Day.22 泣き笑い

 街の中央庁舎にはよろず相談窓口があって、持ち込んだ相談内容に応じてどの部署どの係に行けばよいのか導いてくれる。

 過去、人間が正しい手続きを踏んで精霊界に移住したケースはたいへん稀で、前例が少ない分まともな資料が乏しい。ふらっと迷い込んだまま居着いてしまえば追跡のしようがなく、多くが行方不明として処理されてしまうのである。カミノのように、人間界と精霊界双方に生活拠点を置こうという発想自体が奇特なのだ、わからないことがあまりに多すぎる。どこから手を付けてよいかわからない、まさによろず相談ごとを抱えてやってきたカミノである。

 鋼色のタイルとガラスでのっぺりと隙なく鎧った新庁舎。人通りのわりにのんびりと開閉する自動ドアは中途半端にスライドを繰り返していて、不憫に思ったカミノは一度すっかり閉まるのを待ってから足を踏み入れた。

 太陽は中天にかかり、東西に分かれた棟をむすぶ吹き抜けのエントランスホールにはさんさんと光が降り注ぐ。カミノは足元の案内に従って奥へと進んだ。色のついた矢印が行き先を大まかに示してくれる。

 足元が硬いタイル敷きから絨毯に変わった。この先は旧庁舎で、一階をまるまる住民課が占めている。真紅の絨毯、琥珀色の艶を湛えた木製のカウンター、待合スペースにはエメラルドグリーンのソファベンチ。白々と明るい新庁舎と比べると、ここは調度の色合いもあって落ち着いた雰囲気だ。窓口のやりとりや電話の話し声、呼び出し音に赤子の泣き声などが入り混じって、ざわざわとした気配に満ちている。住民課の機能を旧庁舎に残したのはきっと意図があってのことだろうなとカミノは思った。

 よろず相談窓口は横に長いカウンターの中央あたり、大きなガラス窓が中庭側に半円形に張り出して広場のようになったところに、存在感抜群の離れ小島として鎮座している。ぐるりと円形に並んだ窓口と、中心に据えられた柱には庁舎内の地図や案内が収められ、すぐ取り出せるようにインデックス付きでびしっと整理されている。各部署直通の内線はかなり年季が入った旧式のものだったが、目の覚めるようなベルの音とともに立派に現役の務めを果たしていた。

「こんにちは」

「はいはい、どうなさいました」

 ここへ詰めている職員もみなベテランで、それぞれ若手が補佐についているようだった。カミノの呼びかけに応えたのは恰幅のいい壮年の女性で、見るからに頼れそうなどっしりした安心感がある。

「精霊界への転居や、二拠点居住についてお話を伺いたくて。あ、あと離婚を考えているのでその手続きも……」

「あらまあ忙しいこと」

 金縁の小さな眼鏡はおそらく老眼鏡、胸元の名札にはリンネとある。彼女はそばに控えていた若手に資料を二、三持ってくるよう言いつけると、カミノに向き直ってきびきびと質問した。

「配偶者の方とお話し合いは?」

「まだです」

「第三者が入ったほうがよさそうですか」

「そこまでこじれることはないと思いたいですが……」

「こじれなくてもね、他人が間に入ったほうが良かったりしますよ。お金のこととかね」

「ああ、そうなんです、そのあたりが不安で。これから一人で生計を立てていくことになるので」

「住まいの目途は?」

「居候先の当てはふたつともあります。ただ、いずれは独立しないとと思っていて」

「それはそうね。自分の家があるとないとじゃ休まり方が違いますからね」

 リンネは集めさせた資料を手元にざっと並べ、どれが何のための書類かカミノに簡単に説明すると、「相談相手にちょうどいい者がおりますので少々お待ち下さいね」と言いおいて椅子のままくるりと回り、背後の内線でどこかへ電話しはじめた。

