曹操と曹丕

 一方、そのころ、司空府では――曹軍の兵士たちが、「落下物」の魚を正房せいぼう(中国の伝統的な四合院しごういん造りにおいて、母屋にあたる北の建物。家長とその妻が居住)前の広場に並べていた。


 わずか数分のあいだに降りそそいだ魚の数は、ざっと数えただけでも百匹をこえている。そのうちの約半分は、落下時に人とぶつかったり、剣や槍で払い落とされたりして、すぐに死んだ。あとの半分は、時間が経過するにつれて弱ってきているようだが、まだ生きてはいる。


 曹操はこれらを、死んでいる魚を東側、生きている魚を西側に置くよう指示していた。


 そうやって区別することに深い思惑があったわけではない。兵士たちの中に「どうせ捨てるのなら食べたい」などと、食い意地の張った司馬懿みたいなことを言い出す連中が三、四十人ほどあらわれたため、検分が済んだら生きている魚のみを下げ渡すつもりなのである。


 空から降ってきたというだけでも不気味なのに、死んでいるものとなるとさらに気味が悪いし、口にしたら危険かも知れない。しかし、生きている魚ならまあいいか……。曹操はそう考えたわけであったが、「生きているほうなら安全」という判断に、特別な理由があったわけではこれまたなかった。


(うちの兵どもは、何故なにゆえこんな気色悪い物を食べたがるのだ。ええい、面倒じゃ。食いたかったら食え。腹を壊しても知らんぞ)


 と、半ばヤケクソになっていたのだ。


 オカルト否定派の曹操は、こういう非論理的な超常現象に遭遇するのが大嫌いである。


 若い頃は、単に合理主義的な立場から迷信というものを鼻で笑っていたが、後漢王朝の政治を牛耳ぎゅうじるようになるにしたがって、



 ――天下におのれが掌握できぬことが存在してはならぬ。



 という強い自負心を持つようになった。


 そのため、今回のように、この世のことわりを超越した超常現象に翻弄されるようなことがあれば、曹操は我慢がならないのである。激しい苛立いらだちのため、持病の頭痛が悪化し、さっきから頭が割れるほど痛かった。これではろくに正常な判断もできない。面妖極まりないこの怪事件を一刻も早くに丸投げし、解決させたかった。



「なあ、孟徳兄貴。こんな魚、どうして司空府に持ち帰ったんだよ。城の外に捨てさせちまえばよかったのに。ひでぇ魚臭が司空府に充満しちまっているぞ。このままだと、屋敷の柱にまでこの臭いが染みつくぜ?」


 ちょっと前に気絶から復活していた曹洪が、鼻をつまみながら文句を言った。後ろに控える数人の武将たちも、ウンウンとうなずいている。


 ちなみに、卞夫人べんふじんや側室たち、曹家の子供らは、すでに奥の部屋に下がっていた。また変事が起きると危ないため、今日いちにちは外に出ないほうがいいと夏侯淵かこうえんが助言したからである。


「捨てるのは、丕に見せてからだ。あの怪異狂いならば、魚たちを手がかりに、この怪現象の原因を突き止めるやも知れぬ」


 胡床こしょう(西域伝来のイス)に腰掛けている曹操は、兵たちの作業を凝視みつめつつ、そう答えた。


 兵たちは、うんざりとした顔で、黙々と魚を並べ続けている。単純に魚臭いのが不快ということもあるが、作業の監督役である劉勲りゅうくんが先刻からずっと怒鳴り散らしているのに辟易へきえきしているのだ。


「おらおら! その魚、まだ生きているぞ! 死んでいるほうに置くな馬鹿者! 急いで並べなおせ! ったく、使えねぇ奴らだなぁ!」


 劉勲は、非常に機嫌が悪かった。


(畜生めが。新妻が仕立ててくれたばかりの衣服で、こんな臭い作業をするはめになるとは。何故なにゆえ、この俺がかくのごとき雑務をやらねばならんのだ。曹操は、旧知の間柄の俺を、何だと思っていやがる)


