36●“最後の戦い”の分析④……グルンワルドの敗因、ホルスの愛と悪魔殺し
36●“最後の戦い”の分析④……グルンワルドの敗因、ホルスの愛と悪魔殺し
さて、“最後の戦い”の戦闘経過に目を戻しましょう。
ポトムが太陽の剣を天にかざし、「できたぞー!」と宣言します。
このときホルスは燃える油壷を投擲する“モロトフ火矢(仮称)”の発射操作を担当しています。
ポトムたちの鍛造作業を守って時間を稼ぐために、氷マンモスに攻撃を加え、グルンワルドの足を止めていたわけです。
そこで、太陽の剣が完成したと知り、「おっ、あれは?」と、氷マンモスの上からグルンワルドが俯瞰する場面(RAE48頁)。
村を見ると、
太陽の剣の鍛造にかかるポトムに代わってホルスが指揮する村民軍は、そこに防衛線を敷いて、太陽の剣の完成まで、戦線を後退させることなく維持したのです。
ここにも、緊迫のドラマがいくつもあったことと思います。
どうやって、何時間もグルンワルドの足を止めたのか。
これも一つの謎となります。
なんとなれば、目の前に炎の防壁を作られたとしても、包囲されているのでなければ、グルンワルドはちょいと右へ回って、炎の壁を迂回するだけでいいのですから。
それなりの事情があったのでしょうが、やはり謎なのです。
考えられる理由の一つとしては、太陽の剣に備わっていた、悪魔を排除する力場のようなもの。ヒルダが触ろうとしたとき、まるで感電したかのように跳ねのけられた、あの不思議な斥力ですね。
再鍛造が進むにつれて、太陽の剣の本来のパワーが姿を現して、目には見えないけれど、ある種の対魔結界というべき力場が展張され、それが炎よりも強い力で氷のマンモスに拮抗して前進を阻んでいたのかもしれません。
太陽の剣が完成し、ホルスはグルンワルドへ
氷のマンモスから雪狼を放つものの、狼群の隊長である銀色狼は太陽の剣で真っ二つにされ、グルンワルドは近接防御を失います。
両者の一騎打ち。
グルンワルドは飛行マントの一部を引き裂かれ、ホルスとほぼ互角の勝負。
そこへモーグが登場。
重ねて、空を飛んで来たフレップとコロからホルスに命の珠がもたらされたことで、決定的に形勢逆転、グルンワルドは敗走状態に陥ります。
*
グルンワルドの敗因はどこにあったのでしょうか。
ホルスが迷いの森を抜け出して東の村へ帰りつくまでに、村へ迅速に侵攻し、住民を村から追い出して、太陽の剣を発見し、岩石等で封印して、再鍛造を不可能にする……
戦略目的は、そんなところだと思います。
村の住民の絶滅よりも、太陽の剣の封印を優先した。
太陽の剣には、グルンワルドとて触れることはできないでしょう。
そして、グルンワルドを滅ぼす力が、太陽の剣にある。
ホルスが還って来ても、太陽の剣を発見できないようにすることが第一義だったはずです。
だから、村への電撃侵攻は、適切な判断でした。
しかし、下記の三点で、グルンワルドはしくじりました。
第一に、慢心のあまり自分の侵攻を、山の上に映した“俺様映像”でPRしてしまい、奇襲効果を失ってしまったこと。
こっそり村へ忍び寄り、一気に突入すればよかったのです。
第二に、村への内戦工作が頓挫したままであったこと。
ヒルダが仕掛けた内戦工作は、ホルスを迷いの森へ落としてから、ヒルダがホルスの殺害をためらい、グルンワルドと口論してもたつき、結局、後回しになってしまいました。内戦が始まっていなかった東の村では、村民がまだ仲間割れを起こすに至っておらず、ガンコ爺さんとポトムを中心に団結、反撃することができたのです。
第三に、撤退の機会を失ったこと。
ホルスが村へ到着して、ポトムたちが太陽の剣の再鍛造に取り掛かった時点で、グルンワルドはいったん退却して、この地域からの逃亡をはかるべく、自分のお城で引っ越しの準備をするべきでした。
いったん攻め寄せた以上、後に引くことはできないとか、“武士は敗けるとわかっていても戦わねばならぬときがある”といった武士道的な悪魔のプライドにとらわれて、もう少し、もうすこしと村ヘの侵攻に執着した結果……
岩男モーグが駆け付け、“ヒルダの裏切り゛によって“命の珠”がホルスの手に渡った時点で、グルンワルドは逃げても逃げても、ホルスの追跡を振り切ることすらできなくなったのですね。
ホルスが村へ還りついたところで、グルンワルドは潔く勝利をあきらめ、氷の城へ一目散に逃げ帰るべきだったのです。そうすれば、氷の城にホルスを連れて行くことにもならず、どこか遠くへ落ち延びる時間を稼げたでしょう。
