第3話 計画


 翻訳作業に疲れてお茶を飲んでいたところに、エリカが混乱した様子で帰宅したので、アネットは驚いた。


「どうしたの?」

「何か……何か……」

「落ち着いて。何か思い出したの?」

「いえ。忘れてしまったんです。散歩中に、自分が何をしていたか」


 アネットは瞬きをした。


「まだ記憶喪失の後遺症みたいなものが続いているということ?」

「た、多分……」 


 アネットはエリカの手を取った。


「何をしていたか、本当に思い出せないのね?」

「え、あ、はい……路地裏にいたはずなのに、気づいたら、帰っていたんです」

「……奇妙な話ね」

「はい。どうしちゃったんでしょう、私」

「散歩をすることが、あなたにとっていいことなのかどうか……。急に記憶が飛んでしまうのでは、危なっかしいわね」

「はい。……でも、散歩は今後も続けたいです。このことが、記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれませんから」

「……」


 アネットは小指にはめた、霊鳥トゥルルの細工が施された金の指輪を見た。


「だったら、散歩に出る際は、私に必ず、行き先を告げるようにしてちょうだいな。あと、できれば誰かと一緒に行くといいわ。私でもズザンナでも」

「分かりました」

「くれぐれも気をつけてね。それから、今日はもうお休みなさいな」

「ありがとうございます」


 エリカは頭を下げた。

 アネットは微笑んでから、仕事部屋に引き返した。

 肘掛椅子に腰かけて、万年筆をくるくる回しながら、ひっそりと呟く。


「まるで多重人格ね」

 一人の中に二人以上の人格が共存していて、人格が入れ替わっている間は記憶が無くなるという例があると聞く。非常に稀な例だと思われるが……。

「だとしたらやっぱり、少しの警戒は必要かしら……」


 そして、客人が来る日がやってきた。

 あえて二人には言わなかったが、客人はアネットの従姉のヴィレッテという人物である。


「そうだわ。お客様がいる間に散歩に出るといいわよ。ズザンナと一緒に」


 アネットはエリカに言った。


「え、でも」

「おもてなしは私一人でやるから。積もる話もあるわけだし、ちょっと出ていてくれた方がありがたいわ」


 にこっと笑ってそう言うと、二人は渋々従ってくれた。

 二人が出て行ってから数十分後、ヴィレッテがやってきた。相変わらず地味な色の服を着ている。


「ようこそ、ヴィレッテ」

「お邪魔するわ、アネット!」


 ヴィレッテは優雅な仕草で客室の椅子に座る。

 アネットがベイグリを切って出すと、ヴィレッテは喜んでくれた。


「美味しそう。あなたが作ったの?」

「ううん、家事手伝いの二人が」

「あら? お手伝いは一人じゃなかった? 増やしたの?」

「ええ」


 ヴィレッテはフォークを使って上品にベイグリを口にした。それから微笑んだ。


「これはいいわね! ピクニックのメニューに加えたらどうかしら?」

「名案ね」

「そうそう、ピクニックのことを話しに来たのだったわ」


 ヴィレッテは部屋を見渡した。


「この部屋は安全なのよね?」

「妨害電波を出しているから盗聴の心配はないわ。念のためお手伝い二人も外に出したし」

「あら、信用ならない人物を置いているの? それはよくないわよ!」

「ズザンナは大丈夫よ。ただ、エリカが……」


 アネットはエリカを拾った経緯を説明した。

 ヴィレッテは興味深そうに話を聞いていた。


「なるほどね! 身元が分からない子に計画を知られるのは、確かにちょっと危ないかもしれないわね」

「そういうこと」


 それから二人はピクニックの計画について話し合いを始めた。


「ピクニックまであと二か月ね! 楽しみだわ」

「もう。ヴィレッテが急に変なことを言うから、びっくりしたのよ」

「でも、素敵な計画でしょ? ウスタリヒとの国境線上でみんなで楽しいピクニックを開く。マージャとウスタリヒは同じ国だったこともあるのだから、これくらいの親交があってもいいじゃない?」

