第2話 不思議
翌朝、アネットは自分の服を貸したエリカを車に乗せて病院へ連れて行った。
比較的早くに診察の順番が回ってくる。
エリカが医者に事情を説明する。簡単なテストのようなものを受けさせられたが、エリカはそのほとんどに答えることができた。ただ、自分に関することはやはり書くことができなかった。
「ふうむ」
医者は結果を見て言った。
「現状、治療によって何か改善することは望めませんねえ。色んなものを見て経験していれば、きっかけを掴んでふっと思い出すでしょうけれど、確約はできかねます」
「そうですか」
エリカはいくらか落胆したが、もとよりそこまで期待はしていなかった。
アネットはというと、ずっと病院でエリカのことを待っていてくれていた。結果を聞くと、一つ頷く。
「そうしたらエリカは引き続きうちで休んでいて。今度は私が警察に行ってくるわ」
「私は……」
「多分、いない方が都合がいいわよ。身柄を預けたら何が起こるか分からないもの」
アネットはエリカを自宅に送り届けると、また車を出した。
「もし体調に問題がなかったら、ズザンナを手伝ってあげて。この家はちょっと広くて、一人じゃ手が回らないらしいの」
そう言い残して。
それを伝えると、ズザンナは喜んでいた。
「丁度良かった。ヨハンさんの部屋の掃除が行き届いていないから、一緒にやってしまおう」
「ヨハンさん……? アネットさんのご主人ですか?」
「いやいや、親御さんさ。アネットさんは独身だよ。そんで、アネットさんのご両親は今、西ジェルマにいらっしゃるんだ」
「えっ! でも、西側との行き来はできないはずじゃ……」
「詳しい事情はあたしも知らないよ。ずっと前の話だからね」
よいしょ、とズザンナは細い腕で力強く雑巾を絞った。
「それじゃあまずは埃を落としてしまうよ。最後に掃除機をかけようね」
「はい」
ズザンナはお喋りで、作業しながらも色んなことをエリカに教えてくれた。
「アネットさんは親切でね。これまでにも東側の人間を世話してきたんだ。病気になった難民を看病したりね」
「なるほど……」
「あたしは夫の暴力に耐えられなくて一人で逃げてきたところを、アネットさんに拾ってもらったんだ。それでこうして家事手伝いとして雇われているというわけ」
「お優しい方なんですね」
「本当にね。いつか危ない目に遭わないといいが……」
それにはエリカも同感だった。
「アネットさんが私を預かると仰った時は驚きました。こんな、どこの誰とも分からない人間を、家に上げるなんて」
「アネットさんはやると決めたら人の話なんか聞きやしないんだ。変わった人だとは思うけど、良い人だから安心しな」
「はい……それはもう、とてもよく分かります」
エリカは椅子を使って電灯の上の拭き掃除をした。と、コツンと何か異物がくっついているのに気が付いた。
「?」
テープが何かで小さな固形物が貼り付けてある。これは……。
「ズザンナさん」
「はいよ」
「ここに盗聴器らしきものが……」
「何っ。でかした、エリカ」
エリカはそれを剥がしてズザンナに渡した。
「うん、確かに盗聴器だ。マージャの国家保安庁のものか、東ジェルマの
「何故、一般家庭に盗聴器が……? アネットさんは何かまずいことでもしているんですか?」
「法に触れるようなことは何もしちゃいないはずだよ。まあ、深く詮索しなさんな」
「はい……」
「後でアネットさんに報告しなくちゃな。一応、盗聴を妨害する機械は動いているはずだけど……」
アネットは一体何者なんだと、エリカは自分を差し置いて思った。
部屋をぴかぴかに磨き上げてしまい、掃除機をかけてもう一度拭き掃除をした頃に、アネットは帰ってきた。
食卓でコーヒーを飲みながら話を聞く。
「プシュト全域を調べてもらったけど、クライン・エリカの戸籍は無かったわ。捜索願も出ていない」
「はあ……」
エリカは言った。
もしかしたら自分を待っている家族みたいな人がいるかも、と僅かに期待していたのだが……。
