がトンと壁に当たった。窓の下は中庭の花壇だが、かなりの高さがある。仮に飛び降りたとして、自分達では無傷ではいられないだろう。青年が思考を巡らせていると、俄かに周囲がざわつき始めた。王の居室を含む居住区の方角で、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。風雨の音に混じって微かに届く、人の声、足音。
「もう、あまり時間がないようです」
青年が、背中に隠した影に問う。
必ず、守り抜かねばならない。だがそのためには、自分はきっと多くの人間を傷付けることになる。それ以外にここを切り抜ける方法も力もないと、自身が誰より理解していた。
小さな影は、顔を上げ真っ直ぐに青年を見つめた。
「あなたの指示に従います。それと……あなたのすべての行いを許します。本当にごめんなさい。どうか、ご武運を」
まだ幼さの残る凛とした声が、真っ直ぐな視線と共に胸に届く。その言葉に、迷いは消えた。
「承知しました。必ず、無事にお連れします。ご安心を」
青年が一歩前に出る。そして、着ていた丈の長い黒いコートのあわせに手をかけた。突然の不審な動きに、兵達に緊張が走る。
「動くな!何をするつもり——」
女兵の言葉を待たず、青年はコートの前を開いた。現れたのは、兵達が纏う黒の軍装と同じ意匠の、純白のローブだった。そして、その腰にホルダーで下げられた分厚い本の存在に、兵達がどよめいた。青年は右手で本をホルダーから外し、左手に持ち替えると腕を伸ばし胸の前に構えた。厚さも大きさも、どう見ても片手で支えられそうな代物ではない。その本が、青年の手の上で勝手に開き、バラバラと目で追えないほどの速さでページが捲られていく。本は、吹き込む雨にも濡れている様子はなかった。
「あれは……そんな、まさか——」
「一体どういうことだ?!」
「わ、わからない……ナトゥラ様、ご指示を!」
兵達の視線が、一人に集まる。だが、ナトゥラと呼ばれた女兵には、部下達の声も、吹き荒れる雨風の音も、届いてはいなかった。構えた弓が下がり、困惑と絶望の入り混じった目で青年を見つめている。
「なぜ……なぜあなたが——?!」
ナトゥラの動揺ぶりは、普段の彼女の仕事ぶりを知る部下達の不安を煽った。寝所から第二王子を連れ出し逃走したという不届き者を追い、自分たちは無事それを発見した。だが、こうして今目の前で追い詰めている人物は、黒の兵装と対になる白の魔装を纏い、腰に帯びていたのは魔道書「グリモア」。彼らに、思い当たる人間は一人しかいなかった。
ゆっくりと弓を構え直したナトゥラが、無意識にきつく噛んでいた唇を解き、一度深く息をつく。鋭い視線と、声が飛んだ。
「怯むな、捕らえろ!グリモアを使わせるな!」
ナトゥラの声に、兵達が駆け出す。武器を構え、二人に迫っていく。
そしてその瞬間、捲られていたページがピタリと止まり、青年の体から溢れ出した白い光が、グリモアの周りを環状に回り始めた。周囲の温度が、一気に下がる。
突然、兵達の動きが止まった。
「ぐっ——?!」
「な、なんだこれは?!」
二人に向かって行った四人の兵達は、動かなくなった両脚と、重さの消えた両腕に、目を見開いた。脚は床と、腕は天井と、それぞれが光る硬質な何かで繋がれていた。一瞬の驚愕のあと、猛烈な冷気と刺すような痛みが四肢を襲う。
「これは……氷?!」
「しまった!属性術か!」
「くそ……遅かった!」
氷の塊に自由を奪われた部下達の姿に、ナトゥラは絶望の色を濃くして青年に叫んだ。
