日本美術院、奮闘するの事

壱 大観さんもよろしくお願いします

 僕はこの一年、古画模写の仕事で奈良や京都を飛び回っていた。

 今は高野山の僧房をお借りしている。ここは本当に物寂しい所だけれど、寺の佇まいさえ神韻縹渺しんいんひょうびょうとしていて、それ自体がひとつの作品のようにも感じられた。

 今日も僕は僧房の真ん中に仏画を置き、それを見ている。


「無言のものを聞き、見えないものを見る」


 僕も秀さんも、いつもこの考えでやっていた。じっと見ていると、描いた人の考え方というか思いというか、そういうものが絵の中から僕に訴えかけてくる。それが見えてくると模写した絵も生きてくるのだ。


 ある時、お坊様が何をしているのかと僕に問われた。あちらから見れば、絵を描きに来たはずが、黙っていつまでも座っているだけなのだから不思議だったのだろう。


「考えがわかってからでないと上手く写し取ることができないのです。はかどらなくて申し訳ありません」


 絵を描かない人にこの感覚を伝えられる言葉がうまく見つからなくて、それだけ申し上げた。言葉足らずで申し訳なく思っていたけれど不思議と納得された風で、それからは僧房の周りが殊更ことさら静かになった気がする。


 仏教の教義はさすがに難しいものだから、それをきちんと理解するまでには至らない。そんな僕にもこの仏様は優しい顔を見せてくれるようになった。


 合掌し読経する僧の姿がこの仏画の前にある。修行の厳しいお山で、この仏様は手を合わせる僧達への救いだったのだ。

 高野山の雰囲気の中だったから余計にそう感じたのかもしれない。

 描き始めてからは筆が早かったように思う。

 それからしばらくして、僕は一通の手紙を受け取った。


「手紙?」


 誰からだろう。礼を言って受け取り、封を切る。


「岡倉先生……」


 美校からの手紙には、学校に戻って講師をやらないかと書いてあった。

 これは僕の心を読んだかのような手紙じゃないか。

 模写の仕事は学ぶことがたくさんあっていいのだけれど、そろそろ自分の絵を描きたくなってきていたのだ。渡りに船とばかりに、僕はその要請に飛びついた。



 美校に戻った僕は講師として勤めることになって、久しぶりに例の制服に手を通す。


「君と会うのは久しぶりだねえ」


 もう卒業したのだから画号で呼んでくれ。そう言って観山かんざんさんは着崩れた制服をひらひらさせた。


「観山さんは、ずっとここで教えていたから一年ぶりですね」


 僕が言うと観山さんはニッと口の端を上げた。


「待っていたよ」


 それを受けて僕もニヤリと笑う。


「お手柔らかにお願いします」

「ちっともそんな気がないくせに、しれっと言うんじゃないよ」

「ああ、やだねえやだねえ!」


 観山さんと僕のやり取りを聞いていた秀さんは、両手を広げて大きく息を吐いた。

 秀さんも僕より一足先に美校の助教授として戻っていたのだ。僕らが顔を向けると目を光らせて不敵に笑う。


「負けねえからな、って素直に言えばいいじゃねえか」


 確かにそうだな。僕だって画家として歩き始めた。絵を買っていただく以上、良い絵を描きたい。その思いはふたりに負けていないはずだ。


「大観さんもよろしくお願いします」


 僕は気持ちを改めて秀さんを画号で呼んだ。それなのに秀さんは、うわあっ、とあからさまに嫌な顔をする。その反応はどういうことかな。


「……ミオさんにそう呼ばれるのはしっくりこねえな。っていうか気持ちわりいな」


 秀さんは本当に嫌そうに首を竦める。


「それは酷くないですか!?」


 僕が秀さんに詰め寄ると、観山さんが横で笑いながら言った。


「君達は家族みたいなものじゃないか、いつも通り名前で呼ぶほうが合っていると思うがねえ」


 少し違うような気もするけれど、その言葉が一番近いように思う。

 秀さんとは年も離れてるし性格も真逆なのになあ。なんで仲がいいんだ、と聞かれたって気が合うからとしか言いようがない。


「それだ、他人行儀な感じがするんだよな」


 秀さんが頷く。

 そうでしょうと観山さんは言って、ふと思いついたようにひと言つけ加えた。


「私は横山さんが私より上の賞を取ったら、画号で呼ばせていただきますね」

「かああっ! 意地が悪いぞ、観山! 次に展覧会に出す時、見てろよ」


 なんだか学生に戻ったみたいで口元が緩む。


「ミオさんは何をニヤついてるんだ? ああ、そうか。久しぶりに制服着られて嬉しいんだろ」

「秀さんも意地が悪いですよ」

「ミオさんは嫌いじゃないんだろう」


 秀さんに言われて僕は口を尖らせた。


「僕だって一年も外で仕事をしてたんですからね。いい加減わかりました」


 この制服は古いなと改めて思う。僕のような者でもしばらく外に出ていたらそう思うのだから、なるほど学生達には評判がよくないと心から納得した。

 観山さんがくつくつと笑う。


「岡倉先生の方針にはおおむね賛成なんだがねえ。大きな声じゃ言えないが、これには異議を唱えたいよ」


 観山さんの言葉を豪快に笑い飛ばして、秀さんは僕の肩に腕を回す。


「古かろうがなんだろうが、俺達はここで絵を描ける」

「はい! そうですね」


 そうだ、絵を描けるんだ。


「楽しそうで結構だ」


 笑い声の間に、戸の開く音と声が割り込む。


「岡倉先生!」


 笑い合っていた僕らは、そのくらいでとたしなめられた。


「今期の授業について説明しようと思う。教員、皆に集まるように言ってくれないか」


 僕らは皆に伝えるべく部屋を飛び出す。

 今期も岡倉先生の講義はあるだろうか。以前は外部の聴講生も受け入れていたし、予定されているのなら聞きにいってみたい。

 先生は一見いっけんすると遠回りに見えて、最後にはなるほどと納得してしまうような不思議な話し方をされるのだ。あまりにもすとんと胸に落ちるから、自分が考えたようにさえ思ったことがある。


 講義も絵を描くことも、これからを思うと高鳴る胸が押さえきれない。

 先生の元で絵を描けるのが嬉しくて仕方がない。

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