ぼくとマーヤ
旧星 零
にゃんと豪華客船で
その赤の色は
「まあ、素敵!」
シルエットがくっきりとした真白なしっぽを左右に揺らし、マーヤが感嘆の声をあげた。ぼくたちの視界を、透きとおった海と抜けるような蒼空が占めている。
揺らめく波を見て、ぼくの後ろ脚が笑い始めた。自然と内股になって、ツメ掛けにすがる姿勢になってしまう。その姿をごまかすため、ぼくは海の匂いを嗅ぐふりをした。
「塩だ」
「潮ね」
「嫌いなわけじゃないんだよ?」
「そうなのね」
わかっているわ、と彼女は歯を見せた。後ろ脚もそうだけど、芯まで通ったまっすぐな姿勢がまぶしくて好きだ。
「マーヤ、怖くないの?」
「どうして?」
「だってここから落ちたら……」
「ふふ、大丈夫よ」
「うわっ!?」
彼女は怖がりねえ、とからかうようにぼくの背を突いた。手入れの届いたツメが、布越しにぼくを刺激する。落ちはしなかったが、背筋がひんやりとした。
ぼくは朋友のロシアンブルー、マーヤとともにとあるパーティーに参加していた。このパーティーは、海上を渡る豪華客船内で開催されているものだ。
「まったく、無理して付き添ってくれなくても良かったのに」
「それは……」
ほかの男とめかしこんだ君が出かけていくのなんて、気に食わないからだ。……意気地なしのぼくは、そのことばを毛玉のように吐き出すことすらできない。
彼女は羽毛のような白い毛を、耳のてっぺんから後ろ脚のツメ先までもつ、純粋な白猫だ。ロシアンブルーは格式高い種で、彼女はもちろん名家の猫なのだ。
そう、マーヤはお金持ちのお嬢様かつ美猫だから、たくさんの男が近寄ってくる。混血で黒猫のぼくより条件の良い男は、その中に大勢いるだろう。
友という立場のままでも良いから、マーヤのそばにいたかった。
ヒゲを撫でるぼくを、マーヤはふしぎそうに見ている。大きな琥珀色の目には、いま景色とぼくだけが映り込んでいる。
それがたまらなく嬉しくて、しっぽが自然と丸まる。
「今日も……いや今日は一段と上品な服を着こなしているね。エメラルドのブローチもよく似合ってる」
「ありがとう」
彼女の胸元で鮮やかにきらめくエメラルド。それは代々、彼女の家で受け継がれてきたものと聞いたことがある。
このパーティーでは、マーヤはご両親の代理で来ているから、ふだんより気合いの入った服装だ。
「あなたのモーニングコート姿って、なんだか新鮮ね」
「鏡で見たら、服に着られている感じがよく分かったよ」
「私は、似合っていると思うわ」
「そうかな、ありがとう」
しっぽのまわりの布の感触に、どうしても慣れない。
付添だからと、マーヤの家から服を貸してもらった。似合うと言われたのは嬉しいが、うっかり破れてしまったら弁償額はどうなるのか。
ぼくはいまから、ヒゲを大切に扱うべきだろうか。売り物として真っ先に取られてしまうのは、ヒゲと言われているから。
「そろそろ、会場内に戻りましょう」
「うん」
中に戻ったところで、パーティーの主催者が話し掛けてきた。主催者はほかの三毛猫と同じように優男風の猫で、中身の方もそれに準じている。
三毛猫というやつは男が少ない種だから、女性の扱いは上手いことが多いのだ。
「やあ、こんにちは。楽しんでいますか?」
「ええ。先ほど彼と海を眺めていましたの」
「それはいい」
機嫌が良さそうだ。丸めている彼のしっぽが、少しだけのびている。
三毛男はにこやかに、マーヤとの距離をつめていく。一方マーヤは、外向きの口調で対応している。心がもやもやとするが、マーヤを見るかぎりでは彼の望みは薄いだろう。あまり見苦しい真似をしたくないと、ぼくはマーヤのそばで二人を見守った。
「では、またあとで」
「ええ、またあとで」
話し終えたところで、マーヤとぼくは食べものをつまんだ。さすが豪華と付くだけあって、ふだんは中々食べられないものや、見たことのない料理が、テーブルに盛り付けられていた。
