猫の鈴がにゃる
誰がために鈴は
第一日目
はじめに
諸君らに言っておこう。私は諸君らの成し遂げるべきことを成し遂げた、偉大なる人物であることを。これから私が述べるのは、偉大なる発明への軌跡の研究日誌である。
諸君らが逃避ではなく抗うという選択を取らせるために、私は生涯を研究に捧げる。
そう宣言したかつての私が誤りではなかったと、諸君らはこれを読み認めることになるだろう。
その愚かさが、これからの私たちの世を創り上げることに貢献できたのならば。そのとき初めて、私たちは分かり合えるはずだ。
第二日目
研究を開始
ああ、実績ばかりを重視する輩は、「はじめに」を読み私を愚かだとあざ笑うのだろう。愚かは貴様らだ。とにかく、諸君。私の研究は始まったばかりだ。この研究にはえらく時間を要する。
なぜならば、効果を検証するにも、研究に必要な資料を収集するにあたっても、緻密な計画によってことを進めねばならないからだ。
大まかな構想はあるが、なにぶん動かせる数が少ない。いまのところはその用意だけで時がずいぶんと経ってしまうのだ。
いまは多くを語れない。とにかく、後日の日誌に期待して待っていてほしい。
第三日目
問題なし
いまはとくに報告できるようなものはない。期待して待っていてほしい。
第二十四日目
好機あり
建前の研究の方に、出資者になると名乗りあげてきた方がいた。ぜひに、と返しはしたが、そのために懐が痛んだ。研究のためとはいえ、少し事を急ぎすぎたような気がする。
しかし、着実に実現へと近付いたはずだ。研究開始から早四日目が経とうとしている。身内や同期の目をかいくぐって行動するこの日常に、はやく慣れてしまいたいところだ。
第二十五日目
問題あり、だろうか
先日述べた件の出資者には気をつけろ、と同志に忠告された。私の信頼する方からの言葉だ。疑ってかかるのは失礼だが、件の出資者は警戒しておこう。
一瞬、同志は、自ら出資を名乗りあげる存在がいるような、素晴らしい私の研究に嫉妬したのかとも考えた。だが同志は古くからの付き合いだ。嫉妬などという醜い感情を抱くのなら、もっと以前から抱いていたに違いない。
私が深く考えすぎたのだ。
第二十六日目
順調だ
多少の懸念はあったものの、気前よく出資してくださる方で助かった。この本当の研究内容には気付いていないようで、たいへん都合が良い。
第二十七日目
問題なし
研究は進んでいる。資金はあるから、次は資料集めの手立てが必要だ。
──昔から、私たちの一族の中で伝わる教訓話があっただろう。『猫に鈴をつける』……この寓話の意味を、諸君らはどう教わっただろうか。
『忌々しい猫には逆らうな』。そうだろう、諸君らはそうすり込まれてきたはずだ。私たちは集ったとて、烏合の衆に過ぎないと。そう揶揄する輩もいた。だが、やつらの天敵はその『烏』ではないか。
やつらは見下すことでしか、自己の価値を高められないのだ。そう、私たちは本来、集うことでやつらに優ることができる。烏は賢い。それはここ数日接する中で、実感してきたことだ。
烏の知性すら読み取らぬやつらに、どうして自己の指標で、私たちが測れる程度と高をくくるのか。
やつらは協調性がない。仲間など、やつらの中の概念にはない。やつらが集団として活動するのは決まって、弱者に仕立て上げた存在をいたぶるときだ。
そう。寄り添って考え続けられる私たちこそ、上に立つべき存在なのだ。
第四十六日目
雲行きが怪しい
順調だ……といいたいところだった。だが、出資者である烏と何者かによる取引を、偶然にも目撃した。私の名を口にして、何やら息をひそめ話し合っていた。
彼らは互いに背中合わせでやりとりをしており、もしも烏の方に見覚えがなかったら、私は見逃していたことだろう。
