第23話【レシピ】

 壁一面の百味箪笥は黒ずんで、表面に張られたラベルはかなりの部分が剥げ落ち文字の判読もしづらかった。土間から板間に直接上がれる構造になっている店で、百味箪笥の足元に座った小柄な老婆は、ごりごりと薬研で木の根とも茎ともつかない茶色の何かを擂り潰していた。

「ちょっと時間かかるからねぇ、くつろいでてねぇ」

 ゆっくりとした口調で、老婆は細い両腕で重たげな薬研を転がす。隅の火鉢の上には薬缶が置かれ、口からぽぽぽと湯気が出ていた。ぼくがこの店に入って、店主の老婆と少し話をして、おもむろに彼女は百味箪笥をいくつかすっすっと開き、見分けがつかない木の根とも茎ともつかない茶色の何かを秤にかけ始めたのが先ほどの話。表には何某漢方薬局などと看板がかけられていたが、それもお世辞にも読みやすいものではなかった。長年風雨に晒されてきたことはよく伝わってきた。

「漢方は初めて?」

「初めて……ではないと思いますけど、こういうのは初めてです」

「そうよねぇ。今時、もっと気が利いてて手早く飲める粉のとかが、病院や薬局でもらえたりするものねぇ」

 老婆は細かくなった茶色の木くずのようなものを乳鉢に移した。薬研やそれを支える舟のような容器に残った分も、刷毛で丁寧に落として乳鉢に入れる。乳棒と乳鉢は揃いで瑪瑙のものだった。石の模様が見事でつやつやと磨き上げられ、鉱物好きな人が見れば飛びつきそうだ。しかしその内側はよく使い込まれかつ清潔で、無数の小傷にも汚れひとつない。薬研で細かくされた木くずのようなものたちはさらにじっくりとかき混ぜられ、そのたびに乳棒と乳鉢の擦れる音――高さと低さの際立つ不思議な音色――が、コオ、コオ、と歌うように鳴るのだった。

 混ぜ終わった木くずたちは、隅の火鉢の上で温まっていた薬缶に移動した。薬缶は小ぶりなもので、蓋を開けて直接木くずたちが注がれていった。ぽぽ、と湯気が押し出されるように口から飛び出た。老婆は乳棒と乳鉢を土間の流し台で洗い、布巾で丁寧に拭いた。薬研と舟のような容器も布巾で拭い、それが終わった頃合いに薬缶を火鉢の上から取った。そこでようやく、ぼくが座った傍の卓袱台の上に湯呑が載せられ、薬缶から出てきた独特な香りのする茶が、湯呑の上の茶漉しを経由して注がれたのだった。

「熱いから、少し冷ましてからの方がいいわよ」

「はい」

 薬缶から急須に、また茶漉しを通して茶が移されるのを見届けてから、ぼくは湯呑に口を付けた。甘いような辛いようなしびれるような、これと一つに絞り切れない味がする。見た目はほうじ茶とあまり変わらないが、味は似ていない。ただ、体の中が温まるような気がして、嫌な感じではなかった。

「こういうのって、なにかこう、秘伝のレシピみたいなのがあるんですか」

「あら、そうでもないわよ」

 老婆は、やはりゆっくりとほ、ほ、と笑った。時間の流れがゆったりとしている。茶を淹れるまでの動作は、物慣れて手際が良く、少しも退屈さは感じさせなかったことから思うと、なんだか不思議な気がした。

「確かに、私は作り方や配合を教わったりはしたけれど。それは、もっと昔の人がたくさん考えて、編み出したものなのよ。それを昔通りにしているのが私で、もっと気が利いて手早く飲めるようにしたのが、病院や薬局でもらえるっていう、それだけ」

 老婆は空になったぼくの湯呑に、急須からおかわりのもう一杯を注いだ。薬缶で沸かされたお湯は、ぴったり湯呑二杯分のようだった。

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