Day12 坂道

 坂道だけの国だった。まとわりつくような闇が、怖気と、湿気と、この世の悲しみをたたえながらあたりを充たしていた。無明が潮のように打ち寄せ、引くときに彼の涙を連れて行った。孤独だった。それが胸から呼吸を奪った。遠くたどり着けないという点では、彼岸も地の底も同じだった。憧憬と渇望の前に果てしない死が横たわっていた。ただ、その向こうには彼の妻がいるはずだった。

 死は平等だ。誰に対しても均しく与えられるのは、その接吻のみだった。ただ少し早く、しかしクナトには耐え難いほど早く、それが彼女に与えられたというだけだった。


 ようとして先の知れぬなかを、クナトは進んでいく。浅い板沓いたぐつが踏む地の、足ざわりが変わった気がした。その子細を彼には言葉にできなかったが、口が取りこぼした気配のいくらかが心を撫でていた。それは感触ではないかもしれなかった。光のその一筋さえ与えられないなか、終わりのない終わりのなかを這いながら、彼の研ぎ澄まされた生への執着がみずみずしい死の呼気に当てられていた。それでもはじめは、腐敗した秋の木々の、命のやわらかさを踏みしめていたのだ。今では、生きとし生けるものを呑みこむ喉笛のような崖が続いていた。一足ごとに地の底が迫る。人の世が遠ざかる。どれほど歩を進めただろうか、ふと腹の虫が鳴いた。

「食ってはならぬ」誰のものともつかぬ声がした。「そこはそういう場所だ。十一月の風と、乾いたしとねと、闇と蟲と永遠の後悔が統べる国。一度その地のものを口にしたが最後、おまえは根の国にとらわれてしまう」

 何も食うな、と念を押された。どれほど腹を空かそうと。空腹だけではそうそう死なぬ。おまえを殺すのは飢えではない、ゆめゆめ忘るるな。

 食ってはならぬとはどうしたことだ。毒の根でも食わされるのだろうか。禁を犯そうにも、こんな常闇の獄に喫するものが見つかろうとは思えなかった。なにより、自分のひもじさの面倒をみる気にならない。食欲が光と関わっていると初めて知った。

 クナトはただひたすら歩いた。地を這い進み、疲れたら眠り、覚めたら歩いた。そのうちそれらは渾然となった。歩いていると思ったら眠っており、その逆もあった。夢とうつつが混ざり合った。彼は歩きながらまどろんだ。まぶたが閉じ、ひらき、また閉じ、ひらいた。今はどちらかわからなかった。

 いつのまにか沓はなくなっていた。クナトの足は、闇の国の地面を踏みしめた。砂と礫の頑なさと、土くれのそっけなさ。かつて生きていたもののなれの果てと、いつであっても生きてはいなかったもの。死だけがそこにあった。死が彼らの言語だった。死が閃き、お互いに繋げ合い、循環していた。死を通して、クナトはあらゆる真理に触れていた。彼はいま多くの死であり、同時にたくさんの墓所の主だった。彼は狩りから戻らなかった誰かの父で、また老衰した誰かの母でもあった。海に消え、山で難に遭い、熊や猪に裂かれ、飢え、争い、そうして死んだあらゆる誰かになった。誰もが死んだ。それだけが人の等しさだった。孤独とは手を取らぬこと。信念とは、たんに相手に触れること。


 気づくと、口の中に何かが入っていた。こびり付くような柔らかさと、ほろほろとした崩れやすさは、今までそれを食んでいたことを教えていた。

 青い鬼火が灯る。目の前に女が立っていた。

「ククリ、おまえか」妻だった。彼女は影を引き延ばしたような笑みを浮かべ、クナトの頬に手を触れた。その指は、ひとつ足りなかった。

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