③むかしのこと

 ラヴォニアニナ・アンドリアニリナは、己の人生の転換期を良く覚えている。


 ほんの6歳くらいのことだった。

 時期は秋の終わり。丁度多くの虫が蛹へ変態する頃、外祖母に近所の森の中へ連れられたときのこと。

 ラヴォは好奇心で一匹の蝶の蛹を潰してしまったことがあった。


 無論、悪意は無かったのだ。

 はじめはちょっと摘んで、感触を確かめようとしただけだった。然し心の底から湧いた好奇心が物足りないと叫ぶ度に触れる手は大胆になり、強くなり、終には潰してしまった。


 実のところ、彼の溢れ出る好奇心にもきっかけはあった。それはラヴォは先日、初めて母と前蛹から蛹へ至る過程を観察していたときのこと。


 彼女は環境省の官僚で、敷地内に置いている昆虫館で何百種もの虫を飼っていた。勿論蝶類も多種飼育しており、矢張り此処でも多くの生命が蛹へと姿を変えるべく脱皮をしていた。


 枝に細い糸を張り、自ら硬い外皮を剥ぎ、頭から緩やかに抜け出し、最後には激しく身を振って殻を振り落とす。

 ラヴォは母の腕の中で、その過程を緊張と共に見守っていた。月並みの言葉だが、生命の神秘を感じたのだ。それ以上の言葉は不要だった。


 ラヴォの両親は共働きであったため、彼は既に退職した外祖父母と暮らしていた。そして外祖母も元は大学で生物学の教便を取っていたため、孫息子を頻繁に森などに連れていた。


 秋も酣になると、虫たちは蛹になって越冬の準備をする。特にラヴォが住む島の中央部は、熱帯山岳地帯ゆえに冬は他地域よりずっと冷える。ラヴォもこの時期は厚着になって、指をかじかませて生物観賞に出ていた。


 祖母から「蛹は少しも揺らしてはいけない」とは聞いていたが、理性で好奇心を抑えるには、当時のラヴォは幼かった。


 硬い殻に触れ、感触を確かめる。中身はどうなっているのかと思って、その殻に人差し指の爪を立てた。そして次第に指に力を込めていった。


 刹那感じたものは、親指と人差し指の間がなにかで緩く繋がれた感触だった。殻の感触と液体の触感が混ざり合い、背に蜈蚣むかでが這うような感覚を覚えた。


 徐に蛹を攫んでいた左手指を見ると、茶色い殻と白い粘液が短い糸を引き、べっとりと指先を汚していた。


 てっきり芋虫の内臓が入っているかと思った蛹の中身は、殆どが液状の物体であった。


 あとになって外祖母から聞いたところによれば、あれは液体化した内臓だという。芋虫に限らず、虫類は完全変態を以て、成虫に至ると彼女は語った。


 それを聞いたとき、ラヴォは目を見開いた。なんと不思議な生き物だろうと、子ども心にも感嘆したのだ。

 恐らくそれがラヴォを虫の虜にした、些細で大きな出来事であった。




「……それで、今は潰したりなどはしていないな?」

「子どもの頃の話ですよ。でも、少なくともぼくにとっては意味のない行為ではなかったです」

「はは。子どもってのはそうやって色んなことを学ぶから、幼少期に自然に囲まれた環境に生きるのは大事って言うな」


 時期は16年後の春へ移る。ラヴォの移住先のホルスロンド帝国の都ウィートヒルは、春の復活祭で賑わい、野苺に彩られていた。


 他方でラヴォは無事に内定を得、晴れてシャングリラ最高峰と名高いホルスロンド帝国立植物園の蝶園スタッフとなった。現在は帝都郊外にあるフラットで暮らしており、同居人らと一つの空間で暮らしている。


 勤務開始から間もないある日のこと。ラヴォは退勤後に、ルームメイトの一人であるイーゴリ・オレクサンドルソン行きつけの喫茶店へ誘われていた。曰く隠れた名店らしく、彼自身も専ら一人で行くことが多いようだ。


 此処の喫茶店は図書館のそれよりはやや私語に溢れるが、交流の場としてはより適していた。

 二人は揃って珈琲を注文し、待ち時間の間は雑談に興じていた。


 ところで此の店の雰囲気は、ラヴォにとつまても大変好ましいものだった。

 個人経営ゆえに店は小ぢんまりとしているが、入り口、窓硝子、机の脚や椅子の背まで細かな珈琲の木や豆を模した彫刻が施されている。色も緑色、黄色、茶色と統一感を持たせており、品がある。


「此処、いいお店ですね。程よく静かで、話しやすいです」

「声量は魔具で調整されるからな。喧しくはならないよう工夫はされている」


「翻訳機といい、やたら速い自動車といい、此処ホルスロンドに来てから見慣れないものばかりで飽きないですね」

「お前、虫には詳しいくせに魔具や機械には疎いよな。お前の前時代的な自動車を見たときは吃驚したぞ」


 ラヴォは彼の言葉に苦く笑った。

 彼は三ヶ月掛けて帝都ウィートヒルまで自動車でやってきたのだ。それも高齢の父から譲られた天蓋の無い、古いモデルの自動車でだ。


 間にある後進国にもある程度鉄道が通っているが、帝国の属州以外は廃線や劣化が著しい。鉄道を当てにすると、却って時間や負担がかかる。ましてラヴォは荷物が多かったため尚更である。


「売ったら高いですかね」

「マニアに売れば或いは。此処は交通網が発達しているし、車は無くてもイケるぞ」


 イーゴリは悪戯っぽく言った。

 実のところ帰省できなくては困るため、貯金して新車を買うまでは手放さないつもりである。


 そうこうしているうちに、店主が珈琲を運んできた。店主たる壮年の襟やエプロンはきちんと伸びており、誠実な人柄が見て取れる。

 店員の所作や服装は店の評判を左右する。彼が隠れた名店と呼ぶのも納得であった。


 酸味のきいた浅煎りのコーヒーに、まどろんだ視界がにわかに冴える。

 しとしとと石畳を濡らす小雨を背景に、二人は四方山話に暮れていた。帰るころには、春風が咎めるように冷たかった。

 

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