秋のほたる(ノベルバー2021)
伴美砂都
秋のほたる
青というのはハンドルネームで、本名ではないと思う。今みたいにSNSというようなものはまだなくて、インターネット上にはブログのリンク集みたいなものが、いくつもの島のようにたくさん浮かんでいた。その島のひとつから、私は青の
青のブログは濃紺の背景に白い文字で綴られていて、端正で、しずかだった。何度かコメントを書き込むうちに、メッセージをやり取りするようになった。けれどその内容はいま思えば曖昧模糊としたもので、青が何歳なのか、どんな仕事をしているのか、あるいは学生なのか、青のことを私はなにも知らなかった。
あのとき私はまだ高校生で、あぶないことなどなにひとつしたことがないような娘だった。両親は厳しくはないが心配性で、インターネットで知り合った人と会うなどと言ったらきっと止められるだろうと思った。私は友達とレイトショーに行くのだと、初めて嘘をついて、その夜、出かけた。
ブログの中では年齢も性別も明かしていなかった青だけれど、年上の男の人のような気はしていた。駅のロータリーに着いた車は黒く、運転席から出てきた青も黒いマントのような服を着て闇に溶けていた。青なのに、青いものは身につけていないんだなと思ったけれど、口には出さなかった。
助手席に座るとふわんと暖かく、それは現実を感じさせるようなあたたかみだった。お香のような不思議な香りが漂った。酔ってしまうような匂いではなかった。信頼というような確固とした気持ちではなかったがあぶないことはないだろうと思っていた、反面、少しはどきどきした。結論からいうと、なにひとつあぶないことなどなかった。
私は青に憧れ、好きで、青とメッセージのやり取りをするのは嬉しかったが、それは決して恋ではなかった。そのときまだ知らなかったとか、そういうことでもなく。恋でも愛でもなかった。友達というのも、少し違うような気がする。青は、青だった。
車は静かに山道をのぼった。街灯も少なく、ほかの車はほとんど走っておらず、ふとした瞬間に樹々が途切れると眼下の街の明かりが一瞬だけきらきらとして見え、すぐまた隠れた。音楽もかかっておらず、話もほとんどせず、車内は静かだった。フロントガラスが曇ると青は少しだけ窓を開け、そのときはつめたい風が額を冷やした。
青が車を停めたのはずいぶん水の近くのようだった。地面に足を下ろすと砂利と砂利のあいだにうっすらと張られたロープが見え、おそらく、車で入ってはいけないところではない、ということがわかった。青はなんとなく、入ってはいけない場所に侵入するような人ではないと思っていた。でも、もしそうではなくて、そこが本当は入ってはいけない場所だったとしても、あの日だけは、私はついて行っただろう。こっちだよ、と青が言った。
暗い中を、水の音がする方へ歩いて行った。青は真っ黒なのにその気配を見失うことはなくて、どちらかというと、温度があった。こんな黒い服を着てさむそうな名前をつけて、でも、意外と体温の高いほうなのかもしれない、と思いながら、ずっと隣を歩いた。
少し下のほうへ降りてきたようだった。真っ暗闇にならないのは、見上げた先にある、おそらくここまで来る間に通ってきた道だろう、そこに沿って弱々しい光の街灯が、ぽつり、ぽつりとあるからだった。けれど闇に近いことは、近い。水辺のぎりぎりで、青は止まった。
対岸は草むらのようだった。何か動いたような気がして、でもそれは気のせいだった、まじまじと見た。青が一緒だから、怖くはなかった。しゅぽ、と音がして光が突然現れた。ライターの炎が青の白い手を照らしていた。片手でそうしながら、黒いマントのポケットから青は、三角形の蝋燭を取り出し、足もとの石のひらぺったいところに、注意深く置いた。
「こうやって見るよ」
青と私はしゃがみ込んで見た。青が蝋燭に火を灯すとそれはゆらゆらとゆらめいた。オイルの匂いがしてライターの炎は蝋燭の先へ移った。
「見ていて」
炎は幾度か揺れ、そのうち、ぽっと上のほうが分かれてゆっくりと飛んだ。ひとつ、またひとつ。息を呑んだ。
三角形の頂点から蝋が少しずつ溶けるのが照らされて見える。そこにある炎はしかし消えることはない。小さな火がみっつほど浮かんだのをゆるりと目で追うとその先には、向こう岸のくらい茂みの中にひとつ、ふたつとちいさな光が見え、それは今しがた蝋燭の先から飛び立った光と、出会うようにして、遊ぶようにして、くっついたり離れたりしながらともに飛んでいく。
「蛍だ、」
それはどんどん増え、強く、弱く、光り、暗闇から幾筋も、幾筋も宙へ舞う。私は思わず立ち上がった。そうするとさっき青が灯した蝋燭は小さく、足もとにあるはずなのに、まるでぱちぱちと爆ぜる大きな炎に照らされるかのごとく、両頬があかるく熱いように思われた。けれど鼻先はつめたく、水の匂いがし、大きな炎はきっとまぼろしだ。次々と現れては天へとのぼって行く蛍の群れを、ただ見つめていた。
そのときのことを、いまも鮮明に憶えている。けれど同じぐらい、あれは夢だったのではないかとも思う。蛍は、夏のものだ。ふと思い立って調べてみたら、稀には、秋に光ることもあるのだというけれど。けれどあんなに深まった秋の、着ていたニットコートの袖口の感触、ひんやりとつめたい夜の、しめりけを帯びた冬の気配。蝋燭の先から飛んだ小さな火、それとむつみ合うように光った、対岸の、秋のほたる。
青とは連絡を取らなくなって久しい。何かあったわけではない。使っていたブログサービスが廃止されてしまったり、パソコンが壊れて買い替えたり、大学に進学し、就職し、そういったあれこれのうちに、気がつけばブックマークしていたはずの青の部屋にも、そこへつながるリンクの島にも、たどり着けなくなってしまっていた。青はいまも青であるのか、もしかしたらちがうハンドルネームで、インターネットのどこかで出会っているかもしれないけれど、相変わらず私は青のことを何も知らないから、そうだったとしても、わからずにいるだろう。街で会えばわかるだろうか、あの黒いマントを着ていれば、もしかしたらわかるかもしれない。でも、ほかの服を着ていたりすれば、きっとわからない。たとえば、青い服だとか。青はもう、あのマントは着ていないような気がする。
少しだけ窓を開ける。しっとりとつめたい空気が流れ込んで頬を冷やす。あの夜のことは、でも、きっと本当だった。目を閉じるとしんと湿った暗闇のなかから、小さな柔い光が幾筋も天へのぼって行く様子が、ありありと浮かんだ。
秋のほたる(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan
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