にゃらば、鈴を


 りいん、りいんと鈴の音が転がる。鈴の上部に開けられた穴には、鮮血のような緋色の紐が通っていた。


「ようやくだ、ようやく……!」


 灰色に身を包んだ小男は、ほくそ笑んだ。忌々しい猫どもに“鈴“を付けることができそうだと、彼は愉悦を噛みしめていた。短く痩せ細り、まさに貧相な尾っぽは、彼の喜びにはピクリとも反応しなかった。小男の身体は既に、限界を迎えていた。


「よくやった、さすがだ」

「お前ならできると思っていたよ」

「ああ、そうだろうとも」


 つぎつぎと、うす暗い一室に賞賛の言葉が湧く。だが、月がかたどるのは小男の影のみだ。小男は満足げにうなずき、その場を去ろうとした。そのとき。


「にゃあ」


 鳴き声が聞こえた。

 それは陰だった。音もなくその得体の知れぬものは、彼の背後にいたのだ。

 そして闇に満ちた陰は、小男に覆い被さった。その陰が発した音を聴く前に。彼のやや楕円形の耳は闇へと消えていた。身体は崩れ──いや、月によって照らされた小男は、まるでちぐはぐな装いだった。もとからそうであるかのように。

 彼は、鋭い前歯を持っている。しかしそれは歪み、口端はのびきって歪んでいる。

 小男のひとつひとつの部位が、消失していく。疲れきった彼の身体は、「死にたくない」とすら発さなかった。


「にぃぃい」


 低く唸ったそれの胸元に。一筋の月光を受けて輝く、金の鈴があった。それは辺りを見渡しもせず、ゆっくりと気配を消した。次の獲物を捜して。

 部屋には、小さな鈴がひとつ。取り残された。




 星が瞬いた気がした。

 ひゅう、と口笛のように細く凍てついた風が横切る。目の前には老朽化した、まさにお屋敷と呼ぶにふさわしい、厳かな建物があった。


「ここが噂の……」

「おい!」


 ぼくは思わず、声を発してしまった。それを咎めるために彼まで声を発しては、この沈黙を保ってきた意味がない。

 マーヤだけは彼の言いつけを守り、口を閉ざしたままぼくらに視線を寄越した。


「マーヤ。君ももう喋ってもいいんじゃない?」

「だっ、……ダメだ」

「ぼくもこいつも喋ってるし、マーヤだけ我慢するのっておかしくないかい?」

「だ、だがなぁ」


 ある言葉を口にしたものは呪われる。だが、それが何かはわからない。だから、何も話すな。……彼がここへ連れてくるときに発した警句だ。しかし、当の本人が禁忌を犯したのだ。まあ、きっかけは偶然ぼくが作ったのだが。


「ねえ、大丈夫だって」


 星のように白がまばらに散る紺のブラウスに、蒼のフレアスカートを着こなしている、いつもより世間に溶け込んだ格好のマーヤ。いや、浮いているというわけではないが、ふだんの彼女は上流階級らしい出で立ちなのだ。

 ああ、今日の彼女の服装は、都会では滅多に会えぬ星空のようだ。素敵だね、と声をかけたのに、彼女はにこりともしない。

 ロシアンブルーで白い毛並みを持つ彼女は、夜になると、体に纏う陰影がやや鈍る。初めて見た無表情さとあいまって、ミステリアスな趣のあるマーヤにどぎまぎした。


「おーい」

「……」

 

 とにもかくにも、ほかの男の言葉を律儀に守るマーヤ。悔しくなったぼくは、彼女をあの手この手で喋らせようとした。猫じゃらしを取り出し、構え……たのだが。


「マーヤ?」

「にゃあ」


 彼女がそんな声を出せるだなんて知らなかった。彼女の甘ったるい息がぼくのヒゲに引っかかるような、そんな声。


「えっ……ま、待ってよ」


 ひらり、蝶のように足音を立てず屋敷へと向かう彼女を追いかけるので、手一杯だった。なんだか最近。ぼくはマーヤに置いて行かれてばかりだ。猫じゃらしは置いていくことにした。