私は変装を取って思わず問い詰めたくなってしまった。だが、それではこれまでの労力によって築いた環境が泡となって弾けてしまうことにつながる。
私はなんとか平静を装って通り過ぎたが、前歯の歯ぎしりは止められなかった。ともかく、まずは同志に話を聞きに行くことにする。
第五十七日
無題
なかなか同志と時間が合わない。なぜだ。最近は離れて暮らす妻。なんだかよそよそしい。研究せねばと思うが、頭が上手くまわらない。烏の金に手を付ける気が起きない。
第六十日目
無題
スランプというやつか。本日はこれ以上述べることはない。いや、できない。
第七十日目
無題
空白
第七十一日目
連絡
上司からの連絡が来た。貴様だろう。この地へ追いやったのは。同志とは連絡取れず。
第八十二日目
二度目の連絡
ふたたび上司からの連絡が来た。憤りがゆっくりと息を吹き返し始めている。研究への情熱が、上司への感情で塗りつぶされてしまいそうだ。
第八十三日目
妻の子
妻が懐妊したらしい。めでたいことだ。ああ、めでたいことだ。相変わらず、烏は金を出し続けている。
第九十七日目
同志からの連絡
どうも、私のことを心配してくれていたようだ。それより妻の方を気遣ってやれと言って切った。さぞかし私の対応に気味悪がっていることだろう。
ああ、めでたいことだ。めでたいことに水を差そうとは思わない。めでたいことだからだ。
第百一日目
鈴
日誌を振り返ったが、いままで私が何を書いていたのかよく思い出せない。ところどころに墨が引かれているし、うまく読めない。
そのうちのひとつに、どうも私は、『猫に鈴をつける』という寓話について書いていたようだ。
そうだ、鈴だ。猫に鈴を付けなくてはいけないのだ。
やつらの枷となる鈴を。
第百十一日目
片が付きそうだ
最近、色々と上司が相談に乗ってくれる。彼女は案外悪くないのかもしれない。だが、男を見る目は随分悪い。
烏が、またたびというものを教えてくれた。気分が安らかになりそうだ。だがその製造方法を知って、吐き気が止まらない。
……いや、もう吐くものさえ口にしていなかったな。
第百十二日目
おこがましい情緒
やつらに下に見られる程度のお前たちは、なぜ私を巻き込みたがるのか。上司よ、貴様は恋仲の者をつなぎ止めることさえできぬ、哀れな女だな。
第百十三日目
研究
研究のたびに邪魔が入る。おかげで日誌にすら研究についてまともに書けない。
第百三十四日目
音
不安感を催す、不快な音がした。
第百五十日目
離婚
妻とは和解した。別れることに対しての合意は得た。もういい。かまわないでくれ。あいつとお前がどうなろうが、私には関わりのないことだ。……上司よ、貴様は己の職務を全うしろ。私は研究者としてこの場にいる。
第百五十四日目
引っかき傷
壁や窓、そして扉の外側に。鋭いツメで描いたような細く小さな引っかき傷を発見した。
第三百六十七日目
日誌
近ごろは、日記よりもこちらの方に取りかかることが多いように思う。研究がはかどっているというのは良いことだが、身に覚えのないことまで記述されているのはどういうことだ。
そういえば、烏が来た。奇妙なものを渡された。それの見た目はさらさらとつぶの細かな砂のようだった。
前にも渡したはずだ、そう言われた。
第三百八十四日目
雨
久々に、雨の恵みが訪れた。もう長いこと口にしていなかったそれが、私のなかの幸福感を呼び覚ました。雨の雫はさらりと舌触りが良く、しかしどことなくだらりと引きのばされたような感触だった。
味わって食した。
頭がかき混ぜられ、無理やりに働かせられるような、妙な快感が身体の中で踊った。
ぼんやりとして見上げていたからか、空には大きな……やつらの顔があった。
第三百九十二日目
残り数日で、二年が経つことになる。研究は依然進まず。だが私は、近付いているはずだ。私の理想に。
第四百四十四日目
