第19話【クリーニング屋】

 年季を感じさせる家屋の一階は、屋号が書かれたガラス扉を構えたクリーニング屋だった。入ってすぐに横に長いカウンターがあり、その横には出窓に面した形でテーブルのようにも見えるアイロン台が置かれていた。傍らには天井から吊り下げられた業務用のアイロンがあり、道路からアイロンをする様子が窺えるようになっていた。今はアイロン作業は行われておらず、金属のスタンドにアイロンは重たげに鎮座し、アイロン台は薄っすらと焦げ付きのある顔を天井に向けていた。

 カウンターには中年を過ぎたであろう女性が座っていた。白髪交じりの黒髪をひっつめて、染みがあるがよく使い込まれたふうの割烹着を着ている。ぼくがガラス扉を押し開けると、つんとして仄かに甘いドライクリーニングの溶剤の香りが鼻を突いた。カウンターの向こう側のラックには、所狭しと透明のカバーをかけられた洋服たちが並んでいる。雑然として統一感のない洋服たちを背景に女性はゆったりと立ち上がり、いらっしゃいと微笑んだ。初めてなんですけど、いいですか。どうぞどうぞ、お洋服はここに広げちゃってくださいね。カウンターの上にぼくが服を出していると、慌ただしい様子でガラス扉が再び開かれた。

「すみません、今朝ワイシャツ出したところなんですけど、これからどうしても必要になって。仕上がってますか」

 店内に入ってきたのは、若い男性だった。中肉中背の、どこにでもいそうな男性だ。サラリーマンふうの、ぱりっとしたサックスブルーのストライプのシャツにスラックス姿。急いでやってきて暑いのか、スーツのジャケットは手にかけていた。今着てるそのシャツじゃだめなんだろうかとぼくは内心思ったが、カウンターの女性は嫌な顔ひとつせず愛想よく、少しお待ちくださいねとぼくにも一言断り、奥を覗いた。

「あなた。今朝の神田さんの、仕上がってる?」

 男性はどうやらこの店では常連客のようだった。そういえば、店の表にはワイシャツスピード仕上げ承りますとか書いてあったから、この神田なるサラリーマンもそれを利用しているのかもしれない。

 女性の呼び声に次いで、奥からのっそりと男性が現れた。女性より少し年上だろうか、さらに白髪が三割増しだ。こちらも作業着のようなシャツにチノパン、エプロンという出で立ちで、ところどころに染みが浮いている。手にはワイシャツを持っていたが、そのワイシャツはどう見ても洗い上がったばかり、水こそ滴ってはいないがあからさまにへにゃりと垂れていた。それを見た神田なるサラリーマンは、がっくりと肩を落とした。

「いや、そりゃそうですよね、まだですよね……無理言ってすみません、また今度取りに来ます」

 そのまま出ていこうとするものだから、女性は慌てて呼び止めた。

「待って、神田さん。どうするの? そのシャツで行けるの?」

「いや、どっかで新しいのでも買います。今朝急に、同僚が事故で亡くなって、その通夜だっていうもんですから。白いの、全部こっちに出しちゃってて」

「待て」

 急に、低いがよく通る声で、店主らしき男性が言った。ぼくも神田なるサラリーマンも、そして女性もびっくりして男性の方を見た。男性はいかにも寡黙そうだった。動きを止めたぼくたちにそれ以上何かを言ったり構ったりする様子もなく、出窓の前のアイロン台に移動する。パチン、と音を立ててアイロンのレバーを上げた。店内の照明が、それに合わせてぱかりとひとつ瞬いた。

 男性は濡れたワイシャツをアイロン台の上に広げた。傍らに置かれていた霧吹きを数回吹きかける。水を含んでいるスポンジに無造作に指を突っ込み、その指でアイロンの表面をはじくように触れた。とーん、という不思議な音がして、僅かな湯気とともに水が蒸発した。

 そして男性はアイロンを持ち上げ、台の上のシャツに当てた。シャッ、シャッ、と軽い動きをするたびに湯気が上がり、皺くちゃで濡れていたワイシャツが見る見るうちにぴんと伸び、乾いていく。身頃、襟、袖口は丁寧に、カフスはタックを崩さず真っ直ぐに。最後に釦を留め、前身頃を下にして畳む。先ほど取ったタックから辿るように袖の中ほどで折り返し、両側と下半分を折り返す。再度前身頃を上にしたら、見事な黄金比の長方形に襟がぴしりと立った、清潔感にあふれて誇らしげな顔をしたワイシャツが現れた。

 一連の流れを、ぼくたちは物も言わずにただ見ていた。男性は畳んだワイシャツを神田なるサラリーマンに無言で手渡した。彼は目を輝かせて、ひしりとそれを抱きしめた。

「あ……ありがとうございます!」

「うん」

 店主の男性は不愛想に、しかし満足そうにひとつ頷いた。神田なるサラリーマンはしきりに頭を下げながら店を出ていった。それを見送り、店主の男性は何事もなかったかのようにアイロンのレバーを下げ、また奥に引っ込んでいった。女性は、ふっと息を漏らして笑った。

「もう、お父さんったら。照れ屋さんなんだから」

「はあ……?」

 ぼくは女性の言うことがいま一つ良く分からず、首を傾げた。女性はカウンターに置きっぱなしだったぼくの服を手繰り寄せながら言った。

「ワイシャツの仕上げなんてね、普段はプレス機で一気にやっちゃうのよ。でも、まとめてだからワイシャツが全部洗い上がってからなの。わざわざ手作業で一枚仕上げるところなんて、私も久々に見たわ」

「はあ」

「さっきの人、よく来てくれる人だから顔見知りでね。せめて大変なときくらい力になりたいって思ったんでしょうねぇ」

 女性は微笑みながらレジにぼくの洋服のクリーニング代を打ち込んでいった。合計料金を支払って預かり票を受け取り、店を出る。出窓の硝子越しに外から見える業務用アイロンは、金属の光沢をつやつやと光らせながら、主の次の仕事を待っているようだった。

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