35●“最後の戦い”の分析③……“ホルス抜きで団結した”意味と、市民革命

35●“最後の戦い”の分析③……“ホルス抜きで団結した”意味と、市民革命




 『太陽の王子ホルスの大冒険』のテーマとして、映画公開当初から「団結と信頼」(RAE145頁)が挙げられていました。


 一見して、太陽の剣こそが団結の象徴に思えますが、「太陽の剣」はあくまで悪魔を倒す武器にとどまり、本質的な団結は、太陽の剣を鍛え直すことのできる「みんなで燃やしたあの火」に集約されていることになります。


 ホルスがいなくても、村人たちは団結した。


 意味深いみしんな演出ですね。

 物語の主人公であり悪魔退治のヒーローとなるホルスは、村の団結に直接には関わらなかった。

 これは、“団結に英雄ヒーローは不可欠ではない”という作品のメッセージではないかと思います。

 強力な指導者は、英雄たり得ますが、同時に独裁者になる恐れを秘めています。

 ナポレオンが好例ですね。ヒトラーもそうかも。

 ある意味、危なげな英雄に依存する上意下達式でなく、草の根の民衆からの自発的な下意上達的な団結こそ、あるべき姿だということではないでしょうか。


 村人たちの団結へのプロセスは、明瞭に描写されています。

「逃げたらどうなるの?」という、幼女マウニの疑問。(RAE46頁)

 これは、もはや逃げ場を失った、村人たちの“絶望”に対する問いかけです。

 そこへ、焚火に着火するガンコ爺さんのセリフ。

「悪魔だって、不死身ではないのだ」

 “絶望”に向けた“希望”の答えです。

 絶望の淵から、希望への立ち返り。

 生への希望、そこに、大半の村民の意志が集中します。結論はチャハルの言葉。

「闘いましょう、同じ死ぬならここで!」

 村人たちは同意します。


 ホルスがいなくても、ここまで、できたのです。

 しかしそれも、ホルスが事前に悪魔の存在を警告し、ガンコ爺さんとポトムがホルスを信じたことで可能になったことです。

 “団結”の前提に、“信頼”があるべきだというメッセージですね。


 このように『ホルス……』には、観客に伝えたい内容が、徹底的に練り込まれて、無駄なく物語られていることがわかります。


       *



 もうひとつ、奇妙なことに気づかされますね。


 ホルスが、太陽の剣の鍛造に参加していない。


 ポトムが「できたぞ!」と叫び、ピカピカになった剣が雪の上を滑りますが(RAE67頁)、ホルスはこのとき、火矢投擲作業の準備中であって、現場から剣のもとへ駆け寄ります。


 ホルスの剣なのに、ホルスはトンテンカンと刃を鍛える作業には、参加していません。戦士らしく戦闘に従事しています。

 これもさきほど述べたように、“英雄なき団結がむしろ正しい”というメッセージでありましょう。


 ホルスは東の村に、偶然訪れた放浪者バガボンドです。

 こののち、村に定着するのか、それとも何か別な目的を見つけて、村を去るのか、定かではありません。

 英雄は、永遠ではない。いずれ、いなくなる。

 英雄としてのホルス一人によりかかった団結は、長続きしない。

 村人一人一人の心の中に、団結する意志が育たなくてはならない。

 そういうことだと思います。


 ホルスは太陽の剣の専用の使い手であり、悪魔と戦う戦士として活躍します。

 しかし、ホルス一人で村を救うことはできない。

 ホルスに頼らない団結心を、村人の誰もが持ち、心を合わせて共に戦うことでこそ、悪魔に勝利することができる……


 他のアニメ作品、とくに戦闘を扱うTVアニメでは、とかくヒーロー・ヒロインが戦いを引き受け、民衆は見物にとどまるというシーンが見られますが、『ホルス……』は徹底して、“戦いは民衆が参加するものであって、英雄の独占物ではない”というスタンスを貫いています。


       *


 とかく『ホルス……』はイデオロギーを交えて語られがちです。公開当時の宣材に「会社の合理化と斗いながら心血をそそいでつくりあげた」(RAE145頁)と表記されたことが、いまだに尾を引いているのでしょうか。


 とはいえ……

 現代の民主主義国家は、もともと、市民革命か、それに類する事件によって造られた歴史もあるわけです。

 それに20世紀においても、いくつかの国家で、民主化に向けた“無血革命”が大多数の市民の意志によって成し遂げられてきたことを照らし合わせると、『ホルス……』に描かれた民衆の団結と闘いの様相は、かなり正論に近いのではないでしょうか。


 現在の米国の成立に独立戦争があり、フランスや英国の成立にも幾多の革命があることは肯定的に捉えられており、その中心にはやはり民衆があるのですから。

 ミュージカルおよび映画の『レ・ミゼラブル』(映画は2012)は高く評価されていますが、『太陽の王子ホルスの大冒険』の“団結と信頼”の心髄は、そこに通じるものもあるではないかと思えるのです。



 子供も老人も動員し、東の村の総力を投じた“最後の戦い”の意味は、“村の民主化を具現化する斗いでもあった”ということに見出せるということなのでしょう。



       *


 “最後の戦い”には、もうひとつ注目点があります。

 ホルスが太陽の剣を掲げて突撃する場面以降、ポトムの父親である村長が、兵士として戦いに加わっていることです。凍った河を進む雪上船の舳先にも乗っていますね。(RAE49頁 左上から三コマ目の奥の船)

 村から早々に逃亡したドラーゴとは対照的です。

 おそらく、画面の裏側で、こんなドラマがあったことでしょう。


「わしが悪かった、ホルスは正しかった。もう、わしには村全体をまとめることはできん。ポトムよ、あとはお前に頼む。わしは一兵卒として、お前の下につく。わしに命令するんだ、戦えと」

 村長は、そんなことを言ったのかもしれません。


 ともあれ、これまでの誤解を償うかのように戦う村長の姿が、ホルスやポトムたちの背景に垣間見えます。村長と断言はできなくても、そっくりのキャラですね。


 粋な演出です。


 つまりこの戦いを機に、村の統治体制に世代交代が起こったわけです。

 村長が退き、ポトムが後を継ぐ。

 やはりあの“村民裁判”でホルスに冤罪を着せた事実、そしてドラーゴを重用していた事実をすれば、村長の引退は村政そんせいの安定のために適切な施策でしょう。

 世襲制の是非はありますが、ポトムなら善良な独裁者になれるかもしれません。

 あるいはこの戦いを教訓として、村民全員参加の議会制民主主義に移行したかもしれませんね。


 これもある意味、ひとつの革命ということかもしれません。


 ホルスはあくまで戦士であり、村のために主力兵器を操って戦う。

 しかし村の政治的指導者はポトムとなり、ホルスはポトムの意思に反しない。

 そういった役割分担の関係を構築して、戦ったことになります。

 軍事と政治が一体化せず、一線を画して、軍事は政治に従う。

 そんなシビリアンコントロールの萌芽が、“最後の戦い”には見られます。


 『ホルス……』は、“近代戦争”の一つの典型も、キッチリと描いていたのです。




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