 奇妙なことに、マーヤはいつまでも音を出さずにいる。いや、器用だと言うべきか。

 そういえば、ここまでの案内を務めていたユピータの姿が見えない。マーヤの下から上まで伸びた背筋に見とれていたから、つい彼のことを忘れてしまった。

 

「あれ、ユピータは……?」

「ここにいる」

「あ、良かった」

「どうせ彼女の尾に魅入ってたんだろ」

「か、彼女じゃあないよ!?」

「……いや、カノジョってそっちじゃねーよ」


 どこかで声が上がる。

 これだからお前は、と。続けてため息が吐かれた。からかうユピータに、食ってかかろうとぼくは周囲を見回す。


「お前までどっか行ったのか!?」

「魅入ってた方は否定しないのか」

「いや、違うから! ……ユピータ、お前どこに居るんだよ!」

「ここに?」


 言うなり、彼はぬっと姿を現した。澄んでいたはずの空気が、その瞬間、濁ったような気がした。空が光った。

 何の混じりけもない真っ暗な夜に。マーヤの服の模様とは違う、本物の星が輝きはじめた。

 


「どうやら、噂はほんとうだったみたいだな」

「え?」

「おい、ここに連れてくる前に言ったろ」

「ちょっと待てよ……」


 そうそう、たしか例の警句の他に色々と聞かされた記憶がある。

 曰くその屋敷。一定の距離まで近づくと、突然星空が現れる。曰くその屋敷。入った先のところどころで鈴の音が鳴る。曰くその屋敷。ひとりを残して、訪れる者すべてを呑み込む。


「……だったっけ?」

「まあ、そうだな」


 ユピータは曖昧にうなずき、言葉を続ける。彼の言葉の調子に合わせるように、彼のふさふさとしたしっぽがはねる。ぼくは本能に負け、ついつい視界の端のそれを追った。


「おい、聞いてるのか。おい」

「あいてっ」

「全く、見境ねえな……」

「何だよその言い方は! しっぽがあれば誰だって追いたくなるもんだろう?」

「ねーよ」


 ぺしん、としっぽで冷たくあしらわれた。だが、ふさふさなので痛くない。ふさふさしっぽの素晴らしさがわからないなんて、これだからユピータは。

 ユピータにかまっていたせいで、マーヤの方が疎かになってしまった。


「あれ、マーヤは!?」

「聞いてなかったんだな。お嬢さんはもう入っちまったよ」

「それって危なくないか!?」

「ああ。だからはやく行こうぜ」


 ぼくたちが肝試しに来たこの屋敷は、築百年ほどだとか。ここには月明かりしか届かず、他の光源はユピータが確保している。暗がりの中、ひとり動きまわるのは……どう考えても良くない。


