第8話【金木犀】

 金木犀のような香りがした。振り向いてもそこには黄色の小さな花の姿はない。

 秋の香りと象徴されるような、ひんやりと冷たく仄かに甘い水のような空気。人恋しさとかいうのは分からないけれど、この甘さはぼくの奥にある記憶とか、それに結び付いた感情とか、そういったものの澱に静かにガラス棒を差し込み、そうっとかき回していく。ぼくの中で舞い上がったそれを意味もなく抱きしめたくなるのが、人恋しさとやらなのかもしれない。

 大事なものを大事にして何が悪いのだろう。ぼくという一つだけの身体、一つだけの存在ではその望みすら叶えることが難しい。もう手の届かないところに、会うことすら難しい場所にいる。ぼくがひたすら自分勝手に、自分の許に集めて、まとめて抱きしめてしまえれば、それはぼくにとってどんなに心地がよいことだろう。けれどたぶん、そうしたところでぼくの許には留まってくれない。ぼくの許を去ってしまうだろう。

 ならば、ぼくが先に去ってしまえばいい。ぼくをこの秋の香りの中に薄く薄く溶かして、秋が来るたびに、ぼくのことをぼんやりと、名前も顔も声も何もかもが見えない紗の向こうに思い出せばいい。ぼくひとりのための秋ではないのだから。

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