美女の眠る墓へ

「あっ! そ、そなたは……!」


 翠苔すいたいす巨樹の陰に、芍薬しゃくやくの花のごとき立ち姿の麗人が佇んでいる。ひと目で我が想い人と判じた鍾繇しょうようは、思わず大声を上げていた。


「むっ……。こっそり様子を見るつもりだったのに、ばれてしまったか」


 左目尻に泣き黒子がある女幽鬼は、気まずそうに呟いた。先刻の一件をまだ根に持っているのである。


 女の傍らには小燕しょうえんもいて、「すみません……」と申し訳なさそうに曹丕に頭を下げた。


「危ないから出て行っちゃダメですと申し上げたのですが……聞き入れてもらえなくて」


「ふぅむ。馬超の邪悪な気配にビビって墓から逃げ出すのではと案じていたが、己の情夫が心配で逆に駆けつけてしまったか。まあ、仕方あるまい。生前は下女だったお前に、やんごとなき人の行動は止められまいよ」


 曹丕は、いつの間にか元のサイズに戻っていた泰山環たいざんかんを鞘におさめつつ、小燕を慰める。


 彼の言い草が気に食わなかったのか、女は「う、うるさい!」と不機嫌そうに怒鳴った。


「私をあざむいた鍾繇の身など、別に案じてはおらぬわ。そこで倒れている怪物に噛み殺されてしまえば良かったのじゃ。……うわ、こっち見た! こわっ!」


 地べたに這いつくばっている馬超と目が合った女は、小さな悲鳴を上げながら後ずさった。馬超の朦朧もうろうとした両眼には、美しい女幽鬼が亡き母に見えるらしく、さっきからずっと「母上ぇ……母上ぇ……」と泣きじゃくっている。


「そんなにもビビりなら、来なきゃいいのに」


「び……ビビってなどおらぬわ! そなた、ちょっと顔がいいからって生意気じゃぞ! 帝の寵姫であった私のひだりももに傷をつけおって! 裲襠うちかけ(打掛)の中の綿を引き出して、一生懸命に拭っても、まだ出血が止まらぬのじゃ! 死んだ身でこんな苦痛を味わうなど嫌すぎる! 何とかせよ!」


 白く艶めかしいももを見せつけながら、女はヒステリックに怒る。目立つほど大きな傷ではないが、たしかに傷口から血が溢れ出していた。


「まあ、その内に治りますよ。そもそも死んでいるのだから、出血多量で大事になる心配も無いでしょうに」


「そーいう問題ではない! 私は痛いのは嫌なのじゃ!」


「それよりも、こんな場所で立ち話も何ですから、貴女あなたの眠っている場所へ案内してください。そこでゆっくり話しましょう。夜明けまであまり時間はありませんが」


「くっ。このオレ様男、絶望的なまでに他人の話を聞かぬ。調子が狂うのぉ~。……ええい、来たかったらお前たちが勝手に来い! 案内などしてやるか!」


 頬を膨らませながら顔を背けると、女はフッと姿を消してしまった。


「あっ……ちょ! わしと一言も喋ってないのに……」と鍾繇が悲しげな声を上げる。


「やれやれ。高貴な女は高飛車で、ピーピー文句ばかり言うから困る」


「いや、貴方の態度が無駄にでかいせいでしょうが……」


 クスクス笑っている曹丕に、司馬懿は呆れてツッコミを入れるのであった。




            *   *   *




 曹丕と司馬懿、鍾繇、小燕は、林道を抜けて、桓帝かんていの寵姫が眠る陵墓へと向かった。


 龐徳ほうとくと馬休は、曹丕の命令で馬超の見張りをしている。もしも虫の息の状態から復活して暴れ出したら、龐徳が食い止めている間に馬休が走って知らせることになっている。


「ここが、お墓の入口の石門です」


 陵墓内に一度入っている小燕が、南に面して立つ石門を指差す。石門の上部には、数匹の神龍が刻まざれていた。


「儂も来たことがあるゆえ、知っておる」


 鍾繇は先頭に立って石門をくぐり、陵墓の中へ足を踏み入れた。曹丕たちもその後に続く。


子桓しかん様、ご覧くだされ。墓室がいくつもあり、美しい壁画が施されていまする。儂は、董卓軍や盗賊によって破壊された漢王室の陵墓をたくさん修復してきましたので、この墓を発見した際に、ここが皇族関係者の陵墓だとひと目で分かりました」


