忘却と画策のピクニック

白里りこ

第一章 忘却

第1話 親切

 困った。

 何も思い出せない。


 何一つ。

 何故自分がここにいるのか。ここはどこなのか。どこへ行って、どこへ帰ればいいのか。

 何にも分からなかった。


 仕方なしに、ぼーっと路地裏に座り込んで初夏の昼下がりの曇り空を眺めていると、髪の長い上品そうな女性が通りかかって、声をかけてきた。


「大丈夫ですか?」

「あ、大丈夫です。ただ、あの」

「はい」

「何も思い出せなくて……ここはどこですか?」


 そう言われた女性は、明らかに戸惑った様子だった。


「どこって……プシュトですけど」

「プシュト……マージャ人民共和国の首都の?」

「ええ。……マージャ語もお分かりになるんですね。先程はジェルマ語を話されていましたが」


 それは気づいていなかった。一瞬口ごもってから、マージャ語で恐る恐る尋ねる。


「あと……私が誰なのかご存じですか?」

「いえ、存じ上げませんが……もしかしてお名前もお分かりにならない?」

「はい」

「ご住所も?」

「はい。何も、わからないんです……どうしたら……」

「落ち着きましょう」


 女性は何故かちらりと自分の手の甲を見た後、ロングスカートが地面につくのもいとわずにしゃがみ込んだ。


「持ち物はありますか? 身分証から名前が分かるはずです」

「ええと」


 体のあちこちを叩く。ズキッと頭が痛んだ。

「うっ」

 咄嗟に手で押さえると、後頭部に立派なたんこぶができていた。

「? 痛むのですか?」

「いえ、平気です」

「そのお怪我が記憶喪失の原因なのでしょうか」

「そうかもしれません」

「怪我の原因は?」

「さあ……」


 引き続き身分証を探すと、ポケットからほとんど空っぽの財布が出てきた。何故か名刺が一枚だけ入っていて、そこには「クライン・エリカ」と書いてあった。


「これが名前でしょうか」

「そうみたい……です」

「どうしましょうか。警察に届けていいものか……」

「? 駄目なんですか?」


 首を傾げるエリカに、女性は深刻そうな顔で頷いた。


「……あなたは自分がどこの国の出身かもご存じない」

「はい」

「咄嗟にジェルマ語を話すということは、ジェルマ人の可能性が高い」

「……はい」

「そして在留証明書やパスポートを持っていない」

「あ……」

「不法滞在の可能性が高いです。その場合、警察に駆け込んだら、東ジェルマに強制送還されてしまいます。そうはなりたくないでしょう?」


 エリカは遠慮がちに頷いた。

 すると女性は驚くべき言葉を口にした。


「一旦、私の家に来てください。しばらくお世話いたしましょう」

「へあ!? そんな、ご迷惑をおかけするわけには……」

「でも、他にどうしようもないでしょう?」


 さも当然のように言われて、エリカは言葉に詰まった。


「それは……」

「ね?」

「……」


 綺麗な黒い瞳に見つめられて、エリカはたじろいだ。

 どうすべきか。

 会ったばかりの人の家にお世話になるなんて、とても考えられないことだ。

 だが、このままうろついていてはいずれ逮捕されてしまう。

 この人は悪い人には見えない。このまま露天に放置されるのと、一旦この女性の家に避難するのとでは、後者の方が安全そうだ。

 やがてエリカは、お願いします、と非常に小さな声で言った。


「良かったわ」

 女性は微笑んだ。

「私の名はジグモンディ・アネット。気軽に名前でアネットと呼んでちょうだいね」


 案内されたのはとても広い家だった。

 エリカがアネットの肩を借りて玄関口まで行ってチャイムを押すと、エプロンを開けた背の低い女性が出てきた。


「お帰りなさいませ……って、また誰か拾ってこられたんですか?」

「ええ。この人は記憶喪失みたいなのよ」

「はあ? そんなの嘘に決まってますよ、アネットさん。もし泥棒とかスパイとかだったとしたら……」

「でも、怪我をしているのは間違いないわ。寝室を一つ使わせるから、ズザンナはお茶と冷やしタオルを持ってきてくれないかしら?」

「はあ……やれやれ。仕方ないですね。お人好しなんだから」


 こうしてエリカはベッドに連れて行かれ、温かい紅茶を提供された。

 広い寝室だった。


「警察には後日私が行きましょう。今日はここで休んでね。……ズザンナ、私の仕事用具を一式、ここに持ってきて」

「ここで仕事をなさるのですか?」

「エリカは頭を怪我しているようだから、誰かが様子を見ていないとまずいでしょう。頭を打った人は、急激に具合を悪くすることがあるから。……家事や他のことはあなたに頼んだわ」