「ええい、よもやよもやの大失態、ホルスよく聞け、オレはお前が怖くて逃げるのではない。太陽の剣から逃げているのだ!」と、今どき誰でも知っている捨てゼリフを残して、逃げ恥を決めればよかったのですが。
それができず、グルンワルドは自ら自分の首を絞めました。
まさかヒルダに裏切られるとは……
いったい、人間どものどこがいいのだ。
間抜けで、疑い深くて、すぐに仲間を裏切るバカどもが……
あ、オレもヒルダに裏切られたのだ。人間並みか。
返すがえす、口惜しい、無念だ……
そんな心境だったと思います。
東の関ヶ原村で小早川ヒルダに裏切られ、儚く破れた石田グルンワルド三成……
その最期は落武者そのものでした。
もって瞑目するしかありません。
そしてこの“最後の戦い”のさなか、ヒルダはその罪を一身に引き受けて、人間としての死を選んだのです。
中世の時代劇ならば、キリシタンの殉教さながらに……
*
さてここで、『ホルス……』のちょっと珍奇な謎に触れてみましょう。
チャハルから服をもらって着替えるとき、ホルスの男性器がチラッと見えるカットがあります。(RAE20頁 子供たちの「あーっ」の場面)。
なぜ、見せたのでしょうか。
偶然のはずがありません。ましてや観客へのサービスカットでもないでしょう。
当時の他の“天然色漫画映画”でも、劇場公開でそこまで平気で見せている作品は、私も知りません。
理由、あるんでしょうね。
一つ思うのは、まさに見ての通り、“ホルスは人間の
つまりいずれは、異性と一緒になり、子供をつくることもあり得るのだと。
性が未分化の“子供”のままでなく、“大人の男”になりうるのだ、ということです。
『ホルス……』は、子供に近い少年だったホルスが、内実が大人同然の少年に脱皮する物語であるとも、考えられます。
親を失って自立し、旅に出て危険を潜り抜け、村というコミュニティに参加して、敵と戦い、村に貢献する……といったプロセスは、それぞれ子供から大人への成長の関門を表しているのでしょう。
その結果、物語のクライマックス、氷の城の広間にグルンワルドを追い詰めた場面で、彼は子供ではできない処断を、グルンワルドに下します。
グルンワルドは武器を失い、太陽光にさらされ、太陽の剣の輝きを浴びて瀕死の苦悶にあえいでいます。
もはや無抵抗。
しかしホルスは極刑の剣を振り下ろします。
ちょっと、残酷ではないか?
そんな気もいたします。
K殺隊が鬼の首をスッパスッパと刎ねて、ためらうことのない21世紀ならいざ知らず、昭和43年、西暦1968年の公開作品です。
当時の子供向け番組では、いくら悪玉とはいえ力をなくして無抵抗な者を、あえてブッた斬る処刑まがいの行いは、正義のヒーローにあるまじき残虐行為とされていました。
鞍馬天狗も月光仮面も、少年ジェットも鉄腕アトムも、まあたいていは、反省して謝る悪漢は殺さず助命してやり、悪漢が死ぬ場合は、アクシデントによる自滅……となるようストーリーが
それとは別に、当時は残酷な場面もリアリズム豊かに描くマンガとして“劇画”なるものが勃興しているところであり、それは完璧に“教育上良くない
しかし『ホルス……』では、最後にとうとうホルスが劇画並みのハードな表情で、グルンワルドを殺します。
ファミリー向けの楽しい漫画映画を期待していた観客は、少年が悪魔を滅ぼすシーンで、どこか寒々とした怖さを感じたかもしれませんね。
このとき、ホルスはけっこう、怖いのです。
翌年、1969年公開の『長靴をはいた猫』で悪魔が滅ぶラストシーンと比較すればわかりますね。『太陽の王子ホルスの大冒険』はもう、死刑執行そのものです。
これは戦争であり、村を守るためにはこうするしかない……とも受け止められますが、それはそれとして……
ホルスには、じつは、一匹の
グルンワルドは死ぬまで絶対にヒルダを手放さない。
だから僕がヒルダと一緒になりたかったら、グルンワルドを殺すしかない。
そういう理屈でしょう。
迷いの森を抜け出てヒルダと邂逅し、彼女が斬りかかってきたとき、ホルスは心のどこかで、そう気付いたのでしょう。
ヒルダはグルンワルドを憎んでいない。兄として切るに切れない
そしてグルンワルドは、ヒルダ無しでやってはいけないんだ……と。
これも悲しい宿命と言うべきか。
ホルスの、ヒルダとの愛は……
悪魔を殺さなければ手に入れられない愛だったのです。
ヒルダを愛する
正義とか悪とか、理性とか狂気とかの問題ではなく、一匹の
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