Day.5 秋灯

 夕方近くなってから、やっと鍵を取りにでかけた。

 客として訪れた勤め先は、今日も大変賑わっていた。忙しいのはいつものこと、客足が途絶えるのは嵐か雪の日くらいのものなので、気にせず正面から乗り込む。

「あら、どうしたの」

「ちょっと忘れ物を」

 そそくさと引っ込んだバックヤードでは、オーナーが眼鏡をかけて事務仕事に励んでいた。邪魔しないように静かにロッカーを開けて、目当てのキーホルダーを手にとる。ずいぶん前、旅行先にて夫婦揃いで買った地名ロゴ入りのものを、ただ壊れていないからというだけでずっと使っている。手元に戻ってほっとしたのが半分、いっそ引きちぎってやろうかと煮え立つ静かな怒りが半分。

 しかし結局、現状維持を選ぶのだ。

 大人しく鍵をポケットにおさめてから再び気配を消して立ち去ろうとすると、いきなり「寝てなくていいの?」と声を掛けられた。

「な、なんですか急に」

「だって、昨日倒れたんでしょう? さっき若い女の子が来て教えてくれたのよ」

 ルミナにちがいない。心当たりは顔に出て、オーナーはしたり顔で頷いた。

「いい子ね。きっと無理してるから気をつけてあげてくれ、って言われたわ。すっかり元気になるまで、しばらく休んだらいいんじゃない」

「もう大丈夫ですから」

「何言ってるの、そんな白い顔して」

「生まれつきです」

「あーら自慢?」

 豪快に笑い飛ばされて、ううっと言葉に詰まる。オーナーに揚げ足を取られるとひとたまりもない。

 返答に苦慮しているうちに、勤務中のはずのスタッフがどやどやとなだれ込んできた。

「カミノさん、お店なら大丈夫よ。私達で回すから」

「いつも代わってもらってるもの、借りは返すわ」

「ほんとに感謝してるのよ」

「そこまで言うとかえって嘘くさいわよ」

 店頭に立つスタッフの多くは子持ちの母親で、急に仕事に出られなくなることもままある。カミノには子どもがいないから、すすんで代打を引き受けてきたのだ。

「ちょっとあなたたち、仕事は」

「おもてはうちの守護神がまもってます」

「オーナー声大きいんですよ、お店まで響いてますよ」

 ハッと口を押さえたオーナーに、「もう遅い」と口々に野次が飛ぶ。

「ということだから、明日から三日間、ゆっくり休んでいらっしゃい」

 休むのも仕事のうちです、とみんなに釘を刺され、目を白黒させているあいだに追い出されてしまった。もともとパンを買うつもりだったカミノがぐるっと戻ってくると、「それを早く言ってよ」と何故か怒られる。

 なんだかぼうっとした気持ちのまま、トングでデニッシュをはさむ。さっきまで確定していた未来がぽーんと宙に浮いて、喜ぼうにも心の置きどころが定まらない。

 と、ポケットの端末がびりびりと震え、トレーに載せたすべてを滑り落としそうになった。

 どんぴしゃり。登録したばかりの電話番号は、ルミナからの着信を示していた。

「もしもし」

『さっきの今ですみません。どうしても見せたいものがあって』

「ちょうどよかった。私もあらためてお礼したいと思ってたところなの」

 通話を終えて、さらにふたつ、アプリコットとマロンのペストリーを追加した。包みを分けてもらい、ルミナへの手土産とする。

 赤みを帯びた日射が青い影を落とす。時折ひんやりと冷たい風が通りをよぎって、身を寄せ合った学生たちがひゃあと悲鳴をあげた。ルミナよりすこし下くらいだろうか、カミノがあれくらいの頃は、群れをなしてはしゃぐ同世代の女の子たちが羨ましかったし怖かった。あれは武装だ。隔てなく振りまく笑顔の内側で、敵味方を冷静に選り分けて砦を固めている。曲がりなりにも同じ側の人間として、いざというときに備えて忍ばせた毒の激しさを知っているから、一見無邪気にすら見えるあの明るさが恐ろしいのだった。影を隠すことが下手なカミノは彼女たちの輪にはうまく入れず、また彼女たちもカミノの影には触れずにいてくれた。それが優しさとまでは言わずとも、一定の配慮であることもわかっていた。

 安心して居座れる場所がずっと欲しかった。年齢を重ね、周りの人たちが続々と手に入れていくもの。簡単そうに見えるのに、カミノにはどうしてもうまくいかない。

 ルミナは公園の入り口に軽く寄りかかって待っていた。色づいた木立を街灯がまるく照らし、薄闇のなかでいっそう鮮やかに映る。

 挨拶もそこそこに、ルミナはカミノを引っ張っていく。

「そんなに急いでどうしたの」

「いえあの、実はちょっとぎりぎりで」

 ぽつりぽつりと明かりが落ちる園内を突っ切り、川べりに出たところでルミナはやっと止まった。特になにかがあるようには見えず、秋灯の下、ベンチに腰掛けたおじいさんが新聞を広げているばかりである。

 ルミナはその老人に、息せき切って声をかけた。

「まだ間に合う⁉」

 にこにこと顔を上げた老人はゆっくり立ち上がり、どうぞとばかりに場所をあける。すると明かりに照らされたあたりがゆらゆら波立って、カミノは思わず目を疑った。

 ルミナがカミノの手をとる。

「あのなかに飛び込みます、私に合わせてください」

 返事をする間もなかった。足に力を溜めるルミナをなんとか真似て、二人並んでぴょんと飛ぶ。そして水面を突き破るような感触のあとは、なにもわからなくなった。

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