 と、怒っているのだ。


 なぜこんな罰ゲームみたいなことをやらされているのか。理由はひとつである。このタヌキ顔の将軍は、魚の雨で皆がパニックになった際、いち早く近くの建物に駆け込んで、必死に混乱を収拾させようとしていた曹操や他の諸将を助けなかったのだ。


 劉勲は、袁術えんじゅつに仕えていたころ同僚だった楊弘ようこう張勲ちょうくんを待ち伏せして命と財産を奪った。また、最近では、若い時代から苦楽を共にした糟糠そうこうの妻の王宋おうそうをあっさり離縁して、年若い新妻を迎えた。すがすがしいまでに義理と人情をわきまえぬ男なので、主君や仲間の危機に背を向けて自分だけ逃げることなど、平気の平左衛門だった。どさくさのことなので誰にも気づかれてはいまい、とたかをくくっていたのだ。


 だが、曹操は、どんな非常事態であっても部下たちの一挙一動に目を光らせているような男である。劉勲のこの背信行為を気づかぬはずがなかった。曹丕が司馬懿に語ったように、曹孟徳という男は、のほほんとした気持ちで仕えていられるような主君ではないのだ。ましてや、窮地に陥った自分を助けぬ部下など、許すはずがない。



 ――劉勲。兵たちを指揮し、魚を司空府まで運べ。正房前の広場にすべて並べるのだ。お前も兵にまじって作業せよ。



 魚の雨がやんで混乱がしずまった後、劉勲が何食わぬ顔でこっそり戻って来ると、曹操は冷厳なる声でそう命じたのであった。


 孫策に領地を奪われ逃げて来た劉勲を見捨てず、今まで引きたててきてやったのは、「曹操は、寄るを無くした旧友を助けもしないのか。不仁なる者よ」という評判が名士たちの間で立つことを恐れたからである。


 しかし、怠惰な性格の劉勲は、何をやらせても人並み以下の成果しか出さない。能力至上主義者の曹操にとっては、これは我慢ならない勤務態度だった。しかも、主君を置いて自分だけスタコラサッサと逃げるようでは、もはや生かしておく理由が見当たらない。


(胸に秘めし我が野望の達成のため、劉勲にはまだほんの少しだけ利用価値が残っている。その利用価値を使い切り次第、適当な罪をでっちあげて殺してしまおう。それまでの間は、他の者たちが嫌がりそうな汚れ仕事をやらせておけばよい)


 魚の雨事件で逃げたことによって、劉勲の処刑の運命は、ここに確定したのであった。


 が、人を平気で裏切るくせに呆れるほど呑気な性分の劉勲は、曹操がまさかそこまで考えているとは、夢想だにしていない。嫌々ながらも働き、ようやく全ての魚を並べ終えた。



「……はぁ~疲れた。主公との、終わりましたよ」


「フン。ご苦労」


 劉勲が報告しても、曹操はタヌキ顔に一瞥いちべつもくれない。立ち上がって「子廉しれんよ」と曹洪に声をかけた。


「少し席を外すゆえ、子桓が戻ったら知らせてくれ」


「別にいいけど。んで、どこへ行くんだ? う〇こ?」


「ちがう。兵士たちのはんとなるべき将軍が大声で汚い言葉を使うでない。……病のゆうちゅうを見てくるのだ。あと、孫のえいにも会いたいからな」


 ずっと華佗かだ邸に預けられていた曹叡そうえいが、度朔君どさくくんにその命を狙われて死にかけたことをきっかけに、曹丕夫妻と司空府で暮らすようになった。卞夫人からそう聞かされていたため、ほとんど会ったことがない孫の顔を見ておきたいと思ったのである。


 だが――。


「それはよろしくありませんな。当分は、我が息子や病弱な弟たちを訪ねるのは、お控えください」


 そう言って止める者があり、曹操は歩を止めた。


(この声は……)