「こら、俺を置いてくなっ。はぐれたらどーする!」

「ユピータなら大丈夫だろ?」

「お前がダメだろ!!」




 こうしてぼくとユピータは、屋敷の雰囲気とはほど遠い会話を交え、中へと足を踏み入れた。


「想像通りだな」


 まるで映画のセットのようだ。大きな窓からは暗い暗い空がのぞいている。歩く度、木の軋んだ音が屋敷中に響いた。

 チラリと反応を伺えば、彼は、同意するかのように首を動かす。

 無人だった屋敷には、マーヤを入れても三猫さんにんしかいない。だからか、普段はわからない異様な静寂さが、この場を支配していた。

 毛がぞくりと逆立つ。


「にゃくしょんっ」


 胸元をかいてしまったせいか、毛が散ったようだ。気が散る。


「そういえば、お前と出会ったのはいつだっけ。うーんと、まだ涼しくなる前だよな。一年は経っていないはずなんだが、どうだろ……?」


 ずっと黙っていると何だか気まずく、ぼくは当たり障りのないことを話し続けた。なるべく屋敷内に響くような大きな声で。そのせいか、のどが渇く。

 外見から想像したよりかは狭いところだ。だが、暗がりのせいか、天井がひどく遠くに感じた。


「マーヤはどこだろう」

「……」

「おい、ユピータ」


 その間。ユピータときたら懲りずに黙りこくっていた。よく見ると、彼のヒゲはかすかに揺れている。どことなく、青ざめている気がした。

 マーヤは、シルエットすら見つからない。上の階にいるのだろうか。廊下の突き当たりで立ち止まった。遅れて止まったユピータの像を、窓から差す月光が優しく撫でていた。

 黒猫のぼくは、よく夜がお似合いだと言われる。だが、ほんとうに夜映えるのは、茶ソマリのユピータのように、毛がふわふわな自然に優しい色合いだろう。

 マーヤがどこに居るのか分からないというのに。ぼくの心はなぜか穏やかだった。いや、穏やかと言うよりむしろ……多幸感があった。

 二階へ向かおうと、ユピータに声をかけた。

 

「なあ。おい」

「……聴こえるんだ」

「え?」

「聴こえるんだよ、鈴の音が!!」


 彼は叫んだ。

 ぼくはふわほわとした頭の中で、しっぽのことを考えていた。ふさふさのしっぽが、目の前で揺れている。苛立たしげに床を叩くそれを追いかけた。追いかけて、追いかけるうち、高い音低い音の鈴が交互に鳴り始めた。

 激しくツメの擦れ合う音。二重、三重と広がっていく世界。


「鈴?」

「お前も聴こえてるんだろ!!」


 低くはあるが、伸びの悪い音……ではなく声が何やら騒いでいる。意味もなくのどの奥がゴロゴロと鳴り、地べたに寝っ転がった。


「お、おい……どこへ向かう気だ!」


 床は埃が多いけれど、綺麗に整えられている所もあった。四つん這いになって進むうち、埃のないやけに綺麗な階段をのぼっていた。手すりはでこぼこに歪み、一段一段はまともな長方形を保ちやしない。

 久々の4足歩行に、全身が気を遣っている。後ろではまたも騒がしいものがついてきているが、ぼくはそれへの注意はしなかった。

 猫というものは、おのずと列を作る習性があるのだ。だから、前にも後ろにも見知らぬ何かが居たとして。それは、猫に違いない。ぼくは頭の隅でそんなことを考えていた。


「にいぃい」


 いらっしゃい。と歓迎するかのような、おどろおどろしくも親しみに溢れた唸り声が上がった。そのしましま模様の猫は、この部屋の主なんだろう。

 気付けば、どうも上の階の見知らぬ所に来ていたらしい。間違えてしまったと、引き返そうとした。


「何戻ろうとしてんだよ!!」

「ンにゃ……?」

「そこにお嬢さんがいるだろうがっ」


 柔らかいふさふさのしっぽにぶつかった。その根もとである何かが、ぼくの首根っこを掴まえた。

 ぼくは昔から、ここを掴まれるのが苦手だった。


「おじょ、さ……オジョウサン」

「にいぃ」

「そこの化け物の、その隣に!!」


 ああ、言われてみれば。そこには部屋の主の他に、純白の猫がいた。部屋の主を化け物とは失礼だ。そう思ったが、その白猫から目が離せなかった。


「……きれいだ」


 そっと、その白猫に近付いた。直感が、その猫は女性だと報せる。きれいだ、と再び口にして、彼女の鼻先にぼくの鼻先でキスをした。

 親愛のつもりだったのに、ひどく照れくさかった。


「うおっ!」


 とたん、視界の何もかもがはじけ飛んだあと、ちょっとの浮遊感を味わった。印刷されたらしい紙が、周囲に散らばっていた。

 なぜかぼくは。またも別の部屋を訪れているようだ。




 いや。


「招かれている、のかな」


 霧が晴れたような感覚だった。

 この部屋は、どうも地下にあるらしい。壁には窓という窓はなく、出入口らしい穴が開けてあるのみだ。


「はー、正気に戻ったか」

「ユピータ!」

「うるせえな、おい、なんか踏んでんぞ」

「えっ?」


 よく見ると足元には、鈴が転がっていた。冷え冷えとするような銀色で、ちんまりとしたサイズの鈴が。


「これが、音源だったのか……?」

「そういえば、鈴がどうとか言ってたね」

「お前も聴こえてたんじゃないのか?」

「わからないな」

 

