弥生彩華の挑戦
弥生彩華の挑戦 第1話
昼下がりの講義。それは食事後の睡魔との闘いである。
「えー、つまり。
(あー、眠い)
弥生は百名足らずの学生がひしめき合う講堂で、周囲の目を憚りつつあくびをする。今受講している民俗学Ⅱは、弥生の卒業要件には含まれていない一般教養科目だが、如月心霊相談所の仕事で役に立ちそうだからと履修した科目だった。
しかし、いくら高い志を持っていても、睡魔には打ち勝つことが出来なかった。ましてや、妖怪の話と期待していた回で、ゲームが生み出した架空の妖怪の話をされては、肩透かしも良い所だ。
(空亡ねぇ……もし具現化したとしても、伝承に裏付けされていないなら、第二種止まりの怪異よね)
如月心霊相談所で働く弥生にとって、妖怪を含む怪異の存在は、デスクワークの教授陣よりも専門家である自負があった。
けれでも、評価を下すのは目の前で教壇に立つ中年の助教授だ。テストやレポートでは彼の望む答えを書かなければならない。空亡の所感を述べよという課題が出されたとして、第二種止まりの怪異であるとは書けないのだ。
弥生は眠い目をこすりながら、全面のプロジェクターで出力されたパワーポイントの、空亡の特徴を箇条書きでまとめる。
しかし、途中まで書き写した所でスライドが移る。そこで弥生のやる気は掻き消えた。
(あー、やってらんね)
弥生はあくびをしながら、化粧が崩れる事も気にせず机に伏せる。そのまま弥生の意識は、昼下がりの微睡の中にゆっくりと落ちていった。
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夢を見た。
いいや、今自分は夢を見ている。
その認識と意識がはっきりとあるにも関わらず、体は自由に動かない。
私は自宅のベッドの上で横になっていた。
外から何やら騒がしい音がする。
どうやら私はその音で目を覚ましたらしい。
何かあったんだろうか。
一階にいる家族の事が心配になり、体を起こそうとするが、四肢を動かすことが出来ない。
ああ、金縛りか。なぜだか心は落ち着いていた。
しかし、外の事が心配で視線を自室の扉に向ける。すると、鍵を閉めたはずの扉が開いていた。
そして、廊下から私の事を見つめる黒い人影がそこには居た。
まるで黒い塗料で塗りつぶされたマネキンのようなソレが、手招きして私を呼んでいた。
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チャイムの音で意識が覚醒した弥生は時計を見て慌てる。何か夢を見ていたような余韻に浸りたかったが、今日は如月心霊相談所でアルバイトのシフトが入っていた。
「……って、今日はお休みになったんだっけ」
如月先生が所要があるとかで、今日は相談所を閉める事になったのだ。その事を思い出して、弥生はため息をつく。
「まったく、シフト削られた分のバイト代は補填しろってんだ」
ひとりでにボヤキながら、教壇で帰り支度をしている助教授が目に入り、つくづく如月先生は損な人間だと考える。
あの助教授は、きっと学問の上では優秀な怪異の専門家なのだろう。けれども、如月先生はもっと実用的な怪異の知識を有している。怪異に悩まされている人々を救っているのだから間違いない。
しかし、如月先生は不確かで実在しないとされている存在を扱っている。それゆえ、怪異の相談事を金銭で請け負う行為は、はたから見れば詐欺にしか見えないのだろう。
それを開き直って、本当に詐欺で金をせしめている事はどうかと思う。だが、怪異の引き起こす問題を解決している如月先生が日の目を見ず、文献とにらめっこの助教授が社会的地位を得ている事に疑問を感じていた。
もちろん、きっとあの先生も優秀で努力家なのだろう。でなければ、この大学で教鞭をとる事などできない。しかし、如月先生だって十分に人々から称賛されてもいいと思う。
「……もし私がこの道を進むなら、マネタイズはしっかり考えないとね」
「マネタイズがどうしたって?」
「うわぁ」
背後から冷たい手で目隠しをされ、弥生は思わず声を上げる。
「なにすんのさ、クヌギちゃん」
「えっへへ。油断してる
クヌギと呼ばれた女性は、弥生から手を離すと座席の前へと躍り出る。
艶のある豊かで長い髪。くっきりとした目鼻のパーツに、ほっそりとしたスタイル。チェック柄のウィンターシャツに、裾の長い黒のタイトスカートという、派手過ぎず地味過ぎない絶妙なバランスのファッションに、こっそり心の中で感心する。
「あれ、彩華って民Ⅱの後はバイトじゃなかったっけ? 結構いつも急いで帰ってるイメージあったけど」
「あー、今日はバイト先の都合で休み。それより、途中で寝ちゃったからノート写させて」
クヌギはニヤリと笑みを浮かべる。
「ノワールのワッフルソフトを所望する!」
ノワールとは、大学と最寄り駅の間にある喫茶店の名前である。ワッフルソフトはそこの看板メニューの一つであり、焼き立てのワッフルの上にソフトクリームとフルーツを乗せた代物だ。
「……学食のソフトクリームじゃだめ?」
「だーめ! 今日はこの後、インカレサークルの後輩とノワールで落ち合う予定なの。だから、その子が来るまでの待ち時間でノート写させてあげる。その代償として、ワッフルソフトは打倒だと思われる!」
「ッチ、足元見やがって。こんな寒いのにアイスをトッピングしたがるクヌギちゃんの正気を疑うわ」
「寒い時でもアイスは別腹。これ、うちらの業界じゃ常識だから」
「寒い時のアイスが意味わからないし、別腹じゃないでしょ。あとうちらの業界ってどこのこと? 仮に業界があったとして、その常識はクヌギちゃんだけの常識よね」
「あーもう、彩華の可愛い顔と毒舌のギャップ最高だわ。ほら、そんな細かい事なんて気にしてないで、早く行こ」
既にクヌギの中では、弥生がワッフルソフトを奢る事が決定しているらしい。しかし、後輩が来る前の時間を縫って、ノートを写させてもらうのは弥生の方だ。立場としては、圧倒的に弥生の方が弱い。
仕方がない。手痛い出費だが、なんだかんだとお世話になっている友人の要望だ。
「分かった。でも、日頃の行い込みだから今回限りよ」
「やった! 彩華、大好き!」
クヌギに抱きつかれ、心底うっとうしいと思いつつ、ノートや資料を鞄に仕舞い込み、二人は駅前のノワールに向かうべく講堂を後にした。
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