それに、床には踏み心地のよい赤い絨毯が敷かれている。
ほっそりとした前足に巻かれた腕時計に視線を落としてから、マーヤが不意に言う。そして、飲みかけのミルク割カクテルをテーブルに置き、立ち上がった。
「ちょっと部屋に戻るわね」
「んぐ、ならぼくも一緒に」
「まだ食べてるじゃない」
「あ、待って!」
彼女はあっさりとぼくを置いて、廊下の方へ進んだ。牛肉を呑み込みぼくは、慌ててマーヤの白いしっぽを追った。
「追いついた……」
「べつに追ってこなくても良いのよ?」
「ひとりじゃ心配だから」
「そう」
信用されてないのかしら、なんてマーヤは笑う。ヒゲが唇に合わせて上下する。そのマーヤの背後、重厚なソファの隙間から光が見えた気がした。
やけに気になったぼくは、後ろ脚を折り曲げてソファの下をのぞき込んだ。かすかに規則正しい時計の針のような音がする。
「これは……」
「ちょっと、服が汚れるわよ?」
「まさかっ」
「どうしたの?」
「マーヤ。このパーティーの責任者かスタッフを呼んでくれないか!?」
映画で見たことがあるが、まさかほんとうにこんな形をしていたとは。しっぽがぴんと立った気がする。
その光っている何かは、箱だった。配線がところどころむき出しになっており、中央にはディスプレイがある。
画面に浮かぶデジタルの数字。それは腕時計の針が進むたびに、少しずつ減っている。
立ち上がり、マーヤに向き直った。
毛の逆立つ感覚がする。
「爆弾がある、かもしれないんだ……」
「ば、爆っ」
「落ち着いて。場を混乱させないためにも、まずは責任者かスタッフに」
「え、ええ。そうね」
マーヤの耳が動揺をあらわにする。
ぼくたちのやりとりで、
勘違いなら良いが、もしこの箱が爆弾なら……。
ぼくが考え込むうちに、人払いが行われていたらしい。ぼくの前には、マーヤと茶トラのスタッフがいた。
「不審物とのことですが……」
「このソファの下です」
彼女に連れられてやってきたスタッフは、ソファの下を見て顔色を変え、急いであの三毛猫男を呼んだ。
「爆弾……いたずらじゃなかったのか」
「いたずら?」
「実は、数日前に『爆弾を仕掛ける』という内容の手紙が来ていたんです。ただ、それを盾に要求があったわけではないので、ただの脅しだろうと気にも止めていなかったのですが」
「警察は、いつこちらに到着するのですか?」
「ここは沖の方ですから、すぐには来られないと……」
まずい。こうして話している間にも、時間は確実に減り続けている。
「いま、何かできることは?」
「警察に、不安を煽るような行動はするなと釘を刺されました。いま、スタッフたちが避難準備を開始しています。準備でき次第、避難するようアナウンスをするつもりです」
船内には、数百の猫がいる。そのすべてが避難するために、どれだけ時間がかかってしまうのだろうか。
「お二方とも、この件は口外しないでください」
「ええ」
「わかりました」
「不安でしょうがひとまず、部屋でお待ちください」
後ろ脚の肉球の感覚が、消失したように感じつつも、同じようにショックを受けているだろうマーヤを支える。そうして部屋に戻ろうとしたとき、奇妙な声が聴こえた。
『待て』
耳がぴく、と動いたことを自覚した。
空耳だろうと、聞き流す。
『待て。このまま多くの命が犠牲になっても良いのか』
思わず足を止めると、その声は勢いを増して言葉を発し続けた。
『私は、爆弾の解体方法を知っている。見ることも触れることもできないが、この声に耳を傾けるお前に、指示を出すことができる』
「いったいどこから……?」
「どうしたの?」
マーヤには聴こえていないようだった。
『ここにいる。このエメラルドの中に私はいる』