 だが、危機は去ったということだろう。鈴はこの屋敷にまつわる噂のキーアイテムだったはずだ。ぼくは安堵した。


「マーヤはどこだろうね」

「とにかく出よう……と言いたいとこだが」

「ん?」

「お前はさっき、なんと言った」


 それが何のことを指すのか、少し考えて分かった。招かれた、と言葉を返す。


「なぜそう思った?」

「……最初に、大きな猫がいたろ。彼もしくは彼女が招待したかったのは、この部屋だったのかなと思って」

「あの化け物、猫だったのか……」


 だったも何も猫そのものだ、と反論しようとしたところで、顔が火照った。あの時はぼんやりしていて深く考えなかったが、マーヤ似の誰かに、ぼくはうっかり鼻先のキスをしてしまったのだ。

 冷静に考えれば、マーヤ以外の猫に鼻先のキスをしたのだ。ああ、どうしよう。


「照れてる場合でも余計なことの心配してる場合でもないぞ」

「わ、わかってるさ」

「それより、何か手がかりを捜そう」


 この部屋は怪しすぎると、ユピータは周囲を見回す。そして床に散らばる書類のひとつを拾い上げた。


「無人の割には、綺麗すぎる」

「そうだな」

「この紙なんて、明らかに現代のものだろう」

「ちなみに何て書いてある?」

「読めねえのか」

「異国語ってことならわかったよ」

「どうも、調査報告書っぽいな」


 そう言って、彼は拾い上げた書類と関連のありそうなものを、つぎつぎと集めていった。ぼくもユピータの指示に従い、書類を集める。

 書類は多くあったが、ユピータ曰くどれも書き手は同じ存在らしい。種類を大別すると、研究日誌・ふつうの日記のふたつに分かれるようだった。


「おかしいな……」

「どうした?」

「どれも、まるで猫らしくないんだ」

「でもお前が読めるなら、猫の言語なんだろ?」

「たとえばな、この調査報告書、何について書いてあると思う?」

「鈴じゃないか? 添付されている画像が、たったいま踏みつぶしたものの原型にそっくりだ」

「じゃあ、何のための鈴だと思う?」

「さあ。趣味とかそういうのだろ」

「あのな」


 "忌々しい猫"につける鈴……と彼が言いかけたところで、大きな猫が襲いかかってきた。いや、猫によく似た何かだった。


「うわああっ」

「おい、応戦するぞ」

「武器なんかないよ!」


 ユピータはポケットに手をやった。武器を取り出すつもりか。

 そもそも化け物に対応できるものなんてあるのか、と叫ぼうとした、と同時にスプレーから白い煙が噴射された。


「にいぃぃ」


 苦しそうな声を上げ、化け物はしぼんでいった。独特な匂いがしたから、ユピータの護身用対またたびスプレーが火を噴いたのだろう。


「ん? ということは今のは……」

「またたびから出来た化け物、ってところだな」


 なぜわかったのかと問えば、またも調査報告書を差しだされた。先ほど話していた、鈴の画像が添付された書類だった。


「これがどうかした?」

「それとか、あとはこれとか……によると、その画像の鈴は猫のネックレスとして販売される予定だったらしい」

「へえ」

「問題は、実際の鈴の性能だ。その鈴には、またたびが仕込まれているらしい」


 またたびは、気分を落ちつかせる時などに用いられる植物だ。乾燥したまたたびの実を砕いた『またたび粉』という商品が薬品コーナー販売されている。


「たしか、またたび粉の過剰摂取で事件が起こってから、またたびに関する法律は厳しくなったよね」

「ああ。まさに毒にも薬にも、だからな」

「じゃあ、大丈夫じゃないか?」

「これは、そういった法整備が行われる前のものだろう。明らかに、危険な量のまたたび成分が記載されている」


 ということは、道中のあの感覚は、またたび酔いの症状だったのだろうか。



「よし、とりあえず書類は置いていこう」

「え、なんで?」

「やぶ蛇になる可能性が高い。俺たちは噂を確かめにきただけで、それ以上のことはやる必要がない」

「うん、その通りだ。それよりマーヤを見つけないと!」



 こうしてぼくたちは、謎の部屋をあとにした。

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