「士長!なぜです!?あなたとは……戦えません!」
悲痛な声と重なって、北棟、南棟それぞれから増援部隊の足音が響く。連絡通路へたどり着いた兵達は、目の前の光景に疑問符を浮かべた。誰もが、補足した「敵」の姿に動揺を露わにする。だが、彼らを率いていた隻眼の老兵が右手を挙げると、迷いなく一斉に青年へ向けて弓を構えた。ナトゥラが老兵の前に飛び出す。
「お待ちくださいドゥーク殿!殿下もご一緒です、射ってはなりません!」
「これはこれは、三席殿。今しがた、我らには『二人とも殺せ』との命が下った。共に射抜かれたくなくば、大人しく引かれよ」
「馬鹿な?!待ってくださ——」
縋るナトゥラに構わず、老兵は挙げていた腕を二人に向けて振り下ろした。
「放て!」
氷に絡め取られたナトゥラの部下達が怯えた表情で見上げる中、その頭上を矢の雨が二人に向かって飛んで行く。その先で、再び青年の持つ本から白い光が迸った。
「な、なんだあれは?!」
矢を放った一人が驚愕の声を上げる。二人が立っていた場所には透明なガラスの繭のような物が現れ、半球状のそれに全ての矢が阻まれ地に落ちていた。
茶化すように、ドゥークと呼ばれた老兵が一つ口笛を吹いた。
「流石と言うべきか。氷ってのは、案外汎用性が高いんだな」
全員の視線が氷の繭に注がれる中、今度は空中の雨が次々に固まり、尖った杭のような形に変化していく。氷で出来た無数の杭が、切先を兵達に向けて繭の周りを漂っている。何が起きるかを察した数人が、短い悲鳴をあげ後ずさる。ナトゥラが腰の双剣を抜き、ドゥークがニヤリと口の端を歪め手甲を構える。
「お前らぁ、気合入れてかわさねぇとやられるぞ」
「え——」
次の瞬間、氷の杭が放たれた。
弾丸のように飛んだそれは、集まっていた兵達に次々に襲い掛かる。肩や足を貫かれ、すぐに数人が戦闘不能になった。愛剣を振るい、向かって来た杭を全て叩き落としたナトゥラは、氷の繭が青い光を纏ったのに気付いた。矢を弾く程の強度を持っていたそれが瞬時にただの水になり、バシャーンと派手な音を立てて通路へ流れた。無数に飛び交う杭の向こうで、青年が子供の手を引きながら、窓枠に足をかけている。いつの間にか、窓枠の下に中庭へと続く氷の階段が出現している。青年が、子供を先に逃そうとしている。そして、その事に気付いたのは彼女だけではなかった。
「待て——!」
ナトゥラが叫ぶのと同時に、横から大きな影が飛び出した。窓枠に立つ青年に一気に距離を詰め、瞬時に手甲を叩き込んだ。ドゥークだ。
窓枠から外へ弾き飛ばされた青年が、背中から外壁に叩きつけられ、そのままずるずると地面へ落ちて行く。子供が半分まで降りた氷の階段が、形を無くし雨水に戻って行く。完全に融解する前に、子供が残りの段から飛び降り青年に駆け寄って行く。追撃をかけるため庭に降りたドゥークを追い、ナトゥラも窓枠から飛んだ。氷の杭の猛攻を防いだのは、彼女達二人だけのようだった。
「属性術を使うなんて……しかし、何か様子が変です。私には、殿下が拐かされたようには見えません!それに、殺せとはどういうことです?!本当にそのような命令が——」
「まったく、よく喋るお嬢ちゃんだ。ごちゃごちゃ喚いてる暇があるなら、よく見るんだな」
「……?」
ナトゥラの方を一度も見ることなく、ドゥークは壁に凭れる青年を凝視していた。青年の頭上、彼がぶつかった場所は蜘蛛の巣状にひびが入り、老兵の一撃の凄まじさを物語っていた。それだけの攻撃を受けながら、青年はよろよろとではあるが立ち上がり、駆け寄ってきた子供をまた背中に隠した。
