②新しい入居者
イーゴリ・オレクサンドルソンが大家から新しい入居者の話を聞いたのは、相手が入居する一週間前の話であった。
時期からして新卒だろう。
加えて郊外のフラットを選ぶ辺りは、田舎からの上京者と予測していたものだ。
大家の壮年は「見掛けは特徴的だけど、いい子だったよ。君も仲良くなれると思うから、よろしくね」と朗らかに言っていたが、実のところイーゴリは落ち着かなかった。
なにせ既に共に住んでいた労働者は素泊まり程度にしか戻ってこないため、このフラットは事実上イーゴリ一人と一匹の精霊のものだったのだ。
フラットは大家の所有化ゆえ可笑しな話だが、些か気分を落としたまま出勤したことをよく覚えている。
「こら、起きなさい!」
朝も早くから毛深く、柔らかい茶色の手がべしべしと顔を叩いてきた。まだ重たい瞼を擦っている間にも、少しずつだが布団が剥がされていく感覚を覚えた。人の腹に乗っかる雌仔熊の仕業であることには、疑いようがない。
「今日の昼前くらいに新しい子が入ってくるのよね。綺麗な部屋で迎えてあげなきゃ! あんたもオフなんだし、早いうちに掃除するわよ。手伝いなさいっ!」
そう言って雌仔熊もとい、精霊のアーサリンは素早く寝台から飛び降りた。そしてその勢いのままカーテンを開き、強制的にイーゴリの瞼に陽を当ててやった。
「あたしは他の部屋をやるわ。ちゃんと、誰でも入れられるようにしておいて。後で見に行くわよ。あとそのだらしない髭も整えて」
起床を確認した彼女は他の部屋の掃除のため、素早く犬猫用の出入り口から出ていった。
愛しの布団を剥がされ、眉間に皺を寄せたイーゴリは取り敢えず身体を伸ばした。脳から爪先に渡って神経が目醒める感覚と共に、次第に瞼も軽くなっていく。
外に耳を済ませても音はない。
寝転んだまま窓の方へ目を遣ると、まだ日は低い位置に有った。休みの日くらいゆっくり寝かせてくれという要求は、今日の彼女には通じない。
気怠く身体を起こし、普段着に着替えて手櫛で赤い髪をまとめ上げた。同居人の労働者は既に仕事に出かけている。イーゴリは洗面所で顔を洗い、髭を剃り、最後に洗濯機を回してからアーサリンの指示通りに自室の掃除を始めた。
朝の支度はほぼ全て終わったのは、起床から一刻後である。今日は新入りへの挨拶以外の予定は入っていない。
その一方で、同居人の一人は深夜まで帰ってこない。
つまりイーゴリはこの挨拶の折、同一のフラットの下で過ごすための
賢く、理解があり、願わくば他者をよく尊重できる者であってくれ。
斯様に思いながら珈琲を淹れていた。間もなくアーサリンも掃除を終え、イーゴリが大型犬用の皿に入れた蜂蜜入りの牛乳を飲み始めた。
「お菓子は何が良いかしら?」
アーサリンは積極的だが、見た目が熊のせいで殆どの菓子店や飲食店には入れてもらえない。ゆえにウィートヒルのお菓子事情には詳しくないのだ。
「クッキーが無難だな。近くに老舗の菓子屋があるからそこで買ってくる。開店まで時間があるし、散歩でも行ってくるか」
「そうね。食料品店ならもう空いているから、ついでに買い物もしましょう」
大熊に姿を変えたアーサリンは飲み終えた皿を器用に洗い、換気のために開けていた各部屋の窓も閉めに行った。
珈琲を飲み終えたイーゴリはカップを洗い、シンクもついでに掃除した。最後に外套を羽織り、戻ってきたアーサリンに赤い首輪とリードを付けて外出した。
散歩の折はより長い距離を歩くために、わざと食料品店とは逆の方角へ歩き出す。土地勘は十分にあるから、決して迷うことはない。
ところで精霊があちらこちら野生動物に紛れて飛び回っておれど、仔熊を連れて散歩するさまは大変に珍妙である。然し日々同じ道を行き交う人々は、見慣れてしまえば景色の一つに過ぎない。
石に囲まれた空はあいも変わらず曇天。その下で灰色の畳にできた水溜りをぴょこぴょこ避けながら、アーサリンは悠々と歩を進める。踊るような軽い動きはまるで童話そのもの。緑色の故郷では、なお絵になっていただろうとイーゴリは独白した。
外出から半刻後、遠回りの末に食料品店へ辿り着いた。
此処で追加の肉や野菜、調味料、珈琲豆や紅茶缶を買い足し、後で向かう老舗菓子店で入居者用のクッキーを買おうと改めて計画を見直した。
勿論アーサリンは入口で待機だ。
それもリードに繋がれたままちょこんと座って待たなくてはいけない。苦痛ではないが、ちょっと退屈な時間なのだ。
通り過ぎる人々の観察をして、石畳のしみの数を数えるのも飽きてきた。むすっと地べたに寝そべっていると、ふと妙な視線を感じて顔を上げた。
食料品店の横にある小さな新聞屋。その入り口のそばに、ひょろりとした黒い肌の青年がアーサリンを見ていた。一帯ではまあまあ知られている仔熊を見て驚くということは、来たばかりの人か、観光客か――。
