いざ往かん微風寺 第2話
玄関口でスリッパに履き替えていると、早月和尚は私の手のミカンに視線を落としながら不思議そうに尋ねる。
「そのミカン、どこで手に入れた?」
「ん? ああ、ここに来る途中でバスが一緒だった婆さんに貰ったんだ」
「ちょっと失礼」
早月和尚が手を差し出すので、如月は疑問に思いつつミカンを渡す。
「ふむ。お前さんは本当に運がええ。これは神無川産のミカンじゃな。それも、人ならざる者が作ったものじゃ」
「分かるものなのか?」
「ワシを誰だと思っとる? この道五十年以上の大ベテランだぞ」
そう言って早月和尚は皮をむき始める。
「……もし私が食べていたら?」
「
皮をむき一房つまんでそれを口に運ぶ。黄泉戸喫といえば、あの世の食べ物を口に入れれば、もうこの世には帰って来れないという話だったか。
「おお、すっぱ」
「大丈夫なのか?」
「ワシはこの地に根差しておるからな。年も取ったし、何より連中と関わりすぎた。もう妖の類に片足を突っ込んでおるワシには、普通のミカンと変わりない」
如月は、一杯食わされたのだと悟る。黄泉戸喫など嘘っぱちで、ただ単にミカンを横取りしたかったのだ。
ただ、早月和尚が上手なのが、一連の話がどこまで嘘か如月に判断つかない事だ。それゆえ如月は、既にそのミカンを食す気は失せており、早月和尚の一人勝ちの状況が出来上がった。
「……詐欺師相手に騙し取るとは恐れ入ったな」
「はて、何の事やら。それよりも、ほれ相談料」
早月和尚はミカンを持っていない方の手を差し出す。如月は舌打ちをしつつ、ポケットから茶封筒を取り出し手渡す。中には諭吉が十人入っている。
「うむ、お気持ち頂戴いたします。どうぞお上がりください」
ニヤニヤと笑みを浮かべる早月和尚に促され、如月はスリッパに履き替え家へ上がり込む。そのまま、玄関口のすぐ傍の和室へと通される。
和室では女の子が座布団の上に寝っ転がり、流行りの携帯ゲームで遊んでいた。
おかっぱ頭に髪飾りをさした、赤い和服の少女だった。時代錯誤も甚だしいが、隣には袈裟姿の坊主がいるので違和感はない。逆に、その手に握られた本体に液晶が付いたゲーム機の方が浮いた存在だった。
「ユカリ、ここに居ったか。客が来たぞ。お茶を出してくれ」
少女はゲームの手を止め起き上がり、如月を一瞥すると早月和尚に向けて頷いて、そのまま無言で部屋の外へと出ていった。
「孫なんていたのか?」
如月の知る限り、早月和尚は一人でこの家に住んでいたはずだ。彼には恐都の寺で修業をしている息子がいたはずだが、その息子が結婚したという話は聞いた事が無かった。
「あの子は座敷童じゃよ」
「……はぁ?」
早月和尚はとんでもない事を言いだす。今の娘が妖怪だというのか?
「いやぁ、何。流石にワシも歳には敵わん。いくら鍛えているとはいえ、足腰もだいぶ弱って来てな。その折にあの子が住み着いたんで、家事を手伝う事を条件に居候を許す事にしたんじゃ」
「いやいやいや、ちょっと待て! 座敷童って言っても、相手は怪異だぞ!」
座敷童といえば、東北の妖怪の中でもナマハゲに並んでポピュラーな存在だろう。少女の姿をしていて、住み着いた家に幸運を呼ぶという。
一見すると善良な存在に見えるが、その実態はやはり怪異である。座敷童に住みつかれた家は一時的に恵まれるが、彼女が去った後は急激に没落するという。
おそらく、先ほどユカリと呼ばれていた少女は、それらの伝説をもとに人間の想像力が具現化した第三種の怪異なのだろう。卯月深春に憑りついていた妖精と違い、座敷童ならば特性が具体的であり、比較的危険度は低い。それでも、何を仕出かすか分かったものでは無い。
その事を指摘すると、早月和尚は「ふむ」と頷く。
「如月クンは怪異は何を仕出かすか分からないと考えておるのだな?」
「怪異とは人間の想像力の具現化だ。人間の想像を制御できるとは思えない」
怪異を制御するとはつまり、人間の想像を制御するという事だ。
「その認識が誤っておる。妖怪や幽霊といったこの世ならざる者とは、人間に使役される存在じゃよ」
和室の襖が開き、ユカリと呼ばれていた座敷童が入って来る。一度床に置いた急須と湯呑が乗ったお盆を持ち上げ、如月と早月和尚の前に運ぶ。そして、どこかぎこちないながらも丁寧な手つきで、お茶を注ぐ。
まるで家庭科の授業でお茶の入れ方を習った事を、親戚の集まりで披露したがる子供のようだった。この少女が怪異である事を伏せられていれば、如月も微笑ましい光景として見られただろう。
「うむ、よくできたなユカリ。じいじはお客さんと大切なお話があるから、今日は二階で遊んでいなさい。それと、今夜はすき焼きじゃぞぉ」
早月和尚はユカリのおかっぱ頭を撫でながら、如月の渡した封筒をひらひらと揺らしながら言った。赤い和服の少女は、歯をむき出しにして「きゃっきゃ」と笑うと、スタスタ駆け足に部屋から出ていった。
「……まるで孫煩悩のジジイだな」
日本の坊主は明治時代の太政官布告で食肉が許されているはずだ。しかし、お布施をちらつかせながらのすき焼きというセリフは、いささか煩悩にまみれていやしないだろうか。
「おまえさんも、六十を過ぎればわしの気持ちも理解できるじゃろ。妻に先立たれ、三十半ばの倅は実家に寄り着かず、見合いにも興味を持たない。独居老人の寂しさを慰めてくれるのはユカリだけなんじゃ」
気持ちは分からないでもないが、だからといって怪異と一緒に暮らすなど正気とは思えなかった。
「危険だとは思わないのか?」
「ユカリは優しい子じゃ。何を恐れる事がある?」
「優しくとも怪異は怪異だ。座敷童が住み着くリスクを知らないとは言わせないぞ」
「ああ、家を離れた時に没落するというアレか? どうせワシも長くはない。逃げ切る気満々じゃよ」
「……都合がいいな」
如月の言葉に、早月和尚は咳払いで答える。
「そこがお前さんの勘違いしておるところじゃ。怪異とは本来、人間にとって都合よく作られておる。どれ、ここはひとつ人間にとって都合の良い妖怪の話でもしようかのぉ」
早月和尚は身を正す。つられて如月も背筋が伸びる。この辺りの空気を操る力は、腐っても聖職者なのだと感心してしまう。
「
しかし、早月和尚の口から出たのは意外な妖怪の名前だった。
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