(そんな……あれだけの攻撃を正面から受けて無事だなんて)
そして、再びグリモアを構えた青年の姿に、ナトゥラはドゥークの「よく見ろ」という言葉の意味を理解した。透明な膜……恐らくは氷でできた即席の防御魔術なのだろう、細かくひびの入ったそれが、青年の全身を覆っていた。あの一瞬での判断力は賞賛に値するが、やはり即席だったのだろう、ひびから亀裂が走り、役目を終えた氷の鎧は粉々に砕け散った。
青年と老兵が、しばし睨み合う。
三人の姿を稲光が照らし出し、老兵が舌舐めずりをする。一拍遅れて鳴り響いた轟音と共に、再びドゥークが飛んだ。しかし、振り上げた拳が標的に届く前に、出現した氷の壁に行手を阻まれる。構わず手甲を叩き込み壁を粉砕するが、砕いた壁の後ろから再び氷の杭が飛来する。さっきより、数も多ければ動きも速い。自分の方へ流れてきた杭を迎撃しながら、ナトゥラは必死に考えていた。どうすればいい?どうすれば、誰も傷付けずに二人を捕らえることができるのか?自分では、近衛隊の次席であるドゥークを止めることは出来ない。ふと、今ここにはいない、自らの上司の背中が脳裏に浮かんだ。
「ハッ、同じ手がそう何度も通用するかよ!」
高揚したドゥークの声に現実に引き戻されると、襲いかかる杭をかわし、打ち落とし、老兵が二人に迫っていた。二人を囲い、外壁に張り付くように、再び氷の繭が現れている。透明なその防御壁の中で、片手でグリモアを構えた青年がもう片方の手を外壁に添わせている。よく見ると、その手が触れている壁の一部がぼろぼろに朽ち、小さな穴が空いている。ちょうど、人間の子供が一人通れるくらいの大きさだ。そして、繭の中に王子の姿はなかった。
「腐食か。便利なもんだ。だが……あんたが通れるだけの穴が空くまで、こっちは保つかな?なあ士長さんよぉ!」
ドゥークの手甲による打撃は、リーチはない分一撃の重さが他の武器の比ではない。この国で二番目に強いこの男の、最も得意とする得物だった。猛攻を加えられ、氷の繭が砕かれ削がれていく。青年が壁を腐られせていた手を離し、両手でグリモアに魔力を注ぐ。それでも、修繕が追い付かないほどの速さで氷は砕かれていく。手甲を振るうドゥークの勝ち誇った声が、雷鳴と共に響く。
「ハッ、歴代最強だなんだと謳われる魔術士様も、この程度か!あんたを殺したら、マグナスの野郎はどんな顔するだろうなあ?!」
「……うるさい男だ」
青年から白い光が消え、突如氷の繭が溶けて流れた。警戒したドゥークが後方に飛び退いて距離を取る。不穏な気配を感じたナトゥラも、ドゥークの少し後ろに位置をとり、次の動きに備える。
「武器の相性が良かったというだけで、私を殺すだと?次席の分際で……図に乗るな!」
青年が怒声を放ち、グリモアを掲げる。その周囲を、眩しいほどの青白い光の環が重なり、廻る。轟音とともに、グリモアの上に一筋の光が落ちた。
「これは……雷?!」
「おいおい……正気かよ」
落ちたはずの雷光がそのまま青年の頭上で球体に集まり、枝のような細かな光が方々へと伸びる。チリチリと幾重にも重なる鳥のさえずりのような音に、ナトゥラは思わず一歩後ずさった。こんな術は見たことがない。
「くっ——」
突然、青年が呻き声をあげた。見れば、グリモアを掲げていた左手が胸の前まで落ち、庇うように右手を添えている。かなり呼吸も荒い。雷球の枝は好き勝手な方向へ伸び地面や城壁をかすっているばかりで、二人へ向かってくる様子はない。
(まさか……制御しきれていない?)
