の音

 ちらちらと灯火が陰をつくり出す。こわばったツメ先で、引っぱった。ユピータのヒゲを。つんつんとして張りがある、まだ若々しいヒゲだ。


「なにすんだよっ」


 かっかとする彼は、舞踏会のときに見せた、余裕ある貴公子然とした姿にはほど遠い。出会った当初抱いた警戒心は、無用なものだったのだ。……ぼくは、ひとの本性を見抜くのが下手らしい。

 いや、ユピータやマーヤのように、上流階級として過ごすのならば、ぼくのような一般猫いっぱんじんに見抜かれる程度ではいけないはずだ。

 そう。別にぼくが鈍いわけじゃない。

 くすぶった気分を具現するかのように、何かを燃やす匂いがする。


「おい。焦げてるぞ」

「にゃ?」


 思わず、言葉にならない声がもれた。

 匂いだけじゃない。火のはじける音。顔のふちに触れる熱。


「にゃ、にゃ──にゃんじゃこりゃあ!?」


 黒猫のぼくだって、ヒゲは白い。だがいま、そのヒゲは鈍い茶色をまとった姿となっていた。ユピータの体毛とお揃いだね、なんて考えている場合じゃない。そもそも彼の毛色はもっと元気があり、ムラがなく、炭のような匂いはしない。火は上へ、ぼくをからかうように大きく小さく姿を変える。

 きれいとは言いがたいが、こんなに近くで炎を感じるのは初めてだ。


「消せ、消せっておまえ!」

「ああ、みず、水っ!!」

「いや吹き飛ばせって」

「ユピータがやれよ!」


 なんだろう、この進んだようでいて何も進まない会話は。ぼくらは、いざという時何もできないのかもしれない。

 こんなに赤い舌を見せ合って騒いでいるのに、熱は少しも引きやしない。


「あ、抜けた」

「生え代わるのかな、これ!?」

「それより、火が屋敷に燃え移ったらどうするんだ」

「そんなこと言ったって……」 


 そう思いながらふたりで騒ぎあっていると、火が消えた。ぽたぽたと、闇のなかへ何かが垂れていった気がした。空気がぼくのヒゲにのしかかっていく。

 消えたのは、ヒゲに移っていたものだけじゃない。ユピータのもっていた松明の火ですら、だ。困ったことに、ここに月明かりは差さない。この廊下をつなぐ道の窓は閉ざされていた。

 ぼくはすぐさま前足を地面に伸ばし、前傾姿勢を取った。屋内の視界が悪いときは、とくに足元を気をつけなくてはいけないからだ。壁を伝うという方法もある。だがこのように老朽化し、はじめて訪れた場所では、さすがに危ないだろう。


「見えるか……?」

「まあ、ある程度は」


 肉球のはしで触れる。ヒゲの熱は引き、焦げた感触はない。安全そうだと判断し、目を上下に動かす。ぼくは一般の黒猫と同じように、他種の猫より夜目が利く。混血だから。耳の方は、音楽分野に才能を発揮することが多いソマリ種である、彼に任せれば良い。


「そっちは?」

「液体の垂れる音がする。雫ほどの大きさか……ものを伝って垂れてくるというより、高いところから落下しているようだな」

「雫がぽたぽたしている、ってことで良い?」

「ぽたぽたというか、ひゅっと駆けくだるように落ちている」

「え、ぼくには分からないんだけど」

「そりゃ、聴こえなくたってしかたないだろ」

「で、どこから聴こえる?」

「右の方、だな。俺から見て」


 それはそうだ。しかし高いところから落ちてきているのなら、ぼくの目に少しは写るはずだ。ユピータの言うとおり、彼の右耳は探るような動きで小刻みにひねっている。

 ぼくはその付近にそっと近づく。ツメ先が床をこする。なるほど、たしかにわずかばかりの光が上から下へと降っている。何度も、何度も。床に達したとき、光が花のように散った。

 そろそろと雫の軌道を逆さになぞり、ぼくはその光のもとへ目を向ける。目を細め、焦点を絞っていく。木の節目もようが、視界で揺れる。きっとそういう効果があるのだ。動いてなどいない。だけど、動いて見える。

 ぼくは見つけた。板のつなぎ目に、まるい溝があったのだ。

 それは円よりも歪んでいて、目をそらしても、どこまでもぼくの視界についてくる。溝がぼくの視線を引き寄せるのか、ぼくが惹きつけているのか。まるで見つめ合うようだった。

 光の加減からか、溝の近くには、周囲よりも黒のうすい範囲があった。シミだろうか。四つの曲がった隅がある。四角というほど整えられてはいなくて、だけど何かを模したような意味のある形だと感じた。

 ──袋のねずみ、ということわざを思い出した。ねずみというのは、架空の存在だった。しかし近年、ねずみ……鼠と称される生きものの骨が発掘された。

 鼠だ。その溝を囲むように広がったしみは、鼠のようだった。絶滅したといわれる、珍味の存在。世間でよく与太話として出やすい話題の一つだ。

 ぼくは食べたことがない。マーヤやユピータもそうだろう。なぜならば鼠肉はその味だけではなく、毒性が高いという特徴もあるからだ。

 なぜ、なぜまたも鼠が? 