 白粉をやや厚く塗りすぎた生白い顔を露骨に歪ませる。曹操は、嫌悪に満ちたその表情をつくろいもしないまま、チッと舌打ちしながら振り返った。


 いつの間に帰って来ていたのか。そこにいたのは、ふらりと姿をあらわした曹丕だった。




            *   *   *




「息子や孫に会うのを控えろ……だと? お前は何の権限があって、親にそのような指図をするのだ。父の凱旋がいせんを出迎えもせず、どこかで遊んでいた親不孝者のくせに」


「ハハッ! 指図だなんて、とんでもない。ちょっとっした忠告ですよ。父上は遠い異郷の地に何か月もいたのです。未知の風土病を持ち帰っているかも知れない。万が一、体の弱い弟たちや我が息子の叡にたちの悪い病気をうつしてしまったら一大事です。どう責任とってくれるんだコンチクショウ、と母上や環夫人にうらまれますよ。あと、俺と水仙からもね」


「ぬぬっ…………」


 言い方がいちいちかんさわるが、曹丕の指摘は正しい。曹操は目を怒らしつつも、ムスッと黙ってきびすを返し、先ほどまで座っていた胡床に再び尻をつけた。


 そんな父親の態度を見て、曹丕は気味良さそうにクスクス笑っていたが、広場にそろっている諸将の中に曹彰そうしょう曹植そうしょくがいないことに気づいて「おや?」と首を傾げた。


「彰と植の姿が見えないようですが、どこにいるのです?」


「彰は、出立の前夜になます(魚の生肉の料理。獣の生肉の場合は「膾」と書く)を食い過ぎて、腹痛に苦しんでおる。しばらく動けそうにないゆえ、植と華歆かきんをつけて易京えきけい城に残してきた。腹痛がおさまり次第、帰還する予定だ」


「ははぁ、それは心配ですな。華歆の補佐があるとはいえ、まだ十代の二人が遠い城に残されているのは」


「フン。彰はそそっかしいところがあるが、植がおるゆえ案ずるにはおよばん。あれは、若いころのわれによく似ておる。政治や軍事に意欲的で、優秀な子じゃ。どこぞの怪異狂いの兄とは違う。

 ……それはそうと、お前の腰巾着になっているという司馬懿はどこにおる。どんな手口を使ったのかは知らんが、この曹孟徳になびかなかったあの男を飼い犬にしたそうではないか。今日は首に縄をつけて連れ回してはおらぬのか」


「司馬懿なら、今日は所用があって、自邸におります。来年に妻の出産を控えているのであいつも忙しいのですよ」


「自邸というのは、司馬懿が張繍ちょうしゅうの遺族から奪ったという、あの屋敷のことであろう」


「やあ、それは誤解です。俺のちょっとしたお茶目で、張繍の家族を幽鬼が出る事故物件に強制引っ越しさせたのです。そのついでに、司馬懿にあの豪邸を与えただけで、あいつはそんな事情ぜんぜん知りません」


「司馬家のせがれは、他にも色々とやらかしていると聞くが……。とにかく、明朝、司馬懿と会おう。息子が手懐けた犬がどれぐらい役に立つか、この目で確かめておきたいからな」


「誰に何を吹き込まれて司馬懿に敵意を持っているのか知りませんが、父上が日ごろ頼りにしているゴロツキ将軍よりはずっと役に立つ男ですよ」


 どうせ曹洪のクソジジイが司馬懿を誣告ぶこくしたのだろう――すぐにそう察した曹丕は、犬猿の仲の叔父に鋭い視線を一瞬送り、嫌味を言った。


 しかし、曹洪は、数え切れぬ悪事に手を染めているくせに、おのれはゴロツキであるという自覚がない。曹丕が誰を指してそう言っているのか気づかず、さっきからずっと鼻の穴をほじほじしている。



