Day.21 缶詰

 日々を暮らし、時間をかけて整えてきた家に愛着がないとは言わない。ただ情けないことに、そこで積み重ねた時間にどれだけ愛着が持てるかというと甚だ疑問が残る。

 カミノは自宅に戻るとそそくさと自室に向かい、空のスーツケースに追加の私物を詰め込んだ。

 もともと入っていた中身は、レイヤに貸し与えられた部屋にまとめて置いてきた。家事を手分けできるならかえって楽でいいなどと、どこまでが建前で本音なのか判断がつきかねるが、彼女がことあるごとに「他人の都合ばかり持ち出すな」と叱咤してくれるのが身にしみた。

 苛立ち含みのレイヤの声が飛んでくると、無意識のうちに殊勝なふりをして相手に従ってみせるくせがついていたことを思い知らされる。言われて己を振り返れば、卑屈な意識が細くねじれた根を張っているのがあちこちに見て取れて、そわりと身の毛がよだった。

 あれからというもの、耳を澄ますと時折炎が爆ぜる音がしている。

 炎が盛んに燃えているうちが勝負だ。スーツケースを一度クロゼットの中におさめ、部屋の戸を元の通りに閉じた。

 さて、やることはたくさん、気持ちの上ではとうぶん缶詰である。実質の引っ越し準備のはじまりだ。

 まずは勤め先のベーカリーに向かった。さっと回り込んだバックヤードではオーナー夫妻が待ち構えており、カミノを向かいに座らせるとポットからコーヒーを注いでくれた。

「まさかセイジさんも来てくださるとは」

「当たり前でしょ、従業員から深刻な調子で『お話があります』なんて言われたら」

 夫がパン職人、妻が事務方の一切を仕切っている。ベーカリー〈ララ・アンド・セイジ〉は夫妻のファーストネームをそのまま店名に掲げていた。それは商売をするうえで、また暮らしていくうえでの結束と覚悟の証だ。この二人の関係は生業とかたく結びついている。

「で、辞めちゃうの」

「あっバカなんで言っちゃうのよ」

 日々の製パンで鍛えられた太い腕にのって夫のセイジが身を乗り出すと、小柄ながら肝の据わった妻のララがすかさず平手を繰り出す。仕事中はなかなか見られないが、カミノはこの夫婦のやりとりを見るのが大好きだ。

「辞めはしないです、ただちょっとご相談が」

「「あーよかった」」

 どっと背もたれに寄りかかるタイミングも同時で微笑ましい。カミノは努めて顔を引き締めつつ話を続けた。

「ちょっと、あの、一人で暮らしていけるようになろうかなと」

「おっ、いよいよ?」

「だからアンタは」

「え」

 長々と説明するつもりで準備していた台詞がまっさらに漂白されてしまう。それくらい、夫妻の反応はあっさりしていた。むしろ乗り気ですらある。

 夫の口の軽さをララが補った。

「あのね、ご家族というか旦那さんの話になると、あなた貝みたいに黙ってしまうでしょ。顔は笑ってるけど」

「そ、そんなにわかりやすかったですか」

「まあ、僕でもわかるくらいだからね」

 みんな気づいてたと思いますよ、とにこにこしつつ、二人のまなざしは真剣だ。

「よく働いていただいてるから、一人で身を立てるなら働き方変えてもらってもいいよねってさっき話してたんですよ」

「フルタイムとかね」

「できることなら辞めないでほしいしね」

 連絡を入れてからのわずかな間にそこまで考えていてくれたらしい。カミノの胸がじわっと熱くなる。

「そんなに言っていただけて嬉しいですけど……いえ」

 言いかけて、頭の中のレイヤとルミナに怒られる。慌てて言い直した。

「嬉しいです、ありがとうございます。でも、出勤ペースはこのままで」

「あ、そうですか?」

 セイジの眉がすこし下がった。カミノも大概だが、わかりやすいのはこの人もだ。案の定、ララの目が笑っている。

「気が変わったらいつでも教えてちょうだいね。……ところで」

 夫妻が顔を見合わせる。

「「住むとこどうすんの?」」

 わあ揃ったあ、と一回りも上の二人がはしゃぐので、カミノも一緒になって大笑いしてしまった。流れで精霊界との関わりの話をすると、二人ともえらく食いついてくる。

 カミノは心底ほっとしている自分に気がついた。

 つい口が滑らかになってしまって、スタッフがしびれを切らして呼びに来るまで、夫妻とたっぷり話し込んでしまったのだった。

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