第10話 イチゴ事件2-1

「支倉君?」


 その声に顔を上げると、そこにはさっき会った『誰か』がいた。


「あ、うん、なに? ちょっと今忙しくて」


 思い出せずそう笑顔で言えば、彼女は不満そうに顔を歪ませて、圭樹の背中に乗る『もの』を見た。


「……妹さん? って聞いたことないけど」

「うん、僕も無いね」

「あ、日本舞踊の」


 その声に彼女もピクリと眉を動かす。


「……もしかして、五十鈴川さん?」

「あ、石井さんね。うん、そう苺が草履の鼻緒を切っちゃってね」


 ようやく名前を思い出して口にする圭樹なのだけど、石井はそれどころではないらしく、背中の苺をじっと見つめてた。


「……うそ、本当に五十鈴川さんなの? 双子の妹、とか」

「生き別れで居たらきっと人生楽しいね」


 ニカッと笑えばその顔は確かに苺で、石井はもう一度「うそ……」と呟いた。


「そんなわけで、ちょっと急いでるから、ごめんねっと」

「わぁ、痛っ! 急に動くから頭打った! ってか、簪がなんか刺さった!」

「はいはい、ちゃんとそれも直すから」

「なんか帯も緩い」

「ドロップキックなんてするからだよ」

「あれは正当防衛!」

「……それ、違うから」


 そんな会話をしながら通り過ぎる景色に、石井は一人唇を噛み締めた。




「うーん、シンプルなのしか無いね」

「いいよ、それで。圭樹、そろそろ交代だよ?」


 苺に言われ、時計を見れば確かにその長通りで圭樹は苦笑する。よもや、苺に言われてしまうとは。


「それじゃ戻るけど、苺はもう」

「あたしも戻る」


 手伝わなくてもいいよ、と言おうとしたのに先回りされて、またも苦笑いだ。


「みんな疲れてるもんね。それに、他にも水屋お見舞いがあるかもだし」


 ニカッと笑う苺に、圭樹は「きっとあるよ」と、苺の頭にある少しずれた簪を丁寧に戻した。




「にしても、お腹空いたなぁ」と呟きながら、苺は茶席の用意をする。


「お昼食べてないの?」


 そんな水屋仲間からの言葉に苺は、「……運動したから」なんて答えるから、益々意味不明だ。


「えと、まだお見舞いのクッキー残ってるよ?」

「うーん、後で食べる。もう人が座ってるし」と苺は菓子器を手にした。


 水屋からお茶席に。「どうぞ」と苺がお菓子を差し出せば、お客は「頂戴いたします」とそれを貰う。いつもなら、上座から菓子器を回すのだが、今日は苺を始めとした弟子さん達がお菓子をお客様に配った。