「それはそうね。あくまでマージャ人はウスタリヒ人との交流を楽しむだけ。――たまたまそこに東ジェルマ人の難民が来ていて、ウスタリヒへ踏み入ることがあっても、それはただの偶然に過ぎない」


 二人は可笑しそうにくすくす笑った。


 計画はこうだ。

 マージャとウスタリヒの国境線のある場所で、二国間のピクニックを開催する。そのために、二国間に立ち塞がっている鉄条網を一部撤去する。そのどさくさに紛れて、マージャ国内に滞在している東ジェルマ人難民を、西側諸国であるウスタリヒに逃がす。ウスタリヒからは西ジェルマへのバスを出して、難民たちを無事に送り届ける。


 これら全ての計画を、あくまでピクニックという名目で行うのが鍵だった。偶然を装っていれば、反対勢力の追及をかわすことができる。

 上手くいけば東ジェルマ人にとってはいいことだし、マージャ人民共和国にとっても難民がいなくなって助かるし、冷戦の東西対立構造に風穴を開けることだってできる。いいことづくめだ。


 反対勢力が邪魔をしないように、ことを慎重に運ばねばならないだろう。例えば東ジェルマ民主共和国にとっては自国民の流出は避けたい事態だろうから、秘密警察のスターツィを送り込んで邪魔をしてくる可能性がある。それにマージャ国内の国家保安庁や国境警備隊も侮れない。


 ただし、計画にはマージャ首相のネーメスも関わっている。彼がうまく調整してくれるはずだった。


 簡単な打ち合わせを終えて、ヴィレッテはさよならをすることになった。


「じゃあアネット、気をつけるのよ!」

「ええ、ヴィレッテ」

「その指輪が、あなたのことを助けてくれることを祈ってるわ!」

「ありがとう」


 ヴィレッテは車に乗って走り去った。見送りをしたアネットは、ふうと溜息をついた。

 各国の命運をかけた計画を催すというのは、ことのほか重責だ。全く、ヴィレッテも無理を言ってくれる。


「明日は民主フォーラムの人たちと打ち合わせをして……。それから難民たちの様子もいずれは見に行かなくちゃ。ああ、やることがたくさんね……」


 その時呼び鈴が鳴って、ズザンナとエリカが帰宅した。


「おかえりなさい。何か変わったことはあったかしら?」

「いえ、何も。アネットさん」

「そう。ズザンナ、悪いけれど引き続き、エリカにつきあってあげてね」

「承知しました」


 ズザンナとエリカは台所の片づけにかかろうとした。


「ベイグリをお出ししたんですね」


 ズザンナは言った。


「ええ。好評だったわ。また作って欲しいそうよ」

「また、というと、お客人はまたいらっしゃるので?」

「いいえ。ピクニックを計画しているのよ」


 アネットは涼しい顔で言った。


「再来月に。ウスタリヒ人の友人と食べものを交換しあったり、一緒に踊ったりするの。楽しそうでしょう? だからね、またベイグリを作ってちょうだいな」


 ズザンナとエリカは目を丸くして手を止めた。


「ウスタリヒ人と?」

「そうよ。友人がウスタリヒにいるのよ」

「それはつまり……」

「嫌ね、ただのピクニックよ。ちょっとくらい構わないでしょう?」


 エリカは妙な顔をしていたが、ズザンナは納得した様子だった。


「まあ、今じゃ一部の鉄条網も外されちゃっていますし。規制が緩くなっていますもんね」

「ええ」


 これくらいは喋ってしまっても構わない。ピクニック計画はいずれ国民にも知らせることになるからだ。いっそのこと大々的にやろうというのが、ヴィレッテたちの目論見だった。マージャとウスタリヒの関係性を世界に示してやろうというわけだ。


「ああ、楽しいピクニックになるでしょうね」


 アネットは伸びをした。


 本当に、楽しい計画だ――そして、荷が重いピクニックだ。

 絶対に成功させなければ。

 世界平和のために。

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