Day.29 木枯らし
作戦決行を数日後に控えたある夜。
カミノは自宅のリビングで、人が来るのを待っていた。外はずいぶん冷え込んで、時折強い風がガタガタンと窓を揺らす。雲は重く垂れ込めて、街の明かりがふくらんで薄明るく見えるような、そんな日だった。
ストーブを焚いているから部屋のなかはじゅうぶんに暖かい。しかし、カミノの指先は冷たかった。
まずは自分の決着をつけねばならない。
顔を合わせる時間が減ったことを口実に先延ばしにしていた、アベルとの約束の時間が迫っていた。時間をとってほしいと連絡したのはカミノ、それも電話だったから彼がどういうつもりでいるのかはいまいちよくわからない。
家の中は不在の間にいくらか物の配置が変わっていて、夫仕様に塗り替えられつつあるのがわかった。おそらく一時的なものだと思っているから適当なのだろう、食器は同じ種類ごとでなくバラバラなものが雑然と積み上がっているし、ゴミ箱はソファの横に引き寄せられ、冷蔵庫の中は中途半端に食べたデリのパックがいくつも残っている。あとさきを考えて家を管理していたカミノからすれば癇に障ることもなくはなかったが、離れていく人間が文句をつけることでもない。寂しいような身軽なような、奇妙な心地できちっと椅子に座って待っている。
階下でドアの開く気配。重たく階段をのぼる聞き慣れた足音。リビングのドアがガチャリと開いて、コート姿の夫が顔を出した。マフラーを外した襟と髪がいくらか乱れている。
「ちょっと待ってて」
カミノは微笑もうとして失敗して、こくりと頷いた。
上着と荷物を置いて戻ってきたアベルは、はああと深い溜め息とともにカミノの向かいに腰掛けた。まだ週の頭、しかも相手は一日働いてきたあとである。別れを持ち出すのは罪悪感に似て大変に気が重い。ただ、閉ざしてしまいがちだった分厚い扉の内側では炎が明々と燃えており、その勢いはもうこのさき封じ込めておけるような生易しいものではなかった。
やるしかないのだ。
「どうした、あらたまって話って」
呼びかけられて、カミノははじめてアベルの顔を正面から見た。こうしてまともに相対するのは本当に久しぶりで、むしろ初めて向き合ったような気さえする。すっきり出した額は出会った頃よりいくらか広くなり、脂っぽく光っていた。うしろに流したまっすぐな黒髪、瞳の色は焦げ茶で、いまは電灯ですこし明るく透けている。
そう、こんな人だった。彼の真面目そうな風貌や実直そうな人柄に接して、「この人と一緒なら大丈夫」と思ったのだった。家庭に入れば、人並みの人間として振る舞うことができる。結婚したのはほとんどそのためで、彼が本当はどんな人なのかなんてはなから興味がなかったのだ。
我ながらひどい人間だと思うから、ともに暮らした数年だけでもきちんと清算したい。これが、カミノのアベルに対するせめてもの誠意だった。
「私、ここを出ていこうとおもう」
「え」
こちらを見たアベルの顔が、急に幼くなった気がした。人間、虚を衝かれるとこういう顔をするのかと思うと同時に、本当にまったく予想してなかったのだろうかと疑いもする。
「なんで。まさか、他に誰かいるとか」
そうじゃない、と思った。カミノは別に、伴侶をアベルから別の人にすげかえたいわけではないのだ。
数年連れ添った夫を鏡にして、己の望みのかたちがいよいよ明らかになる。
「ひとりになりたいの。人並みに結婚して、家のことやって、いずれは子どもができて、それが普通だと思ってたけど。そういうのを追いかけて、自分ができない人間だと思うのをやめたいの」
よくわからない、という顔をしている。それはそうかもしれない。カミノだっていまのいままでよくわかっていなかったのだから。
「私は私自身と、私を必要としてくれる人のために残りの人生を使いたいと思ったの。妻とか母とか、多くの人がきちんと成し遂げていることはできそうにないけど。だからって、わざわざ自分をいじめなくてもいいんだって最近教えてくれた人がいるの」
「男?」
間髪入れず返ってくる一言に(まだ言うか)と瞑目した。
「ちがう。おばあさん」
まずルミナの顔が浮かんだけれど、若い女の子だと言うとまたややこしい話になる。それに、レイヤにさんざん根性を叩き直されたのもたしかだ。
「私がもともと持ってた、人と違うところを褒めて伸ばしてくれた人がいるの。ほら、結婚するまえに言ったでしょう。私の魔力特性の話。火のちからが強いのはいいけど、扱いようによっては……」
「いや、そんなことはいいんだけど」
よくない。アベルはこれまでもこうして、カミノの大事にしている話を遮ってきた。話を切り出した直後の覚束ないようすに一度は同情を寄せたものの、カミノはこの一瞬で覚悟を取り戻した。
もちろんそんなことを知らないアベルは話を続ける。
「これから大丈夫なの。それこそ、住むところとかさ」
「大丈夫。助けてくれる人たちがいるし、新しく仕事も見つけられそう」
「……そうか」
迷いのないカミノの返答に、アベルの背がわずかに丸くなる。
「俺は何も知らないな」
「そうね。私もあなたのことは全然知らないまま。何年も一緒にいたのにね」
この先もともに暮らす未来もありえたんだろうと思うと、やはりすこし悔しい気もする。
「でも、私は出ていく」
静かに、そして決然と宣言した。ぐうう、とアベルが唸った。
「別にこのままでもいいんじゃないの、ほら、またいちから生計を立てていくってほんとに大変だろう。もうそんなに若くもないし」
「だって、これからはお互いを知る努力を重ねて手を取り合って生きていきましょうなんて、今更できる? 私はもう無理だと思う」
「それは」
アベルが言葉に詰まって、しばらく無言が続いた。
これを言ったらとどめになってしまう、と思ったが、カミノには言わなければならないことがあった。
「ごめんね。私は、私みたいな人間でも結婚したら人並みの、女性らしい女性になれると思ってた。だからあなたと結婚して、あなたを利用したんだと思う」
さすがに心が痛む。ただ、この痛みは彼を思うがゆえではなく、きっと己の所業を恥じることであらわれた痛みだ。
「申し訳なかったと思うわ」
伏せた瞼のむこうで、アベルの顔が歪んだのがなんとなくわかった。結婚して悪かったなんて、言われたくもないだろう。
それでも、ここで大声をあげたり腕力に訴えるような男ではない。その点カミノは彼を信頼しているし、だからこうして対話することを選んだのだ。
「……俺は利用されたのか。とんだ悪女だったな」
アベルがぽつりとこぼした言葉に、カミノは目を見開いた。
「あなた、そんな面白いこと言えたのね」
「なんだそれ」
久しぶりに二人で笑った。そして、きっとこれが最後だろうなという予感がした。
「その書類にサインしたらいいの?」
「そう」
カミノが前もって並べておいた離婚届をすべらすと、彼は胸ポケットからペンを取り出して、丁寧にサインをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます