美女の眠る墓へ
「あっ! そ、そなたは……!」
「むっ……。こっそり様子を見るつもりだったのに、ばれてしまったか」
左目尻に泣き黒子がある女幽鬼は、気まずそうに呟いた。先刻の一件をまだ根に持っているのである。
女の傍らには
「危ないから出て行っちゃダメですと申し上げたのですが……聞き入れてもらえなくて」
「ふぅむ。馬超の邪悪な気配にビビって墓から逃げ出すのではと案じていたが、己の情夫が心配で逆に駆けつけてしまったか。まあ、仕方あるまい。生前は下女だったお前に、やんごとなき人の行動は止められまいよ」
曹丕は、いつの間にか元のサイズに戻っていた
彼の言い草が気に食わなかったのか、女は「う、うるさい!」と不機嫌そうに怒鳴った。
「私を
地べたに這いつくばっている馬超と目が合った女は、小さな悲鳴を上げながら後ずさった。馬超の
「そんなにもビビりなら、来なきゃいいのに」
「び……ビビってなどおらぬわ! そなた、ちょっと顔がいいからって生意気じゃぞ! 帝の寵姫であった私の
白く艶めかしい
「まあ、その内に治りますよ。そもそも死んでいるのだから、出血多量で大事になる心配も無いでしょうに」
「そーいう問題ではない! 私は痛いのは嫌なのじゃ!」
「それよりも、こんな場所で立ち話も何ですから、
「くっ。このオレ様男、絶望的なまでに他人の話を聞かぬ。調子が狂うのぉ~。……ええい、来たかったらお前たちが勝手に来い! 案内などしてやるか!」
頬を膨らませながら顔を背けると、女はフッと姿を消してしまった。
「あっ……ちょ!
「やれやれ。高貴な女は高飛車で、ピーピー文句ばかり言うから困る」
「いや、貴方の態度が無駄にでかいせいでしょうが……」
クスクス笑っている曹丕に、司馬懿は呆れてツッコミを入れるのであった。
* * *
曹丕と司馬懿、鍾繇、小燕は、林道を抜けて、
「ここが、お墓の入口の石門です」
陵墓内に一度入っている小燕が、南に面して立つ石門を指差す。石門の上部には、数匹の神龍が刻まざれていた。
「儂も来たことがあるゆえ、知っておる」
鍾繇は先頭に立って石門をくぐり、陵墓の中へ足を踏み入れた。曹丕たちもその後に続く。
「
「ああ。政庁の書庫室でお前が作成した陵墓修復の記録を見つけて読んだから、知っている」
「そうでしたか。……されど、ここの墓の主がどなたなのか判明するのには、いささか時間がかかりまして。実は、賊にさんざん荒らされた形跡があり、しかもこの墓室内で激しい争いが――恐らくは賊が何らかの理由で同士討ちしたのでしょうが、副葬品の多くが破損している酷いありさまだったのです。墓の奥にあった
かび臭い通路を歩いて陵墓の主室に辿り着くと、鍾繇は壁に取り付けられている燭台に火をともし、足元に転がっていた石牌を拾い上げた。その石牌には、
――
と、刻まれている。恐らく帝から賜った埋葬者の宝物で、他の品物と一緒にこの部屋に副葬されていたのだと思われる。
しかし、指輪らしき物はどこにも見当たらない。それどころか、副葬品もわずかしか残っておらず、一部が割れた鏡と化粧盤(硯の形状で、化粧に用いた道具)が辛うじて安置されていただけであった。
よく観察してみると、室内の壁のあちこちに刀傷がある。賊たちが争った形跡だろう。
「荒れ果てていた墓室内を兵たちに清めさせ、崩れていた石門を修復し、馮貴人の魂を慰めたつもりだったのですが……。洛陽復興のために莫大な金がかかって財政難ゆえ、副葬品を元通り整えてさしあげることができませんでした。馮貴人はきっと、そのことを立腹しているのでしょう」
石牌を
曹丕が自分をここに連れて来たということは、我が想い人が何者であったのか教えられたも同然である。
死者とはいえ、儂は帝の寵姫と情交を結んでしまった――己が犯した罪に、鍾繇はいまさらながら
「いや、お前は十分に馮貴人の魂を慰めたさ」
そう言う曹丕の声音は、珍しく優しい。棺に歩み寄り、
