第8話 イチゴ事件 1-1

 こんな日は朝からバタバタ忙しい。


「はい、着付けはコレで出来上がりね。うーん、可愛いわ! 苺ちゃんったら♪ さ、もう少ししたらスタイリストさんがいらっしゃるから、あと圭樹お願いね?」


 そして圭樹の母・充希は「あー、忙しいわ」とパタパタと居なくなってしまった。


「……着物って動き辛いよね」

「今日はお茶するだけだから、問題ないと思うよ?」

「でもさ、襲われたら反撃出来なくない?」

「誰も襲わないから大丈夫」

「ほら、汚したら困るよね?」

「汚れない着物なんてないから安心して」

「……圭樹ぃ」

「あまり表に出なくていいようにするから」

「……」

「茶菓子は全種類苺に置いとくし」

「うん」

「初釜でもないんだから、そんな緊張しなくていいよ」

「してないし」


 唇をへの字に結ぶ苺に、「そう」と圭樹は笑った。

 因みに初釜とは、年が明けて最初に行われる茶会のことで、茶道を学ぶ人にとっては、1年の稽古初めとなる大切な会なのです。


「スタイリストAの方がいらっしゃいましたー!」


 お弟子さんの声に「はい」と圭樹が答えれば、苺は「はぁ」とため息を漏らす。


「おはようございます、苺ちゃん」


 けれど、開く障子から覗く顔に、苺の顔は一気に晴れた。


「陸さんだ!」

「ふふ、今日も元気だね、苺ちゃんは」


 栗色のふわふわな髪に、優しい笑顔でそういう彼に苺も「うん!」と頷いた。彼はスタイリストの佐々木陸。今日のような行事があるときに彼は来てくれるのだが、苺にとっては優しいお兄さんのような人だ。


「今日は違う人って聞いてたのに、大丈夫でしたか?」


 微笑みを絶やさずそう聞く圭樹に、陸も「うん」と答える。


「そうだったんだけどね、今日やるはずだった撮影が中止になったからね」

「撮影?」と聞き返す苺に、陸はニコリと笑う。

「モデルさんの都合がね。あ、そういえば圭樹君、モデルの話──」

「それ、断りましたよね?」


 ニッコリハッキリそう返す圭樹に、陸は「あれま」と残念そうでもなく答える。


「綺麗で化粧映えするし、スタイルは良いしで向いてると思うんだけどな」

「それ、母には言わないでくださいね? 本気にしますから」


「本気にしてもらっていいんだけど」と、苦笑いしながら陸は苺に紙袋を一つ差し出した。


「はい、ウエストのリーフパイ」

「ひゃあ! 陸さん、大好き!」


 抱きつく苺に陸はその頭を「良かった」と撫でる。


「今日は美味しい和菓子がいっぱいだから、どれも敵わないと思うんだけどね」

「そんなことない! 和菓子は好きだけどパイも好き!」

「うん、圭樹君も一緒にね。また君にもカットモデル頼みたいって社長が言ってたから、それくらいはよろしくね?」


 そんなお願いに、圭樹は笑みに苦味を混ぜて「考えときます」と答えた。


「さ、苺ちゃん、そこに座って。俺があまりいじらなくても、苺ちゃんは素が十分可愛いんだけどね」

「でもあたし、陸さんのメイク好き! なんかね、よく分かんないけど好き!」

「そっか、そう言われると俺も嬉しいね。それじゃ少し時間かかるけど、ここに座ってくれる?」


「はーい!」と聞き分けよくイスに座る苺を見て、「それじゃ、僕は準備があるんで」と圭樹は部屋を出た。


「ふぅ……」


 出た瞬間に、溢れるため息にも似たこれはなんなのか。


「あ、圭樹さん、こちらお願いしてもいいですか?」


 すぐにお弟子さんにそう声をかけられて、圭樹は「勿論です」と笑顔を見せた。




 前日にほとんど用意は出来てるから、当日やることは少ない。とはいえ、忘れ物があっては大変だから、その緊張感はハンパない。


「あ、圭樹! 見て見て!」


 そんな緊張感の欠片もない声に振り向くと、すっかり出来上がった苺がいた。


「ね、どう? どう?」


 ふんわりチークはナチュラルに、潤んだ唇がプルンと震える。長いまつげが太陽の光を受けてキラキラと、ほんの少し赤いアイシャドウが苺らしさを引き立ててた。

 その姿で苺は着物の袖を翻し、圭樹の前でクルリと回った。


「うん、可愛いよ、苺」


「ホント? やっぱり? 陸さんのメイクって凄いよね?」

 こんなメイクをらしてもらって、嬉しくない女子は居ないだろう。例外なく浮かれる苺に、圭樹は目を細めて、もう一度「可愛いよ」と伝えた。


「俺のメイクはただの補助。苺ちゃんが可愛いから、その良さを引き出しただけだよ」


 道具を片付けながらの陸の言葉に、圭樹は「ありがとうございます」と頭を下げた。


「えー、陸さんだからだよ。ね、また陸さん来てくれる?」


 そんな苺の言葉に、陸はちらりと圭樹を見る。


「俺でいいの?」


 そう聞いたのは、苺ではなく圭樹に。だから圭樹はニコリと笑う。


「苺がそうしたいなら。でも陸さんの都合もあるでしょうから、苺がしっかりお願いしたら?」

「うん! 陸さん! 絶対また来てね?」


 そんな苺の言葉に、陸はほんの少し苦味を混ぜて「こちらこそ、よろしくね」と苺に笑った。


「あら、苺ちゃん!? きゃあ! 可愛いわ! なんて可愛いの!」


 圭樹の母・充希に声をかけられ、苺も「でしょ?」とご満悦だ。


「それじゃ、俺はこれで」


 そんな光景を見て帰ろうとする陸に、圭樹は「ありがとうございました」と笑顔で見送るから、陸は少しばかり苦笑した。


「君はもう少し子供でもいいと思うよ」

「はい?」

「若人に後悔は似合わないよ」


 そう言うと軽く手を上げて、陸は帰ってしまった。


「……陸さんも十分若人でしょうに」


 どう見ても彼はまだ20代中頃、自分と大した年の差があるとは思えないのに、彼の言っていることはまるで老人のようで意味不明だ。


「圭樹! 後で一緒にリーフパイ食べようね!」


 分からないけど、


「そんなに食べれるの? お茶菓子も沢山あるのに」

「大丈夫! 全制覇して、リーフパイも食べる!」


 まあ、いいか。と圭樹は気にしないことにした。




 今回のお茶会は野点。二人が車に揺られて向かったのは、立派な日本庭園を抱えてる美術館でのお茶席だ。


「天気良くて良かったねぇ」


 呑気な苺の一言に「そうだね」と答えると、「苺ちゃん?」と聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。


「杏!」

「まぁ、本当に苺ちゃんなのですね? なんて可愛らしい」

「でしょ? 陸さんにメイクしてもらったの!」

「あぁ、あの噂のメイクの方ですわね。今度うちにも来ていただこうかしら?」


 そんな女子の会話に圭樹は、二人からそっと離れて、支度を始めた。




「支倉君」


 その声に振り向くと、知らない着物女性が立っていた。けれど、圭樹は構わず「おはようございます」といつもの笑顔を見せた。そんな彼に彼女はクスリと笑って「私よ?」と言うから、圭樹は頭の中で『?』を浮かべながら首を傾けた。


「えーと」

「石井よ」

「……」

「先週お茶を習いたいって言ったでしょ!?」


 苛立ちながらそう言う彼女に、やっと圭樹は思い出して「あぁ」と声を上げた。


「うん、石井さんね。どうしたの? こんなところで」


 ニコリといつもの笑顔を見せる圭樹に、彼女は苛つきを抑えるように一つ咳払いして、また話し始めた。


「よその教室に入れてもらったの。そしたら、筋がいいって今日のお茶席にも呼んでもらって」

「そう、良かったね」


 別にイヤミでもなんでもなくそう言ったのに、石井の顔が僅かに歪む。


「えぇ、だからお時間あるときにお茶、頂いてもいいかしら?」


「勿論、お待ちしてます」と返せば、彼女も最後にはニッコリ笑ってその場を後にした。


「あらあら、どこぞの日本舞踊の石井さんですわね」


 ひょこっと顔を出したのは杏で、その隣からまたひょこっと顔が出てくる。


「ふーん、日本舞踊なのにお茶会に来るの?」


 そんな苺の、質問に「ですわねぇ」と杏も思案顔で圭樹を見上げた。


「きっと、美味しいケーキ目当てですわね」

「え? 和菓子だけじゃないの? 今日はケーキもあるの!?」


 目をランランと輝かせる苺に、杏は「嘘です」なんて言うから、苺はがっかりだ。


「でもお気をつけあそばせ? お嬢様で有名な方ですから、何がなんでもケーキを手にしたがるかもしれませんわ?」

「……」


 言われてる意味が分かるから、圭樹は何も言わず笑顔も崩さない。


「えー! お嬢様じゃなくてもあたしもケーキ欲しい!」


 そして、疑うことを知らない苺は、唇を尖らせた。


「あら、今日は和菓子で我慢してくださいな。うちの新商品もありますから」

「あ、それも食べたーい! 寧ろそっちが食べたい!」

「ふふ、今日も苺ちゃんは元気ですわね」

「ね、どんなの?」

「唐衣のようものなんですけど、中に梅を練り込んだ……」


 二人の会話を聞きながら、「さて、準備しないとね」と圭樹もまた歩きだした。



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