「マーヤ、そのブローチって魔法でもかかっているのか!?」
「そんな話、聞いたことがないわ」
『魔法などという怪しいものではない』
「あ、でも。我が家の守護者が、この宝石の中に眠っていると聞かされたことはあるの」
守護者。よく分からないが、少なくともこの声は、マーヤの味方ということだろうか。
『時間は有限だ。はやく爆弾のある場所に引き返せ』
「……マーヤ、そのブローチ借りても良いかな?」
「どうして?」
「あー、信じてもらえるかはわからないけど、爆弾が解体できるかもしれないんだ。そのブローチから声が聴こえて、自分は解体方法を知ってる、って」
「なるほどね、じゃあどうぞ」
「信じてくれるのか、いまの説明」
「時間がないんでしょう? 助かるかわからないなら、少しでも助かる行動を取るわ」
まっすぐにこちらを向く彼女は、まだ顔を青ざめさせながらも、その瞳は凛としていた。
『賢明な判断だ。さあ、はやく引き返せ』
「その代わり。私も付いていきますからね」
「ええっ!」
『はやく戻れ!』
ブローチにせき立てられながら、ぼくたちは再びソファの前に来た。主催者の姿はない。ソファのそばには『壊れているので使用できません』という文面の注意書きが添えられていた。隅に添えられたにぼしマークは、ご愛嬌だろうか。
マーヤとともに、慎重にソファを動かした。
「まずどうすれば……」
『邪魔は入らないだろうな?』
「ええ、おそらく」
『工具はあるか?』
「工具、ですか」
「私が借りてくるわ」
『お嬢さんを待つ間、お前は爆弾の詳しい構造を教えてくれ』
「はい。えっと、上部が開いている箱形で、配線がむき出しになっていて、中央にはタイマーがあります」
『やはり、か』
「え?」
『なんでもない』
その後もブローチの質問に答えながら爆弾を観察していると、マーヤが戻ってきた。タイマーは残り15分だ。
「ありがとう、マーヤ」
『よし、ニッパーを取り出して、太い配線を探せ』
ニッパー。使う機会が来るとは思わなかった。ぼくのような一般人にとって、ニッパーとは特殊な用途の道具だから。そもそも、ニッパーっていったい何からできているんだろうか。
『集中しろ』
まるで路線図のように入り組んだ配線は、色も大きさもバラバラだ。ブローチに確認し、1本の配線を切りとったとき、放送が流れた。
「パーティーに参加されている皆さま。トラブルが発生しました。安全のため、スタッフの案内に従っての移動をお願いします。お部屋には戻らず、スタッフに従って移動してください。繰り返します──」
避難準備が完了したらしい。迅速ではあるが、時間が圧倒的に足らない。やはり、ぼくが解体するしかないのだ。
『足を止めるな』
「……はい」
ただ配線を切る。その行為に乗客とマーヤとぼくの命がかかっている。ひどく現実味のない状況なのに、目の前の爆弾が、現実だと突きつけている。同時にマーヤと
放送が終わったあと、慌ただしくなった空気を耳で聴き取りながら、ぼくは順々に線を切っていった。だが、タイマーは止まる気配がない。
ぼくは初めてなんだから。初めてだから。そう言い聞かせ、ぼくはやかましい脳内の雑念を抑えつける。
そして、2本の配線がのこった。
胸に光るブローチに、問いかける、
「──赤と青。どちらを、切れば良いですか?」
『お前が選べ』
「ぼくが?」
「何をしているんですか!?」
ブローチの突きはなしたような言い方に驚いていると、あの主催者の男がやってきた。三毛の毛並みの良さはうしなわれ、駆けずり回っていたらしいことがうかがえる。
しっぽは興奮からか、やけに上下していた。
「まさかとは思いましたが、ここにいたなんて」
「ごめんなさい、私が彼に頼んだんです」
時間がない。主催者の男はマーヤが足止めしている。今のうちに、作業を続けなくては。……だが、どちらを切る?
分からない。ありえない。だけどこれは、現実だ。
『お前が、決めろ』
タイマーは一分を切った。震える爪に力をこめ、配線にニッパーを差し込んだ。
「青、だっ!!」
ピィィー、という電子音が流れ、とっさにぼくはマーヤを抱きしめた。鈍い音を立て、
場違いだとは感じながらも。彼女とぼくのヒゲがもつれ合って、ひどくくすぐったいと思った。
「たすか、った……?」
ひどく長い間、静寂が流れていたような気がする。まぶたを開けると、前足の中にはマーヤがいた。彼女の真っ白なまつげをひとつひとつ数えられるくらいには、ぼくらは近かった。
少しとおくに、主催者の男が呆然と立っていた。
「あ、ごめんっ」
『安心するのははやいぞ。もう避難できるんだろう、早く行動しろ』
「そ、そうですね。マーヤ、避難しよう」
彼女の手を取って立ち上がり、主催者のもとへ歩んだ。半ば無意識で彼女を庇おうと動いたが、意識して彼女の体に触れると、なんだかとても恥ずかしい。だが急に振り払うのは変なので、肉球に汗をかきながらも、彼女の肉球をぐっと握り続けた。
やわらかくて、でも硬くて。彼女のそのものだと思った。
「ねえ」
「何?」
「どうして青にしたの?」
ふと、気になったのだろう。琥珀色の好奇心に満ちた瞳を向けられ、しばし言葉がつまった。好奇心は猫をも殺すという。では、彼女は自らを殺してしまえるほど、ぼくの答えに興味津々なのだろうか。
いや、きっと違う。
「それは」
「それは?」
同じような抑揚で、はっきりと。マーヤは復唱した。そよ風がぼくらの鼻先をくすぐる。その一瞬。何かを期待するかのような色が、彼女の瞳に宿る。
「……赤は」
赤。そういえば彼女の頬は、ふだんよりも赤みがかっている。どうしてだろうと思いつつ、その潤んだ瞳の期待には添えないと直感する。それでも答える。マーヤが待っているから。
「赤はマグロの色だから」
「そう」
マグロ、マグロね、とそればかりを繰り返しながら、彼女は目を細めていった。それは微笑というより、つまみ食いをする子猫に対するようなものに見える。
食いしん坊ね、なんてことを代弁するかのような、呆れた視線をよこされた。マグロ。そうだ、言葉にしてから気付いたのだ。赤はマグロの色でもあった。
「どうせ死ぬなら、マグロを食べてからが良かったな~って」
それとなく言葉を繕う。
赤と青の配線を前に、咄嗟に思い出したのは『運命の赤い糸』というものだった。──『運命の赤い糸』。それは相性の良い
もしここで死ぬ運命なら、そもそもぼくがマーヤと結ばれる運命なんてあり得ないのか。そう思った。見えもしない糸が、途切れてしまうのが、嫌だった。
「そうなのね……」
マーヤはため息をこぼし、ぼくから視線を逸らした。
青を切った理由。
それが赤い糸を切りたくなかったから。なんていえるわけなかった。運命も何も、友人より先に進む努力も、勇気もないぼくが。『運命』なんて口にするのは、将来的にそうなりたいと思っていることを認めるということだから。
「もっとロマンチックな理由かと期待してたのに」
「命の危機の前に、そんなこと考える余裕なんてなかった」
「それもそうね」
マグロを連想する余裕はあったのよね、なんて皮肉られた。彼女が皮肉るなんて、滅多にないことだ。
マーヤなら、どっちを選んだの、と。そう聞いたら
そして滑らかで冷ややかな、エメラルドのブローチを取った。
「ブローチ、ありがとう」
「どういたしまして」
ブローチはもう、うんともにゃあとも言わない。というより、聴こえなかった。
その後、マーヤと救命ボートにのったぼくは、しばらくのあいだ腰が抜けていた。後から襲ってきた爆弾解体に対する衝撃と、いまにもボートが転覆するのではという恐怖からだった。
「あのときはとても頼もしかったのに……」
マーヤの『頼もしかった』という言葉を耳にして、のどの奥がごろごろと鳴った。
『単純だな』
彼女の胸のブローチが、そう囁いた気がした。
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