フム……と呟き、曹丕は、その書にしたためられた詩文を飛ばし飛ばしに読み上げる。
「『
「は、はい。ろくな副葬品が無いままではあまりにも不憫だと思い、
「何を言う。怒るどころか、お前の美しい書を見て喜んだに決まっているさ。それゆえ、お前の子を産むために逢瀬を重ねていたのだ。本人もそう言っていたではないか。忘れたのか?」
「……されど、子桓様や龐徳殿に助けてもらわなかったら、儂はあのまま正気に戻らず、激しい性交の末に命尽きているところでした」
「まあ、そこは世間知らずなお妃だからな。自分は幽鬼で体力が無尽蔵だし、加減というものが分からなかったのだろう。俺も最初は悪鬼化した馮貴人がお前に祟っていると睨んでいたが、途中で考えが変わった。『そなたの子を産んでやろうと思ったのに』と言いながら流した彼女の涙に嘘偽りは無かったはずだ」
そう言いつつ、曹丕は棺の蓋をそっと撫でる。
「さてと……。おい、仲達。この蓋棺をどけるから手伝え。いちおう、答え合わせをする必要があるからな」
「えっ、棺の中を確かめるんですか? 桓帝の妃ということは、馮貴人は数十年以上前の人ですよね。棺を開けても、とっくに骸骨化しているのではありませんか?
「いや。俺が知っている馮貴人の怪異譚が事実ならば、きっといまも骸骨化していないはずだ」
「骸骨になっていない? それはどういう意味ですか?」
「いいから早くしろ。お前も馬超みたいに泰山環でお尻ペンペンされたいか?」
「わ、分かりましたよ。まったく、もう……」
司馬懿は渋々、曹丕と一緒に蓋棺を取り払い、下に置いた。
「し、子桓様。皇帝のご側室の棺を
だが、曹丕はいっこうに気にしていない様子である。
「ほら、鍾繇もこっちに来い。俺がついているからビビるな。祟られたら何とかしてやるさ」
「は、はあ……」
皆で棺の中をのぞくと――本来ならば葬玉の習わしに従って遺体は玉衣に覆われているはずなのに、玉衣が見当たらなかった。賊が侵入した際に、剥ぎ取られてしまったのだろう。
だが、司馬懿や鍾繇が驚いたのは、玉衣の有無などではない。棺の中に、左目尻に泣き黒子がある麗人が静かに眠っていたことだ。
眠っていた、と表現するしかあるまい。
手は
下半身のほうに目をやると、左股に血が滲んでいる。また、身に
「これはもしや、公子様が女幽鬼につけた傷……」
「その通りだ。死体に首が無ければ、その者は首無し幽鬼となる。幽鬼は本人の
「う、ううむ……。それにしても奇怪な。数十年を経ても遺体が全く腐っていないとは」
「墓を掘り起こしたら死体が腐っていなかったとか、埋葬者がまだ生きていたとかは、まあまあよく聞く怪異譚だ。しかし、彼女……馮貴人の場合は、遺体が生前と変わらぬ美貌を保っていたがゆえに、
曹丕が淡々とそう語ると、鍾繇が眉をひそめて「とんでもない恥辱ですと? それはいったい何ですか」と問うた。
だが、曹丕はすぐには答えず、ぽけ~っと話を聞いている小燕にチラリと視線を向けた。
「小燕。お前はもう冥界に帰っていいぞ」
「ほへ? あの、何かまだお役に立てることは……」
「もう無い。さっさと帰れ。しっしっ」
「は、はわわ……。私は犬じゃないですよぉ~。分かりました、今日は帰ります」
小燕は、曹丕と主人の司馬懿、ついでに鍾繇にも頭を下げると、フッ……と姿を消した。
彼女が幽鬼だという説明を受けていなかった鍾繇は、わずかに目を
「さて、邪魔者は消えたな」
「邪魔者って……。うちの小燕を雑に扱うのやめてくださいってば」
「邪魔者は邪魔者だ。いまから語る内容は子供には聞かせられん」
「子供には聞かせられない……というのは馮貴人のことですか?」
「ああ、そうだ。これは漢王室の秘事中の秘事ゆえ、あまり大声では言えんが――彼女の遺体は、盗掘者の賊たちによって凌辱された。大勢に
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