第9話【神隠し】

「ここのお社にね、こないだ行方不明になった近所の娘さんがいらしたんですって。なんでも一ヶ月もここに隠れてたそうよ」

 ベンチに座った如何にも噂好きそうな女性は、散歩中の柴犬のリードを片手にぼくにそう語った。竹林の茂る山に面した広場は、ベンチと公衆トイレだけが設置されていて、竹林の方にひっそりと埋もれるように朱塗りの鳥居があった。そこからは石段が斜面を上っていくようになっており、その先にお社があるらしい。ぼくははあ、と気のない相槌を打った。

「特に素行が悪いとか、そんなこともなかったのにねえ。反抗期ってやつかしら」

「……家に居づらかったんじゃないですか」

「あそこの奥さんもご主人も、いい人なんだけれどねえ」

 近所の人にはいい顔をしていても、家族にも同じとは限らないじゃないかと思ったけれど、下手に議論をするだけ無駄だと思ってぼくは口をつぐんだ。知らない家庭事情を邪推しているのは、この女性もぼくも同じだ。せめてぼくは、推測を不用意に確定的な言葉にしたくなかった。

「家から近いのに一ヶ月も見つからなかったなんて、神隠しじゃないかって話になってね。まあ、今時そんなことがあるのかって思ったけれど、本当に見つからなかったのよ。警察もこの辺を巡回していたのに、不思議よねえ」

 柴犬が話には飽きたと言わんばかりに黒い目を細め、リードをぐいぐい引っ張ったから、噂話はそれでおしまいになった。女性は広場を出て犬についていく。その姿が見えなくなってから、ぼくは鳥居の方を振り返った。石段の奥は、竹林の影になってよく見えない。神隠し云々は眉唾だとしても、なんとなく見つかりにくそうな場所だとは思った。食事とか排泄だとかの問題はともかくとして、隠れるには丁度いい。こういう場所に祀られる神は、親のところに帰れとか説教臭いことは言わないかも知れないし、案外その子とは気が合ったんじゃないだろうか。神隠しも、悪いことばかりではないのかも。

 不意にがさ、とベンチの背後から音がした。反射的に振り返ると、さっき女性と散歩していた柴犬が笹の茂みから顔を出している。女性の姿は見えない。犬だけでこっちに逃げてしまったのだろうか。女性が追いかけてくるかもと思って、ぼくは犬の方に手を差し出した。

「帰ってきちゃったの? あんまり勝手な事すると、怒られちゃうよ」

 ぼくが言うと、犬はふんと鼻を鳴らして、笹の葉をがさがさ言わせながら出てくる。リードどころか、首輪までなかった。どれだけ器用に振り切ってきたんだろう。茂みから出ると、犬はぶるぶると身体を振るって身体についていた枯れ葉の欠片を飛ばした。ぼくからは逃げる様子もなく、ただ丸い茶色の目でぼくを観察するように見ていた。

 ぼくははたと気づいた。さっきの柴犬じゃない。首元の毛はふさふさと綺麗に流れ、首輪をしていた跡がない。目の色がさっきの犬より淡い。野良犬というには毛並みが整っている。ぼくの視線が変わったのに勘づいたか、犬はふいと鼻先をぼくから逸らし、軽やかな足取りで鳥居の方に向かっていった。我が家のように石段を駆け上がっていく犬の足取りを、ぼくは呆気に取られて見送ることしかできなかった。

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