「あ」
「どうしたの、エリカ?」
「一つ、思い出しました。いえ、思い出したと言っていいのかどうか……とても曖昧な情報なんですけど……」
「何でもいいわ。言ってみて」
エリカは両手を組んで胸に当てた。
「私にはずっと大切にしていた人が一人だけいました。年上の家族……だったと思います。ただ、しばらく会ってなくて……」
「別居していたのかしら?」
「そうです」
「そうしたら、もしかすると、ずっと後になってあなたの不在に気づいてくれるかもしれないわね。警察に連絡が行くかも」
それから三人は、考えられる可能性を話し合った。エリカと家族が何らかの原因で西と東に分かれて、会えなくなってしまったとか。何かの間違いで家族が東ジェルマから出られないでいるとか。
いずれも憶測に過ぎず、エリカの身元を特定するにはあまりにも情報が不足していた。
アネットは少し考え込んでから、言った。
「では、その方に出会えるまで、あなたをうちで家事手伝いとして住み込みで雇ってもいいかしら?」
エリカは上目遣いでアネットを見た。
「……いいんですか?」
「その方が助かるわよ。ねえ、ズザンナ?」
「それは、そうですね」
「決まりね」
アネットは手を合わせた。小指にはめられた指輪がきらりと光った。
「じゃあ早速、お仕事を頼もうかしら。明日はお友達がうちに来るのよ。片付けと準備を任せてもいいかしら?」
「えっ、そりゃまた急ですね」
「あの人はいつも急なのよ。お茶とお菓子を出せるようにしてくれると助かるわ。お菓子はできれば既製品じゃなくて伝統的なケーキとかにしてちょうだいね。それじゃあ、私はエリカとの契約書や細々とした手続きを済ませてくるわ」
アネットは執務室へと去っていった。
エリカはズザンナと相談して、お菓子はベイグリ(甘いパンにケシの実を詰めたロールケーキ)を作ることにし、買い出しに出かけることにした。
「商店街のこともよく覚えてないだろう? あたしについてきな」
「ありがとうございます」
「小麦粉や何やらは在庫があるから、問題は詰め物だね」
ズザンナとエリカは店を回り、挽いたケシの実、アプリコットジャム、レーズン、バターなどを買い込んだ。
帰ったら早速作り始める。
ズザンナは甘いパンの生地をこねる。エリカは詰め物を混ぜる。詰め物をパンの上に載せて、慎重にくるくる巻いていく。あとはしばらく寝かせて、焼いたら出来上がりだ。
「やれやれ。ちょっと休もうか」
ズザンナは食卓の椅子に座った。
「あとは大したことはやらないから、エリカは休んでいていいよ」
「え、でも……」
「客室は片付いてるし、本当にいいんだ。分からないことがいっぱいで疲れただろう?」
「……」
エリカは俯いた。
「でしたら、その……散歩に出てもいいですか」
「散歩?」
「少しでも、記憶を取り戻すきっかけを掴みたくて。お医者様にも、色んなものを見ると良いと言われました」
エリカが言うと、ズザンナは納得したように頷いた。
「そういうことなら、どんどん散歩に出るといいよ。迷子にならないようにね。アネットさんにも念のため確認をとっておいで」
「そうさせていただきます」
アネットは執務室で難しい顔つきで何かの紙を眺めていたが、エリカの要望にはすぐ許可を出してくれた。
「何なら、仕事の合間にしょっちゅう散歩に出たらいいわよ。きっと何か思い出すわ」
「ありがとうございます」
エリカは外へ出た。
まずは自分が倒れていた場所まで行ってみようと思った。
先日の記憶を頼りに路地裏までたどり着く。
辺りを見回して──気付いたら、夕日の中で、アネット宅の前に立っていた。
「えっ?」
エリカは動揺した。
おかしい。さっきまで確かに路地裏にいたのに……。
それにいつの間にか時間も経っている。
これはどういうことだろうか。
「まさか、また……記憶がなくなっている?」
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