小噺集

①移住最初の冬

『エイリクマスクアゲハの雄成虫は繁殖期になると、おそらく過密状態での産卵を避けるために腹部の分泌腺から立麝香のような分泌する。この交信フェロモンは種によって濃度が異なっており、……抽出すると甘やかな草の香りがするため、合成原料に加工する試みが行われている。例えば……』


 冬も酣の頃、北西の大国ホルスロンドの帝都ウィートヒルは驟雨に濡れていた。まだ日没まで数刻あるというのに、小さな窓の外は灰が降ったように暗かった。


 ラヴォニアニナ・アンドリアニリナ(以下ラヴォ)は国立国会図書館の隅の席で一冊の研究書を読んでいた。本の題名は『ホルスロンド博物誌・昆虫の章』という。発刊は2年前のため、国内に生息する昆虫の情報は極めて新しいものだ。


 ラヴォの故郷であるヴァクワクは所謂後進国ゆえ、最新の情報を得られる環境ではなかった。彼が大学卒業のために書いた論文は、ヴァクワク島固有の蝶を扱ったものであった。


 そもそもヴァクワク大学図書館に所蔵された研究所や論文は固有種を取り扱ったものに偏っていた。なまじヴァクワク島は生息する全生物は、確認されているところ8割が固有種である。


 地元の研究者たちの多くは経済的に海外での長期的な調査ができないため、国内種に甘んじざるを得ない。他方海外の研究者は裕福かつ畏れ知らずでない限り、治安の悪い後進国家を横断して渡島しない。

 数少ない研究者が島外の蝶を扱った研究所を残したが、イルミン語(ホルスロンド帝国の公用語)による記録ゆえに読めない研究者もいる。


 裕福な家庭に生まれ、イルミン語を会得したラヴォは幸運であった。

 今冬、己の持つ生物学学士号と論文を武器に就職活動に臨んだ。この国、ホルスロンド帝国国立植物園の蝶園スタッフに応募し、つい昨日面接を終えたところなのだ。結果は不明だが、ラヴォは先を見据えて朝から国立図書館へと赴いた。


 故郷よりもずっと北にあるホルスロンドの冬は、意外にも故郷の冬ほど冷えていなかった。しかしこの国の空は大抵は曇天で、懐郷病というやつか、時に故郷の青々とした晴天や豊かな森林が恋しくなる。加えて白人に囲まれた環境は黒人のラヴォにとってやや窮屈な側面もあった。


 奴隷制度の撤廃から2世紀、人種差別撤廃条約の締結から既に半世紀が経った一方で、黒人の社会進出は僅かなものだ。貧困層がほとんどの彼らは、工場が多い辺境に住んでいる。ラヴォのように高等教育を修め、論文を書き、シャングリラ最大級の植物園に志願できる者は例外である。


 『ホルスロンド帝国国立植物園全集』『国立植物園の昆虫たち』のような一般書籍から、鱗翅学会や昆虫学学会などの研究機関が出版している雑誌に目を通したころには、日が窓から見えるほど傾いていた。意識が漸く己の身に向いたころに喉が渇いていることにも気付き、ラヴォは切の良いところで本を閉じた。


 貸出証の発行などは後回しにして、とりあえず今は喉を潤し、腹も満たしておきたい。斯様に思い、彼はさっさと本を返却し、図書館と併設された喫茶店へと向かった。


 地下に造られた喫茶店の入り口だが、図書館利用者らに合わせてだろう。「私語はお控えください」という張り紙が堂々と貼られていた。


 うす暗い花崗岩の地下通路を潜り抜けると、喫茶店というよりもレストランのような広い空間に出た。広すぎる空間は却って落ち着かないが、静かなのは幸いであった。


 カウンターにいた女性スタッフは、長身かつ黒人のラヴォを前に刹那驚愕の表情を浮かべた。然しすぐに表情を矯めるなり、彼女は丁寧に声をかけた。


「いらっしゃいませ。一名様ですか。お好きな席へどうぞ」


 彼女の言葉に従い一帯を見回したラヴォは、各机の上にキクイタダキに似た鳥が座る枝にしばし目を奪われた。


 恐らく彼らは鳥ではなく、鳥型の精霊だろう。昨日も朝と昼に、郵便配達をする鳩型精霊を見掛けた。     

 精霊というのはシャングリラ中に存在し、研究者によれば有史以前より存在するという生命だ。その定義は虫以上に曖昧で、端的には「人ならざるもの」とされる。


 先進国では精霊の言葉を翻訳する魔具を使って彼らと契約し、利便性の向上や人件費の削減を行っているとは聞いていた。


 一方でヴァクワクでは天災が起きた際に島民と協力する以外、精霊との接触は多くない。

 神の僕である彼らへの過干渉は不敬と考えられたためだ。ラヴォ自身は然程信仰心は篤くないが、程良い距離がヴァクワク島の自然を守っていたことは知るところである。


 角にあった一人用の席に腰を掛け、机に置かれたメニューを開いた。

 美しい薔薇模様で縁取られた最初の頁は、各属州や友好国から取り寄せた多種の珈琲、紅茶、香草茶の名が並ぶ。


 今は珈琲が飲みたかったため、取り敢えず最も安い「本日の珈琲」と、空腹のためにブルーチーズのサンドイッチも頂くことにした。

 注文の方法は机の端にある票に商品名を記入し、丸めて控えている鳥型精霊に渡すだけ。すると彼は厨房に票を運んでくれる。


 客はわざわざ店員を呼ぶ必要は無く、店も人件費の削減になっている。便利なものだと、ラヴォは戻ってきた鳥型精霊に微笑んだ。彼は内心を知ってか知らずか、ただ愛らしく首を傾げた。


 発展は素晴らしいことだ。然し誠の幸福が発展の先にあるのか。


 待ち時間のため革の手提鞄から、先日購入した『ホルスロンド古代史』を取り出した。そして栞が挟まれた頁を開き、続きを読み始めた。


 今や精霊や機械に満ち、広大な領土を抱くホルスロンド帝国も、始まりは小さな小さな部族国家だったという。


 イルミン族という北の大地から南下した半農半牧民は、全く自給自足の生活を送っていた。おそらく彼らの精神や欲求の程度は、今のヴァクワク人に近かった。


 なにせヴァクワク島は貧しいが、発展から遠いゆえに、多くを知らぬゆえに多少の快楽で満たされる人が多い。欲のコップが小さいのだ。


 一方で今の此処は、発展したホルスロンドはどうか。

 今日の新聞の社説は辺境の鉱山の労働環境の改善について書かれていた。昨日の社説は資源枯渇問題に関する課題を取り上げていた。


 一体故国の、文字すら読めぬ者が半数の同郷のうち幾人が、島外の世界に跋扈する社会問題を少しでも知るだろうか。


 本と向き合いながら諸々思案するうちに、ウェイターが珈琲とサンドイッチを運んできた。ラヴォは素早く本を鞄に仕舞うと、彼は丁寧な所作で品と伝票を置いた。


「ありがとうございます」

「ごゆっくりどうぞ」

 ラヴォが一揖すると、ウェイターは俄に笑み、さっと去っていった。


 全く疲れていると諸々思案してしまう。此処は一度腹を満たし、理性を癒やさなくてはならない。

 斯様に思ったラヴォは、一先ひとまず珈琲を飲んだ。深煎なのか、舌の根まで滲みるような苦味が特徴的な珈琲であった。


 初めて食べるブルーチーズに舌鼓を打っているうちに、先の憂いは食事と共に消化されていった。

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