 それにしても、この父子、まわりがドン引きするレベルで殺伐とした関係だ。久しぶりの再会だというのに、顔を合わせてわずか数秒で険悪なムードが限界突破している。


 この場に忠犬の曹真がいたら、涙ながらに父子のあいだに割って入っただろうが、彼はあいにく病身の郭嘉かくかを屋敷に送っていて不在だった。


 まだまだ悪口雑言の応酬おうしゅうが続きそうだったので、曹軍の武将たちは「おい、誰か止めろよ……」と互いをひじでつつきあっている。


 結局、こういう場合は、一族の者が止めるしかない。曹純そうじゅんが曹操のそばへ行き、夏侯淵かこうえんが曹丕の肩を叩いて、


「まあまあ冷静に。今は喧嘩している場合ではないのだから。子桓の力が必要なのだろう?」


「お前の大好きな怪異が発生したのだ。何とか解決してくれ。困っているのだ」


 と、なだめすかした。父子のいさかいの一因を作った張本人である曹洪は、我関せずとばかりに鼻くそを指でこねていたが、この男が関わると余計にややこしくなることは皆が分かっているので、無視である。



「そうそう。そうだった。俺は空から落下してきたという魚を見るためにここへ来たのであった。父上の世迷よまごとに耳を傾けている場合ではなかった」


「お……お前なぁ……」


 曹操はイラッとなって、胡床から立ち上がりかけたが、曹純が「まあまあまあ」となだめる。


 そんな父を無視し、くるりと背を向けると、曹丕は広場に並べられた銀灰色ぎんかいしょくの魚たちを凝視みつめた。


「おい、劉勲。空から降ってきた魚はこれで全部か?」


「は、はい。主公の命令で、落下時に人や武器に当たって死んだ魚は東側、まだ生きている魚は西側に並べてあります」


「阿呆め。そんな区別に何の意味があるというのだ。落下時に運悪く死んだか否かの違いなど、どーでもいい。他に調べることがあるはずだ。もっと頭を使え、バーカ」


 うしろにいる曹操が「ひ、丕……! 貴様ぁ……!」と声を荒げたが、曹純が「まあまあまあ。あれは劉勲に言っているんだから」と再びなだめた。


「いや、あれは絶対にわれに言ってるだろッ‼」


 曹丕はひたすら父を無視シカト。劉勲の尻を乱暴に蹴り、「今すぐ、ここにある全ての魚の腹をけ」と命令した。


「へ……? は? な、何のためにですか?」


「魚の中に犯行声明的な物が入っていないか確認するのだ」


「犯行声明? いったい誰の……」


「馬鹿め。怪異を起こした犯人に決まっているだろ。これだけ派手なことをやらかす奴だ。何かしらの主義主張を我らに訴えるか、自分の存在を誇示するために声明文の一つや二つ魚の腹中に忍ばせている可能性がある」


「は……ははぁ……。公子様は、何者かが方術か何かで魚を降らせたとお考えで?」


「お前ごとき雑魚ざこ武将にいちいち俺の存念を語ってやる必要はない。ボーっと突っ立っていないで、さっさと作業を始めろ!」


「ぎゃひん⁉ ……わ、分かりました!」


 もう一度尻をしたたかに蹴られると、劉勲は(こ、こんの若造がぁ~……)と心中毒つきながらも、魚の腹を割くように兵士たちに命令した。



 何者かの方術か、悪鬼の祟りか、それとも天上の神々の怒りか。


 それはふたを開けてみねば分からない。


 今のところ、何者かの悪意で発生した怪異であると仮定し、曹丕は調査している。


 その証拠がもしも見つからなければ、別の可能性を調べることになるが……。


(これは根拠のない俺の直感ではあるが――この事件には度朔君が関わっているような気がする。だが、あの陰湿な邪神が、こんな子供の悪戯みたいな真似をするだろうか? そこがどうにも解せぬな)

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