「はいはい、分かりましたよ」


 ズザンナは退室すると、タイプライターと紙と万年筆と本を持ってきた。


「とりあえずはこれでよろしいですか?」

「ええ、いいわ。ありがとう」

「では失礼します」


 エリカは物珍しい目で、机の上に運ばれた品々を見た。


「……アネットさん」

「はい?」

「何のお仕事をなさっているか、伺ってもいいですか?」

「文筆業よ。小説を書いたり、海外の小説をマージャ語に翻訳したりしているの」

「へえ……」

「近頃のマージャは規制が緩くなって、検閲もほとんどないから、翻訳業が忙しいわね。これまでご禁制だった本がごまんとあるのよ」


 アネットは椅子に座って、さっそくカタカタやり始めた。


「夜まで私はここにいるから、何かあったら遠慮なく声をかけてね」


 喋りながらも器用にタイピングを進めていく。

 エリカは横になって部屋を眺めた。


 立派な部屋だと思う。エリカの知っている住宅というものとは、同じような白い壁のマンションが立ち並んでいて、狭くて窮屈なもののはずだった。もっとも、自分の家がどんなものだったか、覚えてはいないのだが……。


 エリカは記憶を整理することにした。


 今、世界は東西に分かれて冷戦状態になっている。

 マージャ人民共和国は東側諸国の一員だ。監視社会で、反政府主義者はすぐに捕まって牢獄行きである。東側の国はみんなだいたいそうだ。

 自分はジェルマ語とマージャ語を喋ることが出来る。そしてアネットの言う通り、恐らく母語はジェルマ語だ。ということは、同じく東側陣営の東ジェルマ民主共和国の出身の可能性が高い。それがどうしてマージャに?

 マージャ語も問題なく喋れるから、仕事の関係でこちらに住んでいるのか。それとも言語が堪能なのはたまたまで、ここには難民として来ているのか。

 東ジェルマから西ジェルマへと亡命したがる人間は多い。東ジェルマは特に人々への監視が厳しいので有名だからだ。でも両国間の国境警備はもっと厳しい。直接両国間を行き来することはほぼ不可能だ。

 他方、南方のマージャとウスタリヒ間の国境警備は甘いと聞く。それで東ジェルマ人はひとまずマージャに「旅行」する。東側諸国どうしの移動なら認められているからだ。だが結局ウスタリヒとの国境を抜けられなくて、西側諸国に脱出できず、立往生することになっている。そして難民となる。


(社会情勢はある程度把握しているみたいだなあ。自分に関する記憶だけすっぽり抜けている……)


 エリカはむくりと起き上がって、ベッドから降りた。仕事に熱中しているかに見えたアネットがすぐさま反応する。


「どうかしたの?」

「あ、いえ、そこのドレッサーにある鏡を見たくて……よろしいですか?」

「ええ、いいわよ。気を付けてね」


 エリカは鏡を覗き込んだ。


 肩まで伸びた焦茶色の髪が、平凡な顔を縁取っている。

 何の面白みも無い顔つきだ。


「……」


 エリカはしばらく鏡と睨めっこをしていたが、こんな凡庸な顔を見ていてもつまらないので、そそくさとベッドに戻った。ズザンナが用意してくれていた冷やしタオルを頭に当てる。

 長いこと、伏せって考え事をしていた。

 時が経つのはあっという間だった。やがてアネットは仕事を切り上げた。


「問題ないようなら、夕食にしましょう。ズザンナが美味しい料理を作ってくれているわよ」

「かたじけないです」

「遠慮しないで。ゆっくり階下まで下りてね」


 こうしてエリカはパプリカのたっぷり入ったほかほかのグヤーシュ(牛肉のシチュー)をごちそうになり、満腹になって再びベッドに戻った。


「何かあったら今度はズザンナに言ってね。彼女は隣の寝室だから。それじゃあおやすみなさい」


 アネットはにこっと笑って出て行った。

 エリカは遅ればせながらこう思った。

 こんなに親切な人に助けてもらえるなんて、いくらなんでも運が良すぎやしないかと。

 記憶喪失だなんて怪しいことを言うこんな不審者を引き取ってくれるなんて。しかも、お尋ね者かもしれない人間を。


 彼女は、単なるお人好しなのだろうか。

 それとも何か裏があるのだろうか。

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