  

「おい、おかしくはないか」

「何が?」

「光が一筋もないのなら、音は聴こえても見えるはずがないだろう」

「……そうなのか?」

「おまえ、いま何を見ているんだ」


 ぼくは鼠を見ていた。シミと溝によってできた産物が、ほんとうにぼくの知る鼠なのかが知りたかった。

 以前、ユピータと出会った夜会で目撃した、鼠なのかどうか。落ちくぼんだ瞳。毛の固まった体。あの時、鼠はひどく大きかった。シミは、あの鼠の三分の一にも満たない大きさだ。


「なあ、ユピータ」

「なんだ」

「ほんとうに、あの資料は置いていっても良かったのかい」

「……持ってくるべきだったと言いたいのか」

「うん」


 ソマリ特有のさらさらとした髪をかき上げ、彼はひどく顔をしかめた。


「おまえ、気付かなかっただろ」

「え?」

「あれは、鼠の書いたものだよ」

「な、なんでそんなことわかるんだよ」

「あの言葉が、トリガーだったんだ」


 そうして彼は。──“忌々しい猫”、と口にした。


 唸る。唸る。風か木張りの屋敷かは知らないが、いまぼくらのいる場所そのものが、揺れていた。

 どうしてだろう。どうして彼は、禁則事項を破るのだろう。彼は、ぼくらに警告したではないか。

 決して話してはいけない。何の言葉が引き金となって、呪いが起こるかわからないのだから。

 ひとりになってはいけない。ひとりでさまよったとして、このうち捨てられた屋敷へ助けにくる者など、頼りにはできないのだから。

 光を失ってはいけない。たとえ、備えをもって来たとしてもだ。屋敷から帰ってくる者はみな、必ず光を持っている。それは松明だったり、マッチだったり、蝋燭だったり。

 これらのことを守ったからといって、助かるわけではない。だからこそ、守るべきだ。

 そう、彼は言っていた。なぜ忘れていたんだろう。ぼくは頭の中の霧が晴れたと信じていた。だが、晴れたのは霧だったのか。ぼくの中の疑いや警戒心ではないか。


 ほんとうに、ぼくは闇のなかにいるのだろうか。そもそも、目の前にいる彼は、あのユピータなのだろうか。霧。しっぽ。ツメ。明かり。燃えたヒゲ。

 雨のように、小さな小さな疑問が、違和感が積みかさなっていく。答えは隠されたまま、何かが消えていたことに気付く。


 鈴の音が聴こえ始めた。激しく鳴いている。りんりんりと小刻みに、まるで誰かが揺らしているかのように。りんりんり、と何度も。

 

「ユピータっ!?」

「きゅう」


 あれが、鼠なのだろうか。大きな鈴が見える。ぼくが潰したはずの、あの銀の鈴。猫の肉球に収まる程度だった。だが、いまそれは。首だろうか。四つ足を生やす胴体と剥き出しの前歯が通った細長い頭部をつなぐあたりに、ぶら下がっていた。


「きゅうう」


 のどを締め付けるように、それは鳴く。鈴の当たる胸ばかりが激しく揺れているらしく、それは膨れ上がった胴体と疲労まみれの形相で成り立っていた。

 どこまでがほんとうにあったことなんだろう。どこまでがほんとうに見えていたものなんだろう。

 りんりんり、りんりんりとぼくに問いを投げかける鈴。ユピータは、どこだ?

  

 星が光った気がした。ぼくは屋敷の前にいた。隣にはふわふわと毛を飛ばすソマリの彼がいる。

 ひどく身体が凍え、吐く息は白に染まっていく。ソマリの彼は口をつぐんだまま、ちっとも動かない。いや、しっぽの先は苛立たしげに地面を叩いている。


「にゃああ」


 鳴いている。大きな何者かが、鳴いている。砂ぼこりが鼻をくすぐり、ぼくはただその光景を眺めた。

 鈴がこぼれ落ちていく。ぼくの肉球から、すべっていく。金属とツメの擦れ合う音が、耳に不快さを与える。

 それは小さな鈴で、ふまれたような痕があって、そしてまたたびのような匂いがした。ぼくが、あの屋敷の中で味わった匂いが。


 ぼくにとっての癒しがつまったような、芳しい香りが漂ってきた。しっぽが左右に揺れてしまう。耳が忙しなく動いている気がする。

 

「まっマーヤ!」

「ひどいわ。私を置いていくなんて」

「怪我は? ねえ、どこも痛くない?」

「まあまあね」

「無理してない?」

「だ、大丈夫よ、落ちついて」

「ほんと!? 良かった……!」


 思わず、マーヤの華奢な肩に手を置いてしまった。にゃっ、と可愛らしい悲鳴が漏れたので、張り手を覚悟した。しかし、不思議なことにマーヤは抵抗する素振りを見せない。


「そういえば、マーヤってどこに居たの?」

「え?」

「なんだ、お嬢さんとはぐれたのか」


 マーヤは、ちょこんと首をかしげた。


「お嬢さん、いったん屋敷に入っただろう? こいつと共に」

「いや、おまえも」


 一緒に入ったじゃないか、と言いかけた。マーヤの声と被ってしまったが。


「いえ、急にふたりの姿が見えなくなって……ひとりで追いかけるのは怖かったから、来た道を引き返していたところです」

「そうか……」

「そういえば、鈴の音は聴こえなかったけど、大きな鈴は見ましたよ」

「ほんとうか!?」

「ええ、立派な金の鈴で、鮮やかな緋色……でしたっけ。血のような色の糸が、垂れていました」


 寒気がする。いや、寒気とは違う不安な感触が背を走る。空にはひとつの星もなかった。しかし、きらきらと輝くものが頭の隅をよぎる。

 ちりん、りぃんと。深い余韻を含んだ鈴の音が、どこかで鳴った気がした。

 

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