やつらだ
やつらが来た。やつらがすぐそばにいる。なぜだ。
第四百四十五日目
何のことだ
私はいったい何を見たのだ。わからない。傷が増えている。はじめは部屋の外から。それは徐々に内側へ侵し始めている。
寒い。ときおり前歯がかみ合わない。ものがのどを通らない。
烏が来た。久々だった。なにかを渡された。前にも渡しただろう、といわれた。
烏は信用ならない。だが、もらえるものはありがたくもらっておくべきだ。妻はそう言っていた。いまはどうだろう。彼と仲良く暮らしているのだろうか。
子供はいないと言っていたな。
まあ、些細なことだ。資料集めは順調で、金の出所もある。烏は信用ならないやつだが、今のところ私への害を与えては来ない。
第五百六十七日目
原材料
ああ、やはりだ。またたび……烏から手渡されたこの薬が、いちばん効き目がありそうだ。
これは幸運なことだ。万ある可能性を検証せずに、たった数千の検証でこれを発見できたとは。
最近、いつ寝ていたかわからない。とにかく区切りが付いたところで、この日誌に書き込むようにしている。
だから、今日が研究開始から五百六十七日目ということは真実なのだ。
原材料については発見できた。こんどは、実用に適したまたたびを育てなくてはいけない。
第八百九十二日目
虫
育てているまたたびのひとつに、虫がタマゴを産み付けていた。取り払おうかとも思ったが、それもまた実験だと、見守ることにした。
第九百三十三日目
癒し
栽培というのは、こんなにも心を落ち着かせるものなのだと、初めて知った。今日もまた、またたびに変化は見えない。
虫が産み付けられたまたたびも、順調に育っている。
第千七百一日目
またたび
そろそろ収穫しても良さそうだ。
第千七百十五日目
収穫
筆を握る間も、またたびの心地よい匂いが絶えず鼻腔を刺激する。どれも美味そうだったが、一口含んだとたん吐き出してしまった。のどの奥がじくじくと痛む、ひどい味だった。なるほど、烏に与えられたものは都合よく加工されたものだったらしい。
またたびの劇味のせいか、視界がときおり歪む。今日は来客があった。玄関の方でツメをひっかく音がしたのだ。そんな素行の悪い者は、やつらに違いない。
第千七百十六日目
再会
懐かしさよりも忌ま忌ましさを抱く同窓生が、なぜか我が研究所を訪れていた。黒いポロコートを着こみ、口もとは黒布で覆われていた。風貌はだいぶ変わってはいたが、直感的に同窓生のひとりだと悟った。
同窓生は厚かましくも我が研究所に上がり込んだ。
ああ、ツメを壁に押しつける音が、ここまで届いている。
第千八百五日目
増える訪問客
とうとう私の研究所には、数百ものねずみが住み着いてしまった。みな黒ずくめの格好を好んでいる。彼らは手伝おうとはしないが、私の研究する様子をじっと見ていた。
その瞳ひとつひとつには、奇怪な穴が空いている。そこから涎のような粘つきのある不透明な液がたれ下がっているのだ。
聞こえる。滴る音が聞こえる。この耳に届いている。雨のように、しとしとと。
研究は進んでいる。
第千九百日目
羽
見覚えのないものが落ちていた。それは端から端まで見事な黒に染まっていた。先端へいくにつれ徐々に細くなっており、何かの一部だったと推測できる。
欠点があるとすれば、粘つく液によって気味の悪い形をしていたことだろう。
第三千日目
ああ、ついにここまで。ついにここまで完成した。明日、とうとう発売までこぎ着けられそうだ。十五年。長い月日だった。もう私は、我が生の四半をこの研究に費やした。
ああ、報われるべき時が来たのだ。忌々しいあの者たちに、一矢の報いどころか千の矢の罰を。
明日。私は最後の作業を行う。
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