第29話【地下一階】

 階段を下りた先の暗さを見た時に回れ右すればよかったのだが、ぼくは特に何とも思わずに進んでしまった。病院も節電くらいするだろうと軽く見たのだ。廊下は暗く、ところどころの非常口を示す照明が白と緑にぼんやりと光っていたが、せいぜいがそのあたりの壁を照らす程度にしか役立っていなかった。見渡した暗く先の見えない廊下の中で、一つだけ光の漏れている部屋があった。白い。非常灯の白より、彩度のない白だった。ぼくはその白の許に進んだ。廊下は静かだった。上階にあるはずのロビーの喧騒とは、まるで世界線ごと違う場所に来たようだった。実際そうなのかもしれないと思った。人の気配がない。無機質な物しかない中で、ぼくだけが異質だった。なぜ生きた人間がここにいる?

 白い光の部屋は、中も白かった。がらんとした何もない部屋の中央に、白い布のかけられた台があった。布は大きく、裾が床すれすれまで垂れさがっていた。台の上に載った何かを覆っていたが、何かは明らかに横たわる人の形をしていた。ああ、やっぱり。病院というのは、おしなべて低層階の奥まった場所に霊安室があるものなのだ。

「ご家族ですか」

 急に傍らから声をかけられて、ぼくは飛び上がりそうになった。人がいるとは思っていなかった。どこから出てきたのか、忽然と台の横に人が立っていた。黒いスーツを着た青年だった。ネクタイも黒い。艶消しの黒を全身に纏った青年は背が高かった。葬儀場の人だろうか。いいえとぼくが首を横に振ると、そうですよね、と青年は知っていたかのように頷く。

「身寄りのないご遺体ですからね」

「……あの、すみません。迷い込んでしまったようで」

 ぼくがしどろもどろに言い訳すると、青年は感情の動きの見えない凪いだ目でぼくを見た。

「責めてはいません」

 確かに声に責める調子はなかった。寧ろ、目の前の遺体にもぼくにも何とも思ってない、区別がついているのかすら怪しい。人と言うより、物に話しかけるような口調だった。ぼくは居たたまれなくなって、あのう、と言葉を続けた。

「家族ではないですけど。手を合わせていってもいいですか」

「どうぞ」

 青年は場を譲るように一歩引いた。ぼくは遺体の正面に回り、俯いて目を伏せ、そっと手を合わせた。宗教的な作法なんて分からない。ただ行きあっただけの、この世ではもう話すことのない人に、言葉にはせず非礼の詫びと挨拶をする。顔を上げると、青年はまだそこにいて、遺体とぼくをじっと観察するように見ていた。

「すみません、お邪魔しました。これで失礼します」

「はい」

 最後まで青年は淡々としていた。ぼくは一礼して霊安室を出て、もと来た道をたどり階段を上った。上階のロビーは、何事もなかったかのように喧騒にあふれていた。この下には、身寄りのない、名前も知らない人がいる。この喧騒を形作る人々は何一つ知らないまま生きていて、今度はぼくがこの中で異質なもののような気がした。

 ――なぜぼくはここにいる?

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