ナトゥラがそう気付くのと、ドゥークが高笑いを響かせたのはほぼ同時だった。
「ハハハッ!調子に乗ってんのはどっちだろうなぁ?使いこなせない武器なんざガラクタと一緒だぜ、なあ?!」
好機とばかりに飛び出したドゥークの鼻先を、雷の枝が掠めて行く。すんでのところで直撃は免れたが、それ以上近付くのを拒絶するように、枝が揺れている。
「……誰が武器だと言った」
「……なに?」
青年の言葉に、ドゥークの表情が変わる。今度は青年がニヤリと口角を上げ、右手を再び城壁へ伸ばした。壁がまた、少しずつ朽ち始める。雷を自在に操ることは出来ないが、固定しておくことなら可能だ。雷の枝は、近づく生物へと勝手に吸い寄せられて行く。あとは、壁に十分な大きさの穴が空いてしまえば、城壁の外へ逃げられる。一定以上距離が離れてから、固定した術式を霧散させればいい。時間稼ぎにはなるはずだ。ズキズキと軋む左手を内心叱咤しながら、青年は老兵へと不適に微笑んだ。
「……逃がしてたまるか」
「ドゥーク殿?」
凄まじい光景に呆然と雷球を見つめていたナトゥラは、ドゥークの呟きに不穏な響きを感じとった。振り返った老兵は、燃えるような隻眼でナトゥラを睨んでいた。
「何故打たない。貴様の腕でも射抜けるだろう。逃げられる前に殺せ!」
「な、なにを……」
「フン、私情か?ならば——」
手甲を投げ捨てたドゥークがナトゥラの弓を奪い、矢筒から矢を引き抜いた。
「俺が代わりに
引き絞られた弓から矢が放たれる瞬間、咄嗟に身体が動いた。無意識、反射、どう表したらいいのかわからない。弓を引くドゥークの姿がスローモーションのように流れ、気付いた時にはその背中に体当たりしていた。僅かに軸がぶれた射線上を風切り音をたてて飛んだ矢が、反射的に身を捻った青年の脇腹に深々と突き刺さった。
青年が体制を崩す。グリモアが左手から地面に落ち、閉じられた表紙から光が消える。方々へ伸びていた光の枝が雷球にすべて吸収され、チリチリという音が消えた。
(まずい——!)
青年の伸ばした指先がグリモアの表紙に触れた瞬間、完全な球体となった雷球から轟音が響いた。一本の稲妻が雷球から伸び、外壁の一部を焼いた。稲妻はそのまま予測不可能な動きで、空へ壁へ地面へと、エネルギーを放出させていく。糸を引かれた毛糸玉のように、反対に雷球は小さくなっていく。
一瞬の出来事だった。
二人のすぐ側の地面を稲妻が裂いて行き、直撃をかわしたはずのドゥークが呻き声をあげて倒れた。駆け寄ろうとしたナトゥラの髪の毛が逆立つ。強敵を目の前にした時のように、全身の皮膚がヒリヒリと危険を知らせてくる。
まずい。そう思ったときには、眼前まで稲妻が迫っていた。覚悟しきつく目を閉じた瞬間、ナトゥラと稲妻の間に氷の壁が現れ、稲妻を弾いた。はっと青年の方を見たナトゥラだったが、弾かれた雷が地面に刺さるのと同時に全身を経験したことのない衝撃が走り、そのまま倒れ気を失った。
意識を手放す直前、「尊大、不遜、生意気」などと陰で言われている彼の、酷く傷付いたような表情が、遠くに見えた気がした。
数分後、駆け付けた者達が見たのは、中庭の至る所に刻まれた雷紋と、身体の一部に火傷を負い倒れている上官二人の姿だった。城壁に空けられたはずの穴は元通りに塞がれ、ただ血に濡れた一本の矢だけが、壁沿いの植え込みから見つかった。
三日三晩続いた強風が次第におさまり、都には小雨のみが降っている。風のない雨が連れて来た不自然なほどの静けさの中、王城だけが眠りから覚め、未曾有の出来事に大きく揺れていた。
建国二百年も目前の年の瀬に起きたこの事件が、やがて国の歴史そのものをも揺るがす巨大な波を起こすことを、この時はまだ、誰一人知る由もなかった。
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