 なにやら親しげなやりとりのあと、リンネが電話を切った音がリインと響く。その余韻が消えないうちに彼女はカミノを振り返ってにっこり笑った。

「ちょうどお昼に出るところを捕まえましたから、お食事召し上がりながらじっくりご相談いただけますよ。あ、お時間は、というかお昼もうお済みでした?」

「ええと、まだです。時間も大丈夫です」

「ならちょうどいいわ!」

 仕事が早くて押しが強い。話が思いがけない方向へ進んでいくのでいささか面食らったが、この勢いには流されてしまったほうがよさそうだ。

 カミノがまごまごしているうちに、庁舎内の案内図に力強い矢印と目的地がぐるぐると丸で示された。

「食堂へお越しになったことは?」

「ないです」

「とても見晴らしのいいところですよ」

 きっと定型化しているのだろう滑らかな道順案内のあとに、リンネがふたたびにっこりと歯を見せる。

「これから心細いこともあるでしょうし、またいつでもお越しくださいね。困ったときに使える仕組みはいろいろとありますから、都度ご説明しますよ」

「……ありがとうございます」

「いってらっしゃい」

 つられてカミノも微笑んで、胸の奥にじっとりと潜んでいた不安がいくらか軽くなったように感じたのだった。


 その相談員は旧庁舎の最上階、一般にも開かれた大食堂で待っているという。こちらも年季の入ったエレベーターのボタンはタイプライターに似て丸く飛び出しており、深く押し込むとカチリと沈んだ。鳥籠のようなスケルトンの箱が、ゴロゴロと音を立てながら上昇していく。チン、とベルの音が最上階への到着を知らせ、折戸が開くとそこは大食堂への入り口。写真つきのメニュー板の前に職員らしき人だかりと、明らかに人待ち顔の老紳士が背筋を正して立っていた。

「あの、もしかして」

「カミノさんですか」

 一音ずつはっきり区切る、生真面目な発声。リンネにはファミリーネームも伝えていたが、彼はカミノをはじめからファーストネームで呼んだ。

「ソーヴァ・パシコフといいます。どうぞよろしく」

 差し出された手は乾いて骨ばっており、カミノがこわごわ重ねるとぐっと握り返して早々に離れた。

「お話を聞くのにこんな場所で申し訳ない。歳をとると空腹にも鈍くなるもので、食事は決まった時間に摂るよう心がけておりまして」

「いえ、こちらこそお食事時にすみません……」

 向かい合ってみるとカミノがソーヴァのひたいを見下ろす形になった。きちっとセットされた白髪、ぱりっとアイロンをあてたシャツ、佇まいや姿勢から彼の気性が窺える。

 大食堂は南北に大きく窓を採り、七階ということもあって大変に見晴らしがよく明るかった。職員にまじって近所の勤め人や工事関係者、カミノ同様に来庁した人たちが思い思いに食事したり談笑したり、かなりの大空間にもかかわらず座席はほぼ満席である。

 ソーヴァは目ざとく空席を見つけるとさっと腰掛けて向かいの席に自分の手帳を据え、カミノに注文に行くよう促した。

「お先にどうぞ」

「あの、なにか一緒にお持ちしましょうか」

「それはありがたい。では、日替わりをお願いできますか」

「わかりました」

 折り目正しく無駄がない。料理を受け取る列に並んでいる間も何度か様子を盗み見たが、彼が姿勢を崩すことは一切なかった。


「このような場ですと聞き耳を立てる者もいますから、詳しいお話はのちほど。まずは互いに自己紹介としましょう」

 ソーヴァはこの前置きを、いくらか不自然なほど張りのある声で宣言した。二人の間ではそれぞれのランチがほかほかと湯気をたてており、ソーヴァは日替わりランチのチキンソテー、カミノの前には大判のカツレツが横たわっている。