「あれ?」と思わず声を上げてしまったのは、目の前の客の顔を知ってるから。


「うふ、ちょっと私も圭樹さんのお茶を頂きたくて」


 そんな杏の言葉に「楽しんで」と苺も笑った。

 そして、またも見知った顔に「ん?」と苺が止まる。

「……なに?」と素っ気なく答えたのは石井だ。

「あ、うん。楽しんでね」と、彼女にも同じように声をかけた瞬間、『ぐぅー』と鳴ったのは苺のお腹だ。


「ぷっ、なんなの? 五十鈴川さんったら」


 と笑い始めた石井に、まわりのお客もクスリと笑う。


「え? お腹空いたら鳴らないの?」


 その反応にキョトンとしながらそう答える苺に、杏が「鳴りますわね」と微笑んで手にお菓子を持った。


「はい、あーん」

「あーん」


 口の中放り込まれたのは、自分が運んできたお菓子だ。お菓子はずっと同じものではなく、無くなれば次は違うものといった形である程度バリエーションがあった。

 薄茶には落雁のような干菓子を出されることが普通だが、今回のように大寄せの席では薄茶のみのため主菓子を出すこともあるのだ。

 そして、今食べたのは──。


「唐衣、美味しい♪」


 外郎生地を薄く伸ばしたのものに、餡を包んだ唐衣だ。

 目の前でこんなにも美味しく食べてる姿を見れば、誰だって食べたくなる。だから他の客は出された菓子に手を伸ばすのに、一人だけ、納得出来ずに声を上げた。


「なっ!? そんな食べ方って」

「折角だからお茶もどうぞ、苺」


 そんな彼女の声を遮って、圭樹はお茶を苺に勧めた。

 すいっと出される茶碗に、苺の背筋がピンの伸びる。そして、並び座る客に向いて、綺麗なお辞儀をした。


「お先に頂戴いたします」


 その仕草に、客の背中まで伸びて彼らも皆頭を下げた。

 それを見て、苺は圭樹を正面にしお辞儀をしてから茶碗を手にする。茶碗を胸の高さまで上げて感謝を。それから左の手の上で茶碗を回して、優雅に口に運んだ。


「お服加減はいかがですか?」

「美味しくいただきました」


 そんな会話ののち、二口で綺麗に吸い切った。さらに飲み口を指先で拭き、その手を懐紙で拭けば完璧だ。

 まるでお手本のような流れに、誰もが魅入る中、一人だけぎりっと奥歯を噛みしめる。その音が聞こえたのか、杏はクスリと笑った。


「苺ちゃんはお腹まで正直ですわね」


 本来の茶席なら、杏だとしてもこんなことは言わない。けれど、大寄せの席だから和ませるように話を振ると「本当にね。皆様もどうぞお手で。すぐにお茶もご用意しますから」と圭樹が言えば、張りつめた空気も一気に和み、誰ともなく菓子に手を伸ばした。

 水屋では菓子の用意もあるけれど、大勢の客に対応出来るよう、お茶も点てそれを運ぶ。そして、一席終われば茶碗を洗ったりと仕事が途切れることはない。

 そんな流れもお茶の時間(3時)も過ぎれば、ピークも越して人は少なくなっていた。


「……お腹すいた」


 そんな独り言に「ふふ」と笑う声があるから、振り返ると、


「苺ちゃん、あと少しですわ」


 杏がニッコリと笑って立っていた。


「杏ー」

「ふふ、これ、水屋お見舞いですわ。皆様で召し上がってくださいませ」

「ひゃー! 沢山!」と、一番に目を輝かせたのは勿論苺だ。

「あらあら、苺ちゃんのはこちらですわ。皆様と一緒ですと、他の方の食べるものがなくなってしまいますもの」


 そう言って杏が笑えば、他のお弟子さん達も笑って、苺も「えへっ」と笑った。


「それじゃお友達も来たし、苺ちゃんは上がって?」


 確かに、目の前のお菓子にとびつきたくなるのだけど……。


「えと、そろそろお茶碗下げなきゃだから、それやってからにする」


 だって、まだ圭樹はおもてなし中だ。その姿に少しだけ申し訳なく思うからそう言うと、お弟子さんも「うん、お願いね」と快く答えてくれた。


「えと、だから」

「待ってますわ。お菓子持って」


 そんな杏の言葉に「うん!」と上機嫌で答えて、苺はお茶碗を下げに行った。

 一席終わればまた一席。それもあと少しだ。そう思うだけで、誰も気を緩ませてしまう。裏の水屋ではすべての茶碗を洗うことは難しい。着物姿の苺だったから、ずっとそこ迄が彼女の仕事だったのだけど、休憩してお菓子を食べるという後ろめたさに、「向こうまでもってくね」と建屋の中に用意された水屋まで持っていくことにした。

 お茶碗を持って水屋に戻ろうとして──。


「そんないいのに、苺ちゃんは着物だし」

「大丈夫で、すっ?」


 草履を履いてあるき出そうとした瞬間、バランスが崩れたのは、鼻緒が切れたから。

 だけど、手の中にはお茶碗がある。だから咄嗟に抱きかかえて──。


「いっ、苺ちゃん!?」


 茶碗を割れないように庇ったものだから、手を地面に付くことが出来なくて、肩から転んで頬にはすり傷。

 それでも確かめたのは腕のなかの茶碗。それはどれも割れることなく、苺はホッと息をついた。


「うん、大丈夫、割れてない」

「そっ、そうじゃなくてほっぺ! ちょ、ちょっと待ってて? すぐに人を呼んで──」

「いいですよ、呼ばなくて。立てる? 苺」


 慌てる彼女を制したのは圭樹で、その声に苺もコクンと頷く。

「割れてない」と笑う苺に呆れながら、彼女の守った茶碗を圭樹は受け取った。


「あ、ってか、まだ終わってないよね? ごめん、あたしが転んだから? もう戻っても──」

「おいで、苺」


 持った茶碗をそばにいたお弟子さんに預けると、圭樹は彼女の腕を持ってぐいっと引き上げる。それから着物に付いた土をはらうから、苺は慌てて「ご、ごめん、圭樹」と謝った。


「何に対して謝ってるの?」

「え? だって着物……」


 この着物は圭樹の母親、充希から借りたものだ。


「そんなのはどうでもいいの」

「……うん」


 圭樹が怒ってる。

 めったに怒らないものだから、苺ですらシュンとしてしまう。


「また鼻緒がって……、これ苺のじゃ……?」

「うん、ごめん」

「謝らなくていいから、少し移動するよ?」


 そう言っていきなり抱きかかえるから、「うわっ」と流石の苺も声を上げて圭樹にしがみついた。


「け、圭樹!?」

「静かに。まだ終わってないんだから」

「はうっ」


 口を抑える苺に「いい子」と囁いて、二人はそのまま庭からいなくなった。




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