⑥むかしのこと・イーゴリ&アーサリン篇(流血描写あり)
「旅に出ましょう」と、仔熊姿の精霊アーサリンは少年イーゴリの裾を引っ張った。二人の後ろ、古びた屋敷の中はひどく荒れており、人の姿は僅か。外では異常を察した馬の嘶きが聞こえる。
これは他ならぬ精霊の憤怒を買ったためである。朱い嵐は友を害した総てを薙ぎ、荒廃とたった一つの愛だけを残していた。
秋穂のような髪を伸ばし、女ものの服をまとったイーゴリは既に男でなかった。股座から濃い鉄の匂いを漂わせ、ただうつろな眼で女ともだちを抱いていた。
彼はつい先日、元服にために去勢されたのだ。
オレクサンドルソン家の男児は皆、より強い魔力を得るために髪を伸ばし、女装し、精通の前後に完全去勢される。この習慣は家に何百年も前から在り、従ってこれを壊したアーサリンは本来ならば重罪である。しかし尊き精霊故に捕殺は免れていた。家長たる老婆――イーゴリの外祖母はこれは天の思し召しだと見逃したともいう。
のちに一人と一匹は出奔した。イーゴリは当時十二歳であったが、二人の旅を引き留める者は一人といなかった。
イーゴリは嘗て、アーサリンを元軍団駐屯地である遺跡から発掘したのだ。こんな運命的な出会いを果たした彼らは、友として共に生きるべきだったのだと皆考えていた。
そして来る門出の折、イーゴリは生まれて初めて男ものの服を着て村を出た。
彼は幼年期から培った狩猟技術とアーサリンの力。加えて元服の折に得た魔力を以て、やがて害獣化した精霊の駆除を生業とした。
しかし我が子を害された母熊は執念深いもの。
たとえイーゴリが元服の夜を忘れても、アーサリンは皮肉な運命に心を痛め、鉄の夢に魘されていた。
とある鹿狩り後の晩、ホルスロンド東部の山小屋の中で彼らは寝床を共にしていた。やせた三日月の下、イーゴリは隣で微睡むアーサリンの背を撫でた。獣臭くも手触りの良い毛皮だが、僅かに震えている。
「アーサリン」
イーゴリが丁寧に名を呼ぶと、彼女はより身を擦り寄せてくる。震えは一向に止まないが、それでも背を撫で続けた。
やがてアーサリンの瞼は重たくなり、夢うつつを往復した。残った力で前を向くと、イーゴリの瞳と目が合った。
「すまなかった」
にわかに腕の力がこもったとき、アーサリンは益々泣いた。振り返ってみれば、眉を落とすイーゴリのことなど見えていなかった。
彼女が苦痛の隣で笑える日は、少し先のことである。
【オレクサンドルソン家】
ホルスロンド北部の集落を支配する一族。家母長制。
始祖はオレクサンドルというダヌウェ人巫覡。ダヌウェ人巫覡は去勢・女装する習慣があったが、彼らが歴史から去って以降、現代までこの習慣を残している家は少ない。
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