「お引越しと、おひとりになる準備をされているとか」

「はい」

「でしたらお役に立てそうですね。現役の間は弁護士をしておりましたもので」

 ソーヴァの声は静かながらもよく通って、誠実な響きを含んでいた。美しい所作でナイフを入れながら、カミノにも「冷めないうちに」と食事を勧める。

「親しい者が精霊界に住み着いております。向こうの事情にもそれなりに明るいかと」

「えっ、それは心強いです」

 カミノが身を乗り出すと、ソーヴァの目元が孤を描く。

「信頼は置けると思いますよ、わたくしの元パートナーですので」

 元、という接頭辞に目を瞬いて、頬張った肉をごくんと飲み込む。どう返したものか思案しつつくちびるを湿らせている間に、ソーヴァが続きを話しはじめた。

「もうずいぶん前のことになります。私は主に民事を扱う個人事務所に務めていて、彼は腕のいい電気技師だった。機械も魔導機構も大して変わらないと言って、いまはあちらで魔導技師をやっています」

 彼が面映ゆげに披露したのはちょっとした昔話。しかし、何食わぬ顔で話すひとつひとつが、カミノの目を開かせた。

 人に歴史あり、されどこうして語られることは意外に少ないもので、いざ生身で対峙すると己の人間性が試されるような気がした。別れたとしても形を変えて続く関係がある、これを素敵なことだと感じる一方で、恐怖を覚える自分もいる。法的な別離は、必ずしも交流の遮断を保証しないのだ。カミノにとって夫アベルの存在はすでに過去に成り果てており、今後どんな形であれ関わる可能性はすっぱりと抜け落ちていっそ清々しいほどだったが、共通の友人知人を通じて再び引き合わされることだって有り得ると思い至ってみると一転、暗澹とした気分になった。

 しかしこれはカミノだけの感情だ。当人同士にしかわからない、あるいは当人にもわかっていない関係性があることをカミノはすでに嫌というほど思い知っており、これはソーヴァにもあてはまる。だからこそはじめは口を開かず、相槌を打つに留めた。昼どきの喧騒のなかで、二人の食事は静かに、着々と進んでいく。

 だが、やはり好奇心には勝てなかった。

「とても良いご関係のようなのに、どうしてなんでしょう」

 皿の上があらかた片付いて、カミノがようやく絞り出した「なぜ」。ソーヴァはこれを、別れの理由と受け取った。彼はちぎったパンで残ったソースを綺麗に拭いながら語る。

「私たちの場合は、距離をとったほうが互いのことを思いやれたし、私が職業柄、言葉を武器にする職業でしたからね。強い言葉で彼を押さえ込むのが怖くて意思表示を控えていたら、それがかえって互いの不信を招いてしまった。彼は決してそんな弱い男ではなかったし、多くを語るたちではなかったが確固たる意志があって、それもちょっとやそっとで揺らぐようなものではなかったのにね。ともに暮らすことで通じていると勘違いして、言葉を尽くすことを怠った。離れて暮らすいまのほうが、よっぽど頻繁に便りを交わしているくらいです」

 ぱくりと頬張って、口角が誇らしげに上がった。

「私と同じ年寄りですが、いい男ですよ。あちらで暮らすなら紹介して差し上げましょう」

「はい、ぜひ」

 晴れやかな響きをもつ提案に己自身を省みる。謝意を示す一方で、カミノはなんだか恥ずかしくなった。ソーヴァが言うように、一緒に暮らしていることで対話を怠った自覚はある。自分が蔑ろにされているように感じたのと同じくらい、カミノも夫のアベルを放置していたのではないか。彼のいいところはどこだったろう。思い返せば決して悪いことばかりではなかったのに、カミノの中で彼はすっかり悪者になっている。

 ソーヴァの公正さに照らされて、己の身勝手さが浮き彫りになる。

 そわりとした不安が背すじを走った。自分はすべき努力から目を背けて早まっているのだろうか。

「おや、決意が揺らいでますか?」

 年長者の勘は鋭い。カミノは慄然としながらも、彼の眼差しを受けてかえって肝が据わった。暗い靄を振り払うように首を振る。

「いえ、私はまず一人で立たなければいけないので」

「おお」

 ソーヴァが初めて破顔した。

「それなら背中を押しましょう。場所を移したら、ぜひあなたの話を聞かせてください」

 その日、二人は星が瞬きだす時間まであらゆることを話し込んだ。身の上話から、法律上の制度や手続きの話まで。相談室に設えられた内線は一切鳴らず、きっとリンネが気をきかせたのだろう。

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