2章 初めての収録!⑥
現在の声優界において、『三大歌姫』と称される女性声優がいる。
一人が、
10代にしてその実力を示し続け、タイアップ曲の数は今や30を超える。単独ライブはいつも大きい会場で開催されるが、ファンクラブに入っていないとチケットを取れないほどの人気だ。ドームを単独で埋められる、トップを走り続けるアーティスト。
いまだその人気の衰えは見えず、最近では年末の歌番組に出演したこともあり、オタク以外の認知度もかなり高い。20代半ばにしてこの実力と人気であり、橘唯奈の時代はまだまだ続くであろう。
二人目の歌姫が、
30近くでアーティストデビューと遅咲きであったが、劇場版『空飛びの少女』のタイアップからファンが急激に増えた。一時期、喉の病気もあり歌手活動を休止していたが、乗り越え、無事に復活。以降はライブ活動も精力的に続け、今や盤石の地位を得た声優アーティストだ。特にライブでの歌唱が、CDとは比べ物にならないほど良いと言われ、私も一度生で聞きたいと切望している声優さんだ。
そして三人目が、
橘唯奈、吉岡奏絵はパワフルで、エネルギッシュで、元気を貰える曲が多く、声量もすさまじい。もちろんバラード曲も他の声優と比べ物にならないほど上手いのだが、二人の代表曲といえば盛り上がる曲が中心だ。
だが千夜ミラは違う。
透き通った特徴ある声。伸びる高音。
圧倒的にバラードが上手く、聞かせる雰囲気を彼女は持つ。
橘唯奈はダンスもあるが、千夜ミラは基本その場で歌う、吉岡奏絵みたいに会場を走り回ったりしない。
『動』の二人に比べて、『静』なのだ。
二人はコールで会場全体を盛り上げるが、ミラのライブではコールは基本禁止でペンライトのみだ。でもその厳かな雰囲気、神聖なオーラは他を寄せ付けない存在感がある。
声優といえば元気、明るい、可愛い人が多いと思っていたから、彼女を見てその印象が覆された。
神秘的、という表現が1番正しいのかもしれない。
気づいたら、涙している。そんな不思議な感覚。
「永遠だねと君がいった言葉はー♪」
その声を目の前で聞き、驚かされる。
アフレコ、ラジオ収録が終わり、ミラさんの歌のレッスンを私は見学していた。
レッスン会場で聞いていいような声ではない。目を静かに閉じ、その小さな身体を震わせ、奏でる音は心に共鳴する。
「何処にも行けず、たたずむ僕を傷つけたんだー♪」
本番ではなく、レッスンなんだ。
たかがレッスンなのに、『スターエトランゼ』でレッスンしていた時の私とは全然違う。
あまりの差に落ち込むどころか、笑ってしまう。
……すごいな、この人。
改めて思う。
音が止まり、彼女がいつも通りの変わらぬ調子で話しかけてくる。
「悪いな、歌のレッスンまでついてきてもらって」
「いえ、従属ですから」
「歌は演技以上にそれぞれだから、コツも何もないんだよな……。頑張れ、いい先生を見つけるんだ! としかアドバイスできない」
「ですね……、私とミラさんの声質が違いすぎます。真似したくてもできません」
真似できたら苦労しない。
三大歌姫の一人。
頂点の一角だ。ここに並び立ちたいと思う、私の願いの無謀さを痛感する。
落ち込んだりはしない。でも、思ってしまうんだ。
何で辞めるんだ、と。
あまりに勿体なさすぎる。
「……元気ないな、瀬名」
「元気もなくなりますよ。今日私はミラさんの凄さを何度も見せつけられました。何かミラさんが苦手なことはないんですか?」
「朝」
「それは聞きました」
「他にも色々あるよ、匂いきついのは駄目だ。強い香水とか、食べ物でも辛いのや、香草も駄目なの多い」
そういう苦手を聞きたいわけではなかったが、ミラさんが嬉しそうに話すので止めない。
「特にパクチーは駄目。なんなのだ、あれは! 食べてはいけない代物だ」
「苦手な人多いですよね。私もあまり得意じゃないです。逆に好きな人はびっくりするほどに好きですよね~」
「うちの社長、恵実はパクチー大好きなんだ。無限パクチーとか言い出して緑いっぱいの料理を食べだした時は正気を疑ったもんだ」
「仲いいんですね、社長と」
つい、チクリと言ってしまうと目の前の彼女は反応した。
「嫉妬か?」
「違いますよ」
「大丈夫、恵実の腕を噛んだことはないから!」
「グッと親指を立てて宣言することじゃないですからね? 普通のことですから!」
「じゃあ、そろそろ腕を拝借してもいいか」
「……今日はもう抵抗する気力がないので、どうぞ」
左腕をめくると、彼女は首を振った。
「今日は右腕がいい」
「左右の違いでなんかあるんですか!?」
「元気じゃん、よかった、よかった」
「も、もう、早くしてください!」
右腕を外気に晒すとすぐに、私の目の前からパクリと腕を噛んできた。
「……うむ、……これこれ……はぐ」
「さっきまで素敵に歌っていた人は何処に行ったんですか……」
収録で物語をさらに彩った人。
ラジオで楽しい空間を作った人。
レッスンで心を震わせた人。
そんな人が私の腕を噛んでいる。
無防備に、無邪気に、私が無視できない距離感で。
「……なんで」
この人は凄いんだ。
私の夢なんだ。いつまでも頂にいて欲しいんだ。
なのに、どうして。
「なんで辞めちゃうんですか」
声に出していた。こぼさずにはいられなかった。
私の腕から口を離した彼女に、さらに言葉をぶつける。
「才能があって、努力もしていて、楽しそうにしていて、どうして今年で声優を引退してしまうんですか、もったいないです」
才能が無くて辞めるわけじゃない。
練習が嫌いで辞めるわけじゃない。
声優が辛くて辞めるわけじゃない。
引退する理由なんてないんだ。
今日の彼女を見て、辞める選択肢はありえない。
「ミラさんは仕事に真剣で、真面目で、真摯に向き合っています。仕事大好きなんですよね。今日一日見ただけでわかります。ミラさんが声優の仕事が大好きだって、わかります」
彼女は黙ったまま、私の勝手な言葉を受け止める。
「なんで、辞めちゃうんですか」
「……」
「ミラさん、辞めないでください」
「……めたくない」
「え?」
「私だって、辞めたくない」
辞めたくない。
そう言った彼女の顔は辛そうで、そんな表情は初めて見た。
「でも、仕方ないんだ」
「仕方、ない。……どうしてかは教えてくれないんですよね?」
「ごめん、取り乱した。忘れてくれ」
忘れてくれ、という彼女の表情が寂しくて、私は頷くしかなかった。
これ以上、教えてくれない。言葉以上にその表情は告げていた。
「この1年は瀬名の相談にのってあげるし、私の意志を伝えていく。辞める私のせめてもの償いだ」
そう言ってミラさんは話を終わりにさせた。
けど、納得できるわけなかった。
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