Day.7 引き潮

 明日も同じ頃に門がひらくと予測を立てて、ルミナたち兄妹はあらためてカミノを招待してくれることになった。

「心身の回復を望むなら、今の暮らしから一度離れたほうがいい」

 妹のルミナよりも兄のステラのほうが深刻な顔をして勧めるので断れず、また断る理由もなかった。休暇というより休養に近い。心当たりはあった。

 カミノは帰宅してから手早く夕食の段取りをし、旅支度のために自室へ籠もった。仕事を休む二、三日の間だけとはいえ、あちらでの時間は伸び縮みするという。滞在期間が実質どれだけになるのかはっきりしないので、カミノは一週間をまかなえるだけの服をスーツケースに敷き詰めた。それから、買ったまま読めていない本のなかから三冊、長く連れ添いよく読み返す本のなかから二冊をくくって角におさめる。ふと思い立って、クロゼットの奥からパーティードレスを引っ張り出した。艶のあるフォレストグリーンの生地に金糸の刺繍を施したチュールを重ねた、身体に沿う形のドレス。大柄で赤い髪のカミノに間違いなく似合う、と店の人が奥からわざわざ出してきてくれたものだ。ふわりとみっつに折り畳んで、クロスしたバンドにはさむ。

 スーツケースの中をまじまじと眺めて感じ入る。自分のことだけ考えるのは実に久しぶりで、それがそのままケースの中身にあらわれていた。

 そこへ、玄関から重い息を引きずってくる足音。夫・アベルの帰宅である。ただいまの代わりのため息はこちらの気分まで重くさせる。カミノはひとまずスーツケースを閉じた。

 皮をぱりぱりに仕上げたチキンの香草焼きに具沢山のミネストローネ、ベーコンを混ぜ込んだマッシュポテト、生き残りのパンは霧吹きとオーブンで復活させる。温め直した料理を盛り付けながら、カミノは感情が平坦になっていくのを自覚した。食べることは好きだから、献立の主導権はカミノにあり、夫は文句を言わずに平らげる。苦手なものがあれば、黙って残す。それを処分するたびに、カミノのなかの何かが削られていく心地がする。栄養バランスに配慮することをやめてしばらく経っており、健康に良いからと苦手なものをわざわざ勧めることもしなくなった。心配のほとんどが徒労であると認めてしまうと、悲しいけれどずいぶん楽になるものだ。守る対象を自分だけに限ってしまえば、ダメージは最小限で済む。日々を彩るはずの喜びもまた、失われていくけれど。

 食事が一段落ついたのを見計らってカミノが数日家を空けることを伝えると、夫の反応はあっさりしたものだった。空いた皿を脇によけてどっと肘をつき、カミノの顔も見ずに言う。

「まあ、羽のばすのもたまにはいいんじゃない」

 この数日の出来事を説明するのは難しい。特に後ろめたいことはないのだが、たまたま連休をもらえたので実家に顔を出しに行く、ということにしておいたのだ。

 ひとまずほっとしたのも束の間、夫の言葉には続きがあった。

「出かける前に家のことやってから行ってね。あとさ、俺はべつに外で食べるからいいけど、冷蔵庫の中にあるものなんかは気をつけたほうがいいんじゃない」

 冷凍しとくとかさ、と、いかにもわかっているふうなことを言う。

 みし、とこめかみに力が入った。亀裂が入ってなおぎりぎり持ちこたえていた堤が、一斉に崩れ去っていく音がする。

 カミノの〈日常〉が、わずかに残っていた愛のようなものを道連れにざあっと引いていった。妻として女性としてふさわしく在ろうと努めた上塗りの積み重ねを、強い引き潮がごっそりさらっていく。

 あとに残ったのは、何者にもなれなかった、ただのカミノ。

 終わりの景色は思ったより静かで、表向き何の変化もない。漠然とした寂しさと、清々しいほどの開放感だけがあった。曖昧に返事をしながら、自分のこの態度が良くなかったのか、と腑に落ちる。その思いすらも流れに乗ってあっという間に遠のいていく。

 潮に運ばれた失せ物が、はるか遠い海辺に流れ着くことがあるという。漂着した先で幸せになるといい、とカミノは他人事のように願った。

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