(それにしても、イイ男)
イーゴリほどではないが背は高い。痩身だが、白いシャツとサスペンダーが長くすらりと伸びた足を強調している。全く見慣れない容貌だが、不思議と品がある。髭もきちんと剃られていて、弛むと伸ばしっぱなしになるイーゴリとは大違いだ。
何より、彼は動物好きだ。
アーサリンは精霊ゆえに、一目で大雑把な性質が判る。特に相手の獣に対する認識には鋭い。
自然に囲まれて過ごしたのだろう。アーサリンはやにわに男に向かって、身体を大の字に広げてみた。
然し反応は芳しくない。少々怪訝な表情はするが、寄ってきてはくれない。
せめて距離を詰めてくれたら、声をかけてやるつもりだのに。親から「人の飼っている子に無闇に触っちゃいけません」とか言われているのやもとアーサリンは勘繰った。
今度はぱたぱたと手を振ってみたり、お尻も振ってみた。
男は頬疚しいとばかりに穏やかに咲ってくれたが、やはり進展なし。アーサリンは頬を膨らませて丸まった。あからさまに悄気げた様を見て流石に気付いたか、男は漸く歩み寄ってくれた。
「はじめまして、鈍感さん」
再び顔を上げたアーサリンが口を開くと、男は俄に驚いた。そして早速鈍感と罵られたにも関わらず、彼はまるで気にしていなかった。
「はじめまして。貴女のアピールに気付かなかったこと、どうかご容赦を。見慣れぬ精霊でしたので、つい観察に夢中になってしまいました」
「あなた、ずいぶん遠いところから来たようね。言葉は流暢だけど、属州出身者でもなさそう」
「ヴァクワク島から来ました。仕事も既に決まって、今日近くのフラットに引っ越すのです」
その言葉にアーサリンは目を見開いた。
改めて男をよく見れば、イーゴリより大分若い。加えて大家は「変わった見た目」「利口」と言っていた。
「あら奇遇ね。あたしが住んでいるフラットも今日新しい子が入居するの」
幾らかの想起を端に退け、アーサリンは明るく言った。そもそもホルスロンドは地代や家賃がシャングリラ中で指折り数える程高く、多くの人は集合住宅に住んでいる。此処ウィートヒル郊外にも、何十ものフラットが並んでいるのだ。
(可能性はあるけれど、聞くのは野暮ね)
「此の時期は多くの人にとって新たな門出ですからね」と、膝を折って緩やかに話す青年と向き合っていたときだ。
「アーサリン。なにナンパしてんだ」
買い物を終えたイーゴリはそばに座っていた黒人に詫びの一言をいれると、彼は穏やかに迷惑はしておりませぬと言った。
「ほら、行くぞ」
そう言ってイーゴリはアーサリンを抱き上げた。傍から見ればやんちゃな仔熊を抱っこする飼育員ゆえ、青年の表情はより緩んでいた。
「もう、せっかちっ! あ、おにいさん。また会いましょっ じゃあねっ!」
「ええ。また楽しみにしております」
一揖したイーゴリは老舗菓子店の方へ向かう一方で、アーサリンは彼の肩越しに男に手を振った。
彼は快く応じてくれ、アーサリンが引っ込むまでその場にいてくれた。
「楽しそうにしていたな」
「ヤキモチかしら? でも動物好きだし品はあるし、イイ男だったわ」
否定はしないと無関心そうに返事をしたイーゴリは、漸くアーサリンを腕から下ろした。彼の左手に下がった袋からは、珈琲豆の芳醇な香りが漂っている。
中途小雨に濡れながら、二人は菓子店に到着した。
今度はアーサリンに荷物を任せ、クッキーを買って帰る頃には時計が10時を指していた。そろそろ入居者と大家が来る頃やもと思い、早速買ったばかりの珈琲豆を挽いた。
行きつけの喫茶店のそれほどではないが、豊かな香りは香水に優る。机を拭き、最後に今一度部屋中を点検したアーサリンは、下から聞こえたベルの音と人の声に心を踊らせた。
「イーゴリ、豆は挽き終えた? 淹れるのは後にして、ソファに座って待ちましょ」
ソファの脇に顎を乗せ、見るからに楽しげなアーサリンの向こう。居間の入り口から、大家が「入居者くんが来たけど、入れていいかい」と顔を出してきた。
アーサリンを膝に乗せたイーゴリが許可を下すと、大家は背後に控えていたらしい入居者に声を掛けた。
「ん?」
「失礼いたします。……おや、先程の。ふふ、改めまして。ラヴォニアニナ・アンドリアニリナと申します。長い名前ですので、ラヴォとお呼びくださいまし」
右手に大きな鞄を抱えた彼、ラヴォは笑顔と共に深くお辞儀をした。大家は既に会っていたのかと、二人の顔を交互に見ていた。
「理想的な子が来たじゃない。良かったわね」
膝に乗ったアーサリンは、愉快そうに言った。
不思議と不快感を感じなかったイーゴリは僅かに頷いた。そして自己紹介に次いで、彼をソファに導いた。
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