「ああ。政庁の書庫室でお前が作成した陵墓修復の記録を見つけて読んだから、知っている」


「そうでしたか。……されど、ここの墓の主がどなたなのか判明するのには、いささか時間がかかりまして。実は、賊にさんざん荒らされた形跡があり、しかもこの墓室内で激しい争いが――恐らくは賊が何らかの理由で同士討ちしたのでしょうが、副葬品の多くが破損している酷いありさまだったのです。墓の奥にあった石牌せきはい(副葬品の目録を刻んだ石板)を見つけて、ここが四代前の帝の寵姫が眠る陵墓だとようやく分かりました」


 かび臭い通路を歩いて陵墓の主室に辿り着くと、鍾繇は壁に取り付けられている燭台に火をともし、足元に転がっていた石牌を拾い上げた。その石牌には、


 ――馮貴人ふうきじん常用の戒指かいし(指輪)。


 と、刻まれている。恐らく帝から賜った埋葬者の宝物で、他の品物と一緒にこの部屋に副葬されていたのだと思われる。


 しかし、指輪らしき物はどこにも見当たらない。それどころか、副葬品もわずかしか残っておらず、一部が割れた鏡と化粧盤(硯の形状で、化粧に用いた道具)が辛うじて安置されていただけであった。


 よく観察してみると、室内の壁のあちこちに刀傷がある。賊たちが争った形跡だろう。


「荒れ果てていた墓室内を兵たちに清めさせ、崩れていた石門を修復し、馮貴人の魂を慰めたつもりだったのですが……。洛陽復興のために莫大な金がかかって財政難ゆえ、副葬品を元通り整えてさしあげることができませんでした。馮貴人はきっと、そのことを立腹しているのでしょう」


 石牌を凝視みつめながら呟く鍾繇の声は暗かった。

 曹丕が自分をここに連れて来たということは、我が想い人が何者であったのか教えられたも同然である。


 死者とはいえ、儂は帝の寵姫と情交を結んでしまった――己が犯した罪に、鍾繇はいまさらながら恐懼きょうくしていた。そして、彼女は陵墓を十分に修復しなかったことを怒って、自分を腹上死させようとしたのだろうと思うと、申し訳なさと後悔で暗澹あんたんたる気分に陥るのであった。


「いや、お前は十分に馮貴人の魂を慰めたさ」


 そう言う曹丕の声音は、珍しく優しい。棺に歩み寄り、蓋棺がいかんの上に置かれていた一巻の書を手に取った。


 フム……と呟き、曹丕は、その書にしたためられた詩文を飛ばし飛ばしに読み上げる。


「『碩人せきじんかおよし』(麗しい彼女はすらりと背が高い)……『手はやわらかつばなの如く はだりたるあぶらの如し』(その手は柔らかいかやの新芽みたいで お肌は固まった脂みたいにプルルンとしている)……。この竹簡に記されているのは、えい荘公そうこうの寵姫、荘姜そうきょうの美貌をうたった古歌だな。万金に値する、素晴らしい麗筆だ。お前が馮貴人のために書いたのであろう」


「は、はい。ろくな副葬品が無いままではあまりにも不憫だと思い、いにしえの美女になぞらえて馮貴人を称賛する文をしたためたのです。……しかし、よくよく考えたら、荘姜は子を産めなかったため晩年は不遇であったとか。漢王室のお妃を讃える文としては、ふさわしくなかったやも知れませぬ。こんな無礼な書を贈ったことも、彼女の怒りを買った理由の一つなのでしょう」


「何を言う。怒るどころか、お前の美しい書を見て喜んだに決まっているさ。それゆえ、お前の子を産むために逢瀬を重ねていたのだ。本人もそう言っていたではないか。忘れたのか?」


「……されど、子桓様や龐徳殿に助けてもらわなかったら、儂はあのまま正気に戻らず、激しい性交の末に命尽きているところでした」


「まあ、そこは世間知らずなお妃だからな。自分は幽鬼で体力が無尽蔵だし、加減というものが分からなかったのだろう。俺も最初は悪鬼化した馮貴人がお前に祟っていると睨んでいたが、途中で考えが変わった。『そなたの子を産んでやろうと思ったのに』と言いながら流した彼女の涙に嘘偽りは無かったはずだ」


 そう言いつつ、曹丕は棺の蓋をそっと撫でる。


「さてと……。おい、仲達。この蓋棺をどけるから手伝え。いちおう、をする必要があるからな」


「えっ、棺の中を確かめるんですか? 桓帝の妃ということは、馮貴人は数十年以上前の人ですよね。棺を開けても、とっくに骸骨化しているのではありませんか? 髑髏どくろなんか見たところで、あの女幽鬼と同一人物か確認できるはずが――」


