Day.12 坂道
ルリアスはカミノを壁際に招き、その膜状の曲面に並んで背を預けた。重みで沈み込んだ壁は二人をすっかり覆って足元で閉じ、部屋から分かたれた球形の舟となる。
坂道をのぼるように足元の曲面へ踏み出すと、泡はころりと転がってわずかに前進した。カミノはルリアスに倣って足取りを合わせながら、少しずつ歩みを進めた。ふと鳥のかたちをした足漕ぎボートを連想する。しかしここは水の底、周りにはボートではなく魚や魚に似た細長い何かが泳ぎ回っていて、カミノたちの舟を器用にすり抜けていく。衝突寸前まで突進してきたなにかが目にも留まらぬ速さで急旋回するさまに毎度肝を冷やしたが、そうやって大きなものと戯れるのが彼らの習いのようだった。
世にも珍しい水中遊泳は間もなく別の大きなあぶくにぶつかって、弾んだのちにぷつんと呑み込まれた。押し出されてつんのめるカミノの隣でルリアスが優雅に足を降ろす。いつのまにか水面に近づいていたようで、上方から差し込む光が青い影を落としながら室内の様子をあきらかにした。
六本脚のアーチから、見事な細工のシャンデリアが下がっていた。わずかな光を拾って芒と輝くさまは月の如く、虹色の光沢を帯びたひとつひとつが無彩色の空間に陰影を添える。
カミノは思わず溜息を漏らす。
「暗く冷たい水底を、すこしでも明るくしようと考えて拵えたものだ」
ルリアスの声は笑みを含んで得意げだ。
「これに火を灯してほしいのだが」
「私が?」
なぜとどうやってが同時に浮かぶ。いくら火を操る精霊がいないからって、カミノのような人間を捕まえてくる必要があったのか、そもそもカミノは自分の火加減を知らない。この見るからに脆そうな泡の空間を木っ端微塵にしない自信はなかった。
「台無しにしてしまう気が」
「私の目に狂いはないと思うがな」
ルリアスにシャンデリアの真下まで押しやられる。見れば見るほど美しいそれは階層ごとに大きさの違う貝殻で構成されていて、最下層には花弁を象った受け皿。なにか白く丸みを帯びたものが綺麗に並べられている。
(……骨?)
ぎょっとしてルリアスを振り返り、危うくぶつかりそうになった。背後に控えていたルリアスはカミノを安心させる笑みをつくってから、同じく受け皿の上にまなざしを落とす。
「ここへ火をくべる」
「いいんですか、骨も燃えてしまうんじゃ」
「ほう、骨とわかるか」
憂いに沈んだ瞳にふたたび好奇の光が躍る。他人のことはよくわかるのだな、と憎まれ口のおまけがついた。
「良い。やろう」
困ったのはカミノだ。炎と戯れた時期もあったがそれは幼い日々のこと、この火が他人を脅かし傷つけかねない異物であると理解してからは努めて封じてきたため、探り当てた火種も出口を見つけきれずにいる。さまよう炎は焦りとなってカミノを掻き乱し、指先が冷たくなっていく。
固く組み合わせた両手に、ルリアスの手が添えられた。
「手は自他の架け橋、つなぐためのもの。おぬしの炎はずっと、安心して迎えられる場所を探してきたのだな」
導きにしたがって、てのひらがじんわりと温まる。みぞおちのあたりで火の車がからからと音をたてて回り、迷いのない細い流れを送り出していく。どっと流れ込み指の間から漏れ出した光ははじめは曙光のように鋭くほとばしり、やがて渦を巻いて立ち上がった。
橙色のあたたかな炎が、両手の間でごうごうと燃えている。カミノはそれを、信じられない思いで見つめた。
「怖がらずともよい。私がついている」
背中を押されて、炎を受け皿にうつす。途端に骨がカラカラと鳴り、炎に貫かれて星座のようにつながった。カミノよりひとまわり大きな手のひらがひらりと舞い上がり、炎をまとったまま貝殻のひとつひとつを撫でていく。反射し、増幅され、あたたかさを帯びた光があたりの彩りを浮かび上がらせた。鱗のきらめき、水流のゆらぎ、ルリアスの頬にのぼる朱色の喜び。
それを目にしてなぜだか目頭が熱くなったカミノの感情の昂りは、そのまま炎の勢いにあらわれた。
「わっ」
黄金色の火柱に目が潰れ、咄嗟に顔を背けたが収め方がわからない。骨の手がカラカラと慌てているのが横目に見えて、申し訳ない気持ちでいたところへ今度は渦を巻く水柱が立った。火柱はみるみるおとなしくなり、カミノの両手におさまるほどの大きさに落ち着く。
『まったく、世話の焼ける』
『でも兄さま、おかげでずいぶん明るくなりましたよ』
水柱が喋っている。シャンデリアが煌々と君臨しているおかげで、水流にあらわれる凹凸が人の顔をかたちづくっているのもよく見えた。
「あの、こちらの方々は……」
「ああ、私の家族だ」
その声色の、表情の柔らかいこと。彼らがルリアスにとって特別だということはカミノにもひと目でわかった。
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