「いや。俺が知っている馮貴人の怪異譚が事実ならば、きっといまも骸骨化していないはずだ」


「骸骨になっていない? それはどういう意味ですか?」


「いいから早くしろ。お前も馬超みたいに泰山環でお尻ペンペンされたいか?」


「わ、分かりましたよ。まったく、もう……」


 司馬懿は渋々、曹丕と一緒に蓋棺を取り払い、下に置いた。


「し、子桓様。皇帝のご側室の棺をあばくのは、さすがにまずいのでは? 今度こそ本気で祟られてしまいまするぞ」と鍾繇は心配そうにしている。


 だが、曹丕はいっこうに気にしていない様子である。


「ほら、鍾繇もこっちに来い。俺がついているからビビるな。祟られたら何とかしてやるさ」


「は、はあ……」


 皆で棺の中をのぞくと――本来ならば葬玉の習わしに従って遺体は玉衣に覆われているはずなのに、玉衣が見当たらなかった。賊が侵入した際に、剥ぎ取られてしまったのだろう。


 だが、司馬懿や鍾繇が驚いたのは、玉衣の有無などではない。棺の中に、左目尻に泣き黒子がある麗人が静かに眠っていたことだ。


 眠っていた、と表現するしかあるまい。

 手はやわらかつばなの如く、はだりたるあぶらの如し。容色は生ける人間と変わらず、絶世の美女がただ昼寝をしているようにしか見えなかったのである。


 下半身のほうに目をやると、左股に血が滲んでいる。また、身にまとっている赤い裲襠うちかけの裾が引き裂かれ、中の綿がこぼれていた。棺の中には赤く濡れた綿がいくつも転がっているので、これで血を拭ったのだろう。


「これはもしや、公子様が女幽鬼につけた傷……」


「その通りだ。死体に首が無ければ、その者は首無し幽鬼となる。幽鬼は本人のしかばねに大きな影響を受けるもの――前にそう教えてやったな。その逆もまたしかり。幽鬼が己の屍に影響を与える場合もあるのだ。俺に霊体を傷つけられた彼女は応急手当をしていた。それゆえ、ご覧の通り屍も同じ状態なのだ。……さて、これで答え合わせはできたな。鍾繇が愛した女幽鬼の正体は、まぎれもなく、この墓の主の馮貴人だ」


「う、ううむ……。それにしても奇怪な。数十年を経ても遺体が全く腐っていないとは」


「墓を掘り起こしたら死体が腐っていなかったとか、埋葬者がまだ生きていたとかは、まあまあよく聞く怪異譚だ。しかし、彼女……馮貴人の場合は、遺体が生前と変わらぬ美貌を保っていたがゆえに、霊帝れいてい(後漢の十二代皇帝。献帝の父)の御世みよに死者の身でありながらとんでもない恥辱を受けることになった。その一件があったから、俺は彼女が悪鬼化していて、陵墓を訪れた鍾繇に災いをなしていると考えていたのだ」


 曹丕が淡々とそう語ると、鍾繇が眉をひそめて「とんでもない恥辱ですと? それはいったい何ですか」と問うた。


 だが、曹丕はすぐには答えず、ぽけ~っと話を聞いている小燕にチラリと視線を向けた。


「小燕。お前はもう冥界に帰っていいぞ」


「ほへ? あの、何かまだお役に立てることは……」


「もう無い。さっさと帰れ。しっしっ」


「は、はわわ……。私は犬じゃないですよぉ~。分かりました、今日は帰ります」


 小燕は、曹丕と主人の司馬懿、ついでに鍾繇にも頭を下げると、フッ……と姿を消した。


 彼女が幽鬼だという説明を受けていなかった鍾繇は、わずかに目をみはったが、それほど大きな衝撃は受けていない様子である。空とか飛んでいたので、普通の子供ではないと薄々察していたからだ。


「さて、邪魔者は消えたな」


「邪魔者って……。うちの小燕を雑に扱うのやめてくださいってば」


「邪魔者は邪魔者だ。いまから語る内容は子供には聞かせられん」


「子供には聞かせられない……というのは馮貴人のことですか?」


「ああ、そうだ。これは漢王室の秘事中の秘事ゆえ、あまり大声では言えんが――彼女の遺体は、盗掘者の賊たちによって凌辱された。大